41.銀と黒
「征司さん?」
「……直視しない方が良さそうです」
灯りの範囲に入り徐々に浮き上がった石の面の実態に、傍に居る女の子の目の前に軽く手を翳す。
こちらも視界から入る呪術を軽減するまじないをかけた眼鏡の下で目を細めているが、丹田に力を込めていないとかなりキツイ。
「まともに食らうと意識を飛ばされそうですね」
向こうのテリトリーに引き摺り込み精神を侵して昏倒させる……実にそういう用途向きなのを差し向けてきたものだと妙に納得させられる。
更に距離が詰まるにつれ今度は空気からも浸食が始まる気配がし、意識を集中して二人分の空間をカバーするように結界を展開すれば摩擦のような反動が振動となって来て、絡み付いてくるようなあちらの力を組成を読み取りつつこちらの力で灼き切り相殺する。
その間、向こうの本体がどういう動向をしてくるかに注意を向けていたが完全にそれに特化しているタイプらしく直接こちらに攻撃してくるわけではなく呪いの圧が徐々に高まってくる、そういう反応を示していた。
まあ、こちらとしてはまだ対応し易くて助かるが。
「征司さん」
「……」
「私、やります」
そのせめぎ合いの最中、下から上がってきた声にどう返事をしたか迷ってしまった直後。
銀色の閃光がこの空間を満たしていた淀んだ呪詛を一瞬で消し飛ばした。
「これは……」
その強烈としか言い様のない浄化の力に思わず瞬きをし、それからそれを放った主に目を遣れば更に驚かされる。
幾つかの可能性を考えたけれどいつもは真っ直ぐ下に流れ落ちている黒髪が銀色に輝き羽根のように広がっていた。
ああ、あの時も傍にいてくれたのはやっぱりこの子か……そんなことを暢気にも考えてしまったところで。
「このまま、押し切ります」
そっと右手を相手に差し出すように伸ばせば空間に広がっていっていた力が一気に奔流になって石の面に殺到し包み込み、呪詛から生まれたであろうそれの力を洗い流すように減じさせ細かなヒビを走らせつつ凍結させていく。
そんな圧倒的な力が投射されていく中で、彼女の力が変質していくのにも気付く。
普段から何度も周囲にあることを確認していた透明な気配の中に異質なものを感じ、それが大きくなっていく……いや、包んでいるものが薄くなったことで露に?
「もう、充分だから……止めるんだ」
これが彼女の言っている力を行使した後に起きることの要因か? と思い至り、少なくともこれ以上させるべきではないと、そう一声叫んでから一気に相手に向かって駆け、跳躍する。
渾身の力で木刀を叩きつけこちらの刀身も破損するのに構わずねじ込みながら亀裂を広げさせそのまま体重をかけ落下させる。
こっちの手足にもそれなりの衝撃が走り痛みがないわけではないがほぼ二つに割れた石面が機能を停止しているのを確認しながら、意味は薄いと理解しつつもその両方が焦げるくらいに火を浴びせる。
そうしてから後ろ向きに数歩下がった後、元の場所へと駆け戻る。
「……大丈夫、ですか?」
「……」
全速で駆けよれば力無く頷いた憔悴した表情がゆっくりと傾き始め一定量を超えた途端に糸が切れたように崩れ落ちる。
女の子をこんな硬質で平坦でない、汚れた地面に倒れさせられないと、何とかそことの間に腕を差し込み支えることに成功する。
抱き止めた、と言うべき形だけれど非常時に付き後で誠心誠意謝るしかないか……そう思った次の瞬間、冗談めいた考えが吹き飛ぶ。
「これが?」
調子を崩して熱を出してしまうんです、と寂しそうに笑った言葉からは想像できないほどの、危険過ぎる体温。
あの時、かなり血を失った俺の手に対しても少し冷たいくらいだった指先とはまるで別物の。
「制御できなかった時でもこうはならなかったぞ……」
過去の記憶とリンクして不甲斐ないことに少々呆然としてしまった意識が、力無くシャツを引く指に呼び戻される。
「……手くびを」
「え?」
「しばって、くださ」
朦朧としているだろうに辛うじて唇を動かした言葉に先ほどの仕草を思い出す。
彼女が左手に握っていた鈴の付いた結い紐を奪うように受け取って言われた通り髪ではなく手首に、彼女の体の一部に巻く。
銀と黒が混ぜこぜになっていた髪が見る間にいつもの艶やかな黒に戻っていくとともに、危険なほどの体温もほんのわずかに持ち直す。
