34.刺身包丁と泡立て器
「あと三分くらいか」
そんな呟きを二〇分前から三分おきにしている。
予定時間にしっかり余裕をもって準備をしたはいいが、余った時間の有効活用が下手過ぎてこんなことになっていた。
見られて困るものと言えば下着類くらいなものだがそれは寝室の方にしっかりと仕舞ったし、そちらは流石に進入禁止措置を取るので問題はないし、リビング部分はきちんと片付いているとは思う。
調達を買って出たタコは冷蔵庫にあるし、数種類のソフトドリンクと紙コップ、紙皿に割り箸も人数分の倍はある……つまり。
一番準備できていないのは俺の心の方かな? と思ったところで約束の時間ジャストとなり、そこから更に二分置いたところで一階玄関の呼び出しボタンが押されて確認画面にレオさんとワンコちゃんの顔が大写しになった。
「や、オジサン」
「今日はお招きいただいてありがとねー」
一階のフロアまで迎えに行けばそんな風に朗らかに笑いかけられる……お招きするような流れを作ってくださったのはどちらさんでしたっけ? と少しは言いたくなるけれど今更それは女々しいかとぐっと飲みこむ。
「まあ、とりあえず部屋の方へ行きますか」
「っすね」
「賛成です」
エレベーターへ向かう途中で時折すれ違う別の階のおばさまに会釈する、が。
越してきたなりの時に180㎝後半の身長に二度見されたけれど、その際以上に驚いたような顔で見られる……まあ、こんな大男が綺麗な女の子(と虎柄のスカジャン着たヤンキーも)を複数名連れていれば悪目立ちはすると思う。
……どうか必要以上に疑われて通報とかされませんように。
「じゃあ、どうぞ狭いところですが」
最上階に辿り着き念のため施錠していたドアを開いて五人を招き入れる。
「お、おおー」
「スゲー」
二四階の僅かに海も見える眺望に虎とワンコちゃんがそれこそ猫と子犬のように窓の方に寄っていく。
「すごい、お部屋ですね」
「まあ、それなりに」
確か若い販売員さんに斡旋された際にテレビでも高級マンションとして紹介されたことがあるとかなんとか自慢された覚えがある。
「おじさまお一人でもったいなくは……ないですか?」
「あー……」
栗毛ちゃんのごもっともな感想に、頭を掻きながら経緯を明かす。
「一度会ったことはあると思いますが、ウチの若様が、ね」
「弟さんが?」
「こちらに越すときの部屋探しに面白がって着いてきて……ここを見たときに『本社に来た時に泊まらせてもらうのにいい感じですね』とか気に入ってしまって」
で、それに一切異議を唱えない上に財布の紐が緩んだお師匠が即金で買った、という次第。
「弟さんとも、仲良しなんですね」
「……まあ、悪くはないです」
どちらかというと変に気に入られているというか、何と言うか。
「お金持ちなのですね、おじさまのご実家」
「いや、まあ、訳アリ格安価格ではあったらしいんですが」
「あー、それね」
真っ先に買い置きしたアルコール類の保存場所をチェックしていたレオさんが笑いながら口にする。
「セージは、これ、大丈夫な人?」
胸の前で両手を下に垂らすようなポーズをとる。
「ダメな人はこの業界に居れないでしょう」
「ま、そっか」
関わる前の小学生の頃は一人だけ見えてしまったため気味悪がられたりもしたが……それは別の話。
「ここ、出たらしいのよ」
「そう、なんですか」
「なるほど」
軽くおっかなびっくりで辺りを見回す水音さんの隣でもう答えに至ったのか栗毛ちゃんが軽く頷く。
「で、他にもここの管理会社の出そうなところを去年纏めてお祓いした関係でお安くしてもらえるみたいよ?」
「そういうことなんですね」
「ちなみに、二番隊のマッチョさんたちがやってくれたみたい」
