百合色ファーストクリスマス
高等部を卒業し、ぼくはひとまず実家へ戻り、彼女はお姉さんのアパートへ転がり込んだ。
ごたごたの絶えない実家ではあるが、ぼくの希望する大学へ行かせてくれるのを条件に戻ることになった。母さんの愛情のうっとうしさに変わりはなくとも、あと四年間のガマンガマンと自分に言いきかせている。
彼女は専門学校へ進学するにあたり、学校の近くであるお姉さんの住むアパートへ一時的にお世話になることになった。独り暮らしができるだけの資金が貯まるまでというお姉さんの計らいだった。
生活費はお姉さんが出してくれるとはいえ、学費と貯金を稼ぐため、彼女は早朝にパン屋さん、夕方からは居酒屋でせっせと働いた。どうにかこうにかある程度の貯金ができたのは半年後だった。
気ままなキャンパスライフを送るぼくとは違い、彼女は学校にバイトに毎日忙しかった。寮生活で毎日一緒にいられた時がどんなに恵まれていたのだろうと思い知らされた。ぼくは高校卒業と同時に免許を取得したので、親に大学入学祝いで買ってもらった車で彼女をバイト先に送るだけのデートになる日もあった。
九月中旬、ぼくにとって待ちに待った引っ越しの日がやってきた。
少しでも費用を削減するため、引っ越し当日はぼくが車で往復した。ベッドやタンスなどの大きな家具はないので、ぼくと彼女、そしてお姉さんの三人でも楽勝だった。
「もちろん、合鍵くれるよね?」
「それはまぁ……いいけど……」
助手席で彼女がごそごそとバッグをあさりだした。ぼくはハンドルを握ったまま、「『けど』とは何だ、『けど』とは」とツッコむ。恋人として当然じゃないのか? とちょっと傷つく。
「全部片付いたらね? あと、車出してくれた御礼に夕飯はあたしがごちそうする」
「いいよ、そんなの。車出してんのなんていつものことだし、むしろ引っ越し祝いでぼくがお寿司でもごちそうするよ」
はっきり言って、うちは金持ちだ。そして彼女の家は貧しいらしい。だから彼女は倹約家だし、自立心も高い。バイトもせず親からの小遣いでのほほんと生きてるぼくがおごると言っても、それなりの理由でもない限りはそうですかとごちそうさせてくれない。
最後の荷物を新居である二階の一室に持って上がる。築四十年の木造二階建て。塗装の剥がれかかっている外階段は少々揺れる。造りはどうあれ内装は奇麗にされているので、家賃の安さを考えれば問題ないと彼女は言う。
「ふー……。あとは布団にシーツかけ直せば、今日のところはとりあえず寝れそうだね」
専用袋から布団を引っ張り出したぼくが一息つくと、百均で買い揃えた食器をシンクに収めた彼女が振り返った。
「うん、ありがとね、茉莉花。座ってて?」
そう言って彼女はシンク周りの拭き掃除を始めた。荷物を入れる前にぼくが掃除機をかけておいたのだが、なにせ調理や洗い物など日常的なことはほとんどしたことがなかったので、シンク周りの掃除など思いつきもしなかった。
座っててと言われても、ソファも座椅子もクッションもない。かといってアパートの往復と運転と荷物運びで疲れたので一休みはしたい。朝も夜も立ち仕事をこなす彼女がたくましく見える。お言葉に甘え、1K六畳のフローリングであぐらをかき、壁にもたれた。お尻が冷たい。
冷蔵庫と電子レンジはバイト先の先輩がお古をくれたらしい。コンセントを入れるとブィーンという頼りない音と共に、冷蔵庫の中が明るくなった。彼女がその中も丁寧に拭いていく。
引っ越しのためにバイトを休んだとはいえ、常にせっせと手を動かす彼女の姿を眺めていると、座っているだけで罪悪感すら芽生えてくる。居たたまれなくなったぼくは「飲み物買ってくるよ」と部屋を出た。
コンビニで缶コーヒーとジンジャーエールを二つずつ、それと適当におやつもいくつか買った。ビニール袋をぶら下げアパートの階段に足をかけたところで、一階の部屋を覗き込む大きなネコを見つけた。
黒ネコはじーっと中の様子を観察しているようだ。ペット禁止のアパートと聞いているが、メダカでも飼っているのだろうか? ぼくの視線に気付いた黒ネコは、目が合うなりぷいっと背を向け住宅街へ消えていった。
なんだったんだろうか、と改めて階段を昇ろうとすると、今まで黒ネコが覗いていた部屋の住人が出てきた。人の良さそうなおじいさんだった。目が合ったので、とりあえず会釈だけした。
「あぁ、お二階に引っ越された方? 確か相葉さんだったかな?」
呼び止めるようにおじいさんが話しかけてきた。彼女の名字を当てられ、ぼくは階段から足を外し振り返った。
「いえ、その友人というか……」
「そうでしたか。わたしはここの大家でねぇ……」
大家さんはにこにこと近付いてきた。オンボロアパートだけに入居者が決まって嬉しいよだの、奥さんが亡くなって三年経ってどーのこーのと長話を始めた。