「……」
もう一度大丈夫かと聞いてしまいそうになったけれどそんな訳はなく……話させることさえ躊躇うほどだった。
ただ、ほんの少しでいいので楽になればと、心配になるくらい軽い身体を膝立ちになりつつ右膝と左手で支え、もう片方の手で懐に応急処置のために入れていた割るタイプの保冷剤を握りつぶした後、直接宛がうよりはとハンカチに包んで額に乗せる。
そうした後、あの時彼女がしてくれたように……そして昔年下の子を看病した時のように気休めになればとそっと指先を握って。
それから。
先ほどからもしかしたならばと考えていたとある手法を、記憶を辿りながら実践した。
「せいじ、さん?」
「はい、居ますよ」
数分間苦しそうな表情がそれでも僅かに収まったか、と見て取れた後、程なくして瞼がうっすらと開く。
普段の鈴のような声色が掠れているのが非常に惜しく感じる。
「……ふふっ」
「?」
「この前と、逆ですね」
そんなことを言っている場合か、と言いそうになったけれど、実は同じことを考えていたので苦笑いで済ませる。
「まだ……帰れてないですか?」
「そんなに時間は経っていませんよ」
「……え?」
弱々しくもそれでもかなり驚いた様子に具体的に説明する。
「五分も経っていない筈です」
「!」
もう一度驚きに動いた表情が、ゆっくりといつものものに近くなりながら囁かれる。
「征司さん」
「はい」
「何か、してくれましたか?」
「……大したことはできていませんよ」
言いながら、ずれかけていた額のハンカチと保冷材の位置を直す。
このくらいですよ、と。
「声が」
「……」
「聞こえたような気がしたんですが」
見上げてくる視線から目を逸らしてしまう。
「こうなってしまうと、いつもなら二日は気絶してしまうんですけれど」
「……それより、支配者が居なくなったので空間が徐々に狭まってきています、そろそろ一気に崩壊しますので」
「どうしていれば、いいですか?」
尋ねてくる声に、逆に聞き返す。
「まだ身体に力が入る感じではないですよね」
「……いつもよりかなり楽なんですけれど」
気丈な笑顔は見せてくれるものの、少し動かしている指先はともかく全身はまだぐったりとこちらに預けられている。
「まだちょっと、動くのは自信がないです」
「そのまま、楽にしていてください」
「はい」
背中を支えていた左手はそのまま、右手を両膝の下に入れて抱え上げる。
そうしながら二人分の空間を硬質化させた魔力で覆う。
「……その、こんな奴の、それで申し訳ないですが」
「そんなことはないのですけど……」
一度口ごもった後、遠慮がちに聞かれる。
「こういう時は」
「はい」
「……重くないですか? と聞いた方がいいのでしょうか?」
「むしろ軽すぎて怖いくらいです、と答えますが」
すると、少しだけ頬が膨れる……そんな元気にこちらとしては安心できるが。
「征司さんが、力持ちなだけでは?」
「……こちらの口からこれ以上は申し上げにくいですね」
コンプライアンスとかあれやこれやの点で……華奢な少女を抱き上げている時点で今更だけれど。
「……お友達には羨ましいと言われたりもしますけれど」
「まあ、その気持ちもわからんではないですが」
「これでも、一生懸命食べているんですよ」
「……水音さんは頑張る人ですからね」
ただ、それでも過去の実績から思うに最高記録でもこちらの通常時の三分の一とかなんだろうな、と思う。
そんなことを考えると……。
「ふふふっ」
「……失礼しました」
抱き上げている女の子に、至近距離で、聞かれてしまう。
「どうにも燃費が悪くて」
「食いしん坊さんで羨ましいです」
抱えているから離れられないし、頭を搔こうにも両手は塞がっていて……精々そっぽを向くしかできない。
そんなことをしているうちに、本格的に引き込まれた亜空間は狭まりうっすらとだがあちらに居る幾つかの気配も検知できるほどに本来の場所が近付いてきていた。
「帰りましょうか」
「はい」
小さく頷いた後、何かを待っているような視線で見上げられる。
「こんな所じゃ、おちおち食事も出来ないですしね」
そんな軽口がご希望通りだったのか、彼女は小さな笑顔で同意してくれた。