「あー……」
山伏にお坊さんだもんな、滅茶苦茶そっち方面に強そう。
その場の全員が納得、と頷いたところで。
「そうそう、お姉さま」
「あ、そうでした」
栗毛ちゃんが肩に掛けていたトートバッグから風呂敷包みを取り出し手渡す。
「征司さん、こちら……その、つまらないものですが」
「気にしなくてもよかったんですけど、有難くいただいておきます」
受け取らないとこの子は絶対引き下がらないだろうし……包装紙から判断するに美味しい高級ハム、断る選択肢など無い。
「あ、セージ、あたしからも」
「どうもありがとうございます」
細身のワインボトルを手渡される。
「ちょ、何その微妙な顔」
「……出所を伺っても宜しいですか?」
「パパのワインセラー」
ほーら、ちょっと危ない物件じゃないか。
「曰くつきじゃないです?」
「何だったら、あたしも共犯するけど?」
「本日はノンアルコールです」
「ちぇー」
唇を尖らせた後、ふっと笑って肩を叩かれる。
「大丈夫、パパが普段飲みにワインショップからサブスクしているのを許可貰って一本抜いただけだから」
「でしたら、有難く頂きます」
「うん、むしろ感想聞かせてくれたパパ喜ぶかもよ」
「なら……機会があれば」
頷きながら同じ所に勤めているけれど転勤時の一度きりしか顔を見ていないしそうそうあるかな? とか思っていると。
スグにまた来るよ、と小さな呟きが聞こえた……え? 何? ちょっと怖いんですけど。
「ねー、ねー、オジサン」
「はい?」
虎と連れ立ってドッグランよろしくリビングを一周しながら物色していたワンコちゃんが戻ってくる。
お手洗いの場所、最初に言っとくべきだったか?
「あっちのドア、開かないんだけど」
「……そりゃ、寝室とかゲストルームとかですからね」
そう言うと、残念そうに唇を尖らせられる。
「学校じゃ、オトコノコの部屋入ったらベッドの下を探せってみんな言ってたんだけど」
「あ、杏!」
「あー、言うよねー」
ちょっと顔を染めて制止する水音さんに、面白そうに笑うレオさん。
「買い置きの肌着くらいしか無いですよ」
そういうのは今はもうデジタル……コホン。
で、そこの男子学生は無言で目を泳がせて何を焦ってるんだ。
「そ、それよりとても綺麗になさっているんですね」
お、強引に話題を変えに来たぞ……ちょっと珍しい。
「確かに、思った以上に生活感無い部屋だよね」
「住み始めてまだ二か月ばかりなもので」
リビングに最低限の家具とテレビ、そしてそれに繋いだ……。
「ってか、このゲーム機古くないっすか? アニキと昔遊んだ奴じゃん」
「あー、昔学校で話題になっていたのを今更やりたくて買ったんだ……適当にやってていいぞ」
ソフトも数本買って最初は面白くないこともなかったけれど、二か月ばかり経って最近は手持無沙汰な時の慰み程度に。
ああいうのは、話題を共有するからいいんだよな。
「昔ってどれくらいっすか?」
「軽く一〇年ばかりだよ」
「おじさまにも学生時代はあったんですね」
「そりゃ、ありますよ……」
想像できない、とでも言いたそうだけど一応大卒ではあるからね、大学の方は最後には半分以上行ってなかったけど、一夜漬けと不思議な力で一応経歴に卒を付けれたのは内緒だ。
うん、ごん太なの、ウチの実家。
「それはそうと、さっきからなんかいい匂いしない?」
「ああ、もしかしてこれですか?」
鼻をひくつかせたワンコちゃんにリビングとキッチンの間に置いた彼女なら中に丸まれそうな段ボールの蓋を軽く開けて見せる。
「おがくず?」
「まあ、そう言ったらそれまでですが……燻製用のチップですね」
「おー、そいえば前に言ってたね」
何包みか入っている袋の上で香りを嗅ぎながら呟く。
