15.紅い蝶と白い雪
「征司」
「はい」
隊長さんに奢られたチョコレートとコーヒーをお供にのんびりと事務処理を終えて寛いでいればワーキングスペースの入口から呼びかけられる。
「……」
「どうしました?」
短く整えた黒髪と耳元を飾る紅い宝石を揺らして小首を傾げる女性に小さく笑って応答する。
「いえ、お師匠の姿をここで見るのも少し可笑しいな、と思って」
「かもしれませんね」
薄っすら笑う様を見ながらノートパソコンとタブレットをビジネスバッグに仕舞って立ち上がる。
相変わらず一部の隙もないな、と感心させられてしまう……年下ながらも数々の武術を収めて暁の護衛を務める彼女は同時に中途入社の俺を体術面で鍛えてくれた人でもある。
そのスパルタっぷりたるやこうやってご尊顔を見ているだけでも全身に様々な痛みが蘇る……頭でなく身体で覚えろ系の教育方針でした。
「そろそろ若様の用事も終わるので準備を」
「了解です」
基本外では暁の傍を離れないのにこうしているということは護衛の同席NGな会合だろうか? よくわからないけど、そこで決まったことが降りかかってくることがある身としては他人事でないのが痛いところだ。
「華さん、兄上もお待たせしました」
護衛対象のスケジュールの把握に関しては正確無比なお師匠の読み通り、最上階から降りてきたエレベーターの中から暁が姿を見せる。
しかし、いつ聞いても暁からのお師匠の呼び方の可愛らしいこと……明松愛華、だから華さん。
「……」
いや、そもそもお師匠の本名が可愛いのか。
他の人間がそうしようとすると例え一門の当主ですら真顔で拒否されるんだが。
あの好き放題生きているの権化な親父殿が頭を下げて謝るところを見ることになるなど想定したことすらなかった。
「!」
「何か、愉快なことを考えていませんでしたか?」
「いえ、滅相も」
隣から細いヒールの踵がそっと足の甲付近に乗せられ、軽めの殺気を当てられる。
「本当、兄上は思ったことを言い過ぎますからね」
「……今回は口には出してないんだけど」
俺たちの前を通って転移用の部屋に入っていく暁に二人で続く。
「さて、こちらの件を片付ける許可は得てきましたのでささっと済ませましょうか」
歩きながら仄かに発光する指先で転移先を書き換えている様子、専門でもないのに鮮やかなものだな、と感心していると。
「では、行きますよ」
「ちなみにどこまで?」
全く聞かされてなかったので遅まきながら尋ねる。
すると楽しげな顔で答えが返ってくる。
「兄上も見たことはある場所だと思いますよ?」
「お?」
果たして目の前に現れた光景は暁の言葉通り確かに見たこと自体はある場所だった。
ただ、その媒体が何処かのタイミングで点けっぱなしにしていたテレビだというのはかなり予想外だった……確か、都市圏に大量の雨が降った時に水を逃がすための地下施設、だったか。
その、こちらに転勤してから初めて見るくらい平らで広い空間は春も終わりだというのに吐く息も白いほど良く冷やされていた。
それにそもそも、着地したところが氷原の上。
「入るのは初めてだけど、空調までついているんだっけ?」
「残念ながらそうではないんですよ」
わざとらしくとぼけてみれば暁が愉快そうに奥の一角を指差す。
そこは春どころか真冬の時期に山奥の滝がニュースに映されたかのような幾重にも氷の壁が積み重なったバリケードの様相を呈していた。
「恐らく雪の精あたりが沢に流されてここまで辿り着いた後、都会の穢れや何やらを吸収してこうなってしまったのでしょう」
「倒すこと自体は容易いのですが」
お師匠の説明を暁が引き取る……サラッと言うが精霊クラスに爪先は踏み込んでるくらいの霊圧が来ているぞ?
他の隊が一旦退いたのだって妥当な判断だと思うくらいだ。
「如何せん、ビルの一棟二棟を吹き飛ばすくらいなら都市ガスか何かのせいにして誤魔化してもらえるのですが、ここまで高額な場所だとそうもいかないのですよね」
「お偉いさんが泡ふいてぶっ倒れそうだ」
肩を竦めながら応じる。
多分、そこにはあの人のいい総務部長も含まれそうなので……できれば避けたい、かな。
「そこまで言えば、判りますね?」
「了解です」
お師匠の言葉に右手を二回握って開いてして見せる。
正直面倒だし俺要らないだろう、と思っていた気分は消えていた。
「では、久しぶりに三人で参りましょう」
そしてそれを見ていた暁が楽し気に散歩に行くような気軽さで言ったのだった。
「気付かれましたね」
「はい」
無造作に徒歩で近付いていくと周囲に満ちていた圧が明らかに方向を持って向けられる。
城壁のような氷の向こうに白黒の……いや、白かったはずの姿が泥水を吸ったかのように穢された小さな雪の精の姿があった。
それが鋭い視線を向けてくれば会話する度にほんのり白かった息が吐いた瞬間に真っ白になるくらいに冷気も強まる。
「若様のコートを置いてきたのは失態でした」
「冷える前に終わらせるから問題ありませんよ」
警告されるように向けられた霊圧を微風のようにさらりと流して更に進めば空中に幾つもの氷柱が生じてこちらに向かい一斉に放たれる。
が、ヒールの音を一度だけさせて前に出たお師匠が緋色の布を解いて大薙刀を振るえば全て粉雪に細断され吹き散らされる。
いや。
「征司」
一本だけ朱塗りの柄で弾き上げられた氷柱が錐揉みしながらこちらへ落下してくる。
それを右手で頭上で掴み取り少し強めに握る……表面が僅かに溶ける感触の中、それが有している力の形を理解する。
今度はこちらが進み出て意識を集中し右手を突き出し開く。
手から落下した氷柱が砕けるのと同時に幾重にも重なった氷の壁に異変が生じる……正確にはこちらが生じさせたのだが。
いつもこれをする時にもいつかテレビか何かで見た映像を思い出す、血栓を起こした細胞が壊死していく様をハイスピードで撮ったものだったか。
真正面から向かえば多分氷に阻まれ、砕く端から再生され、大規模攻撃はこういう施設の中だから躊躇われで埒が明かなかったのだろう、何せ膨大な水が近くにある場所に氷の霊だ。
だが。
もう強度も再生力も喪失し、新たに増えることもなくなった氷の壁にその主が戸惑っている隙に背後に暁が短距離転移で現れる。
「今度はこんなところに迷い込んではいけませんよ」
指先に灯った炎が一羽の蝶になり羽ばたいて雪の精の胸元に止まる。
そう見えた次の瞬間には解放された膨大な熱量で標的は文字通り霧散していた。
「……上手く雨になって山奥に降ってくれればいいのですが」
「はい」
「それを祈ろうか」
三人してコンクリートの天井の更に上を見上げてから。
帰ろうか、という流れになり。
そして。
「それはそうと、兄上」
「ん?」
「会議やら何やらで遅くなってしまい、そろそろ割と空腹なんですが」
兄にたかるのは弟の特権、と言わんばかりの笑顔で食えない義理の弟は小首を傾げた。