「オジサンの趣味ってやつ?」
「まあ……そう言えるかもしれないですね」
「あとは、釣り、ですか?」
「うーん、まあ、一応そうとも言えるかも」
水音さんの指摘に曖昧に首肯すると、レオさんに笑い飛ばされる。
「やっぱり、全部食が絡んでるんじゃない」
「……否定はできないですね」
そんなことを言っていたら正午近い時間もあって軽く空腹が主張しそうになってくる。
「さて、そろそろ本題に入りますか」
「おー……でっかいタコ」
冷蔵庫から取り出した今日は真っ当な蛸をまな板の上に置くとワンコちゃんが目を輝かせる。
「ちょっと気張って今朝港まで一っ走りして新鮮なの仕入れてきました」
「立派ですけど……それに、そんなにしてまで」
「ああ、大丈夫」
果たしてたこ焼き何個分でしょうか? と不安そうな顔をした水音さんに苦笑いしてそうまでした理由を教える。
「残りは今夜の酒の肴です」
あと、ついでに他に美味しそうな刺身向きの鮮魚を数尾に干物まで調達してきた。
折角、漁港直結の道の駅まで行ったのだからそのくらいはね?
「……飲み過ぎないでくださいね」
「気を付けます」
一番大振りの包丁を取り出しながらそう返事をすると、リビングのタコ焼き器を予熱しているテーブルの方から生地作り班の大きな声が聞こえてくる。
「ちょっと、虎ちゃん、パワーはいいんだけどだまになってる」
「難しいっすね……」
「あ、ちなみにあたしはもっと下手だかんね! できるのは水を足すだけ!」
ボウルを持つのもやや怪しい二人にむしろ蛸を切るのを交代したほうがいいかな? と思ったところ。
「仕方ありませんね」
「お」
先ほど手土産を出してくれたトートバッグから畳んだグレーのエプロンを取り出し身に着けながら栗毛ちゃんが二人のところに行く。
「私がやりますので」
「よ、よろしくっす」
虎から渡された泡だて器が規則正しいリズムで回り始める。
「「おおー……」」
戦力外通知を自他ともに認めたのか二人がカーペットに正座して軽く拍手する様を見ていると、少し自慢げな声がする。
「ちづちゃん、お料理もお裁縫も得意なんですよ」
「何となく、わかります」
包丁の手元は気を付けながら相槌を打つ。
「ただ……」
「はい?」
ちょっとだけ、頬がフグになる。
「その分、私には何もさせてくれないんです」
「ははは……」
わかる気がするな、と思いながら……じゃあ、こっちをやってみます? と言いかけた軽口を慌てて引っ込める。
万が一指先の薄皮一枚でも切られても後が怖いし、極論この大振りの包丁持たせるのも緊張するくらい手や指が細い。
神楽の時に鈴を持ったりするし、そもそもあの装束の時に護身刀と思しき白木の鞘を付けているのだからそこまで非力な筈はなさそうだけれど、何となく。
「……」
「どうしました?」
そういえば、今更ながら今日は色合いは普段通り水色のワンピースに薄手の白い上着だが軽く腕をまくっているため細腕が露わになっていて、こちらも別の意味で新鮮だと思ってしまう。
新鮮というか、瑞々しいというか。
思っただけで、口は別に動かす。
「いえ、何でも……ただ」
「はい」
「上手い人に任せるのも一つの手だとは思います」
そう、確かにその通りで。
「おじさま」
「はい」
「天かすを入れるの、まだ少し早いです」
「……はい」
完全にお奉行様になった栗毛ちゃんの指示に大人しく頷く。
他の四人は大人しく座らされているので、まだ使える方だとは思っていてもらえるのだろうか?
「生焼けは、許しませんからね」
「ちょーっとくらいなら別に」
「駄目です」
「はい」
まあ、ただ、そうやって出来上がったたこ焼きは全員が顔を綻ばすくらいには美味だった。