それよりなにより、ぼくの視線は大家さんの肩に釘付けだった。長話もほとんど耳に入らなかった。黒ネコが部屋を覗いていた理由はこれか、と合点がいった。
「あぁ、この子かい? この子は妻が大事にしていた子でね、オカメインコっていうんだよ? かわいいだろう?」
得意気に指を差した大家さんの右肩には、黄色い羽根の小鳥がちょこんと止まっていた。頬紅を付けたようにほっぺがオレンジ色だ。頭頂部ではニワトリのように鶏冠がひらついている。くりくりしたつぶらなお目々がじっとこちらを向いている。
「かわいいですね。逃げないんですか?」
「逃げないさ。とても懐いているからねぇ」
大家さんがインコの前に人差し指を出すと、インコはその指にひょいと乗り移った。得意気に「ほらね?」とぼくに近付けてくる。インコを間近で見たことのないぼくには、その光景がとても新鮮だった。
「へー、かしこいんですね」
「ははは、褒められたぞ? よかったなぁ、ぴーちゃん」
インコは答えるかのように、短く「チュッ」と鳴いた。
それからも大家さんの長話は数十分続いたが、郵便配達が来たタイミングで隙が生れたので、人なつっこい大家さんとインコに挨拶をし、ぼくは彼女の部屋へ急いだ。
「へぇ、手乗りインコかぁ。懐かしー」
遅くなったので彼女を怒らせてしまったと思ったのだが、ぼくが大家さんに足止めをくらったのだと言い訳をすると、意外にも彼女はキラキラとお目々を輝かせた。
「懐かしい? 汐音んちも飼ってたのか?」
「ううん、うちじゃなくて友達がね。小学校の頃、羨ましくて何度も遊びに行かせてもらったなぁ」
「そうなんだ? 汐音が鳥好きだったとは初耳だよ」
「鳥だけじゃないわよ? 動物はなんでも好き」
そう微笑む彼女だが、ぼくのことはなかなか『好き』って言ってくれないくせに……とちょっぴり羨ましくなった。
さすがに引っ越し初日はお互い疲れたので、夕飯を食べて早めにおいとますることにした。もちろん合鍵ももらった。明日は夜十一時までバイトだと聞いて寂しくなったが、魔法の鍵を使えばいつでも二人の空間にいられる。そう自分に言いきかせて帰路についた。
*
週末、ぼくは昼前に彼女の部屋を訪れた。今日はパン屋さんのバイトも学校も休みなので、夕方からの居酒屋までは一緒にいられる。引っ越して初めてのおうちデートにぼくの足取りは軽い。
最寄りのコインパーキングに駐車し、コンビニで買った昼食をぶら下げて外階段を昇ろうとすると、またもや大家さんに呼び止められた。
「こんにちは。お二階の相葉さんのお友達だったね? 仲がいいんだねぇ」
「こんにちは。えぇ、まぁ……仲はいいですね」
相変わらず人の良さそうな大家さんの肩には、例のオカメインコがいた。つぶらなお目々がじぃっとぼくを見つめている。品定めをされているような気分だが、ぼくが「ぴーちゃんもこんにちは」と挨拶すると「オハヨー、ピーィチャン?」としゃべった。
「えっ! この子しゃべった?」
「はっはっは。妻が熱心に教えたからねぇ。他にも色々しゃべるよ? かわいいだろう?」
「へぇ……すごいですねー!」
ぼくはぴーちゃんを覗き込みながら、もう一度「ぴーちゃん、こんにちは」と話しかけた。だが、今度は短く「チュッ」と鳴いただけだった。
「ははっ、毎回はしゃべらないよ。気まぐれなのさ。……そうだ、お菓子を持っていかないかい? 貰ったはいいけど、老人一人じゃ食べきれなくてね。相葉さんと食べるといい」
「え、いや、でも……」
大家さんはぼくの戸惑いなどそっちのけで「ちょっと待っててね」と部屋へ入っていく。ぴーちゃんは首を回し、部屋へ入るぎりぎりまでぼくをじっと見つめていた。頭の鶏冠みたいのを立てたり寝かせたりしながら。
大家さんがくれたのは温泉まんじゅうだった。小粒だが大量に入っていたらしく、六つもくれた。何年も前に食べたきり縁のなかった温泉まんじゅう。たまには和菓子もいいな、なんて思いながら彼女の部屋の扉を開けた。
「えー、あたしは一度も会ったことないのにまた会ったの? じゃあ御礼がてら引っ越しの挨拶行こうかなぁ」
まんじゅうを差し出すと、彼女は困ったようにこめかみをぽりぽりした。玄関を入ればすぐ見渡せる部屋内はすっかり奇麗に片付けられていた。というよりも、あまり荷物がないので殺風景だ。
「逆に挨拶行ってなかったのかよ。最近は隣近所に挨拶する風習ないとはいえ、下に住んでるんだから大家さんくらいは挨拶しなきゃだろ」
「んー、まぁそうよねぇ……」
彼女は気まずそうに「紅茶でもいい?」と食器棚代わりのラックに向いた。挨拶の品を買えるほどの余裕がないのだろうか……。『貰ったんだけどぼくは使わないから』とかなんとか理由をつけ、タオルでも持たせようか、なんて思いながら彼女の背を眺めてた。
*
九月下旬。新居での生活は、一緒にいられる時間が今までより少しだけ増えた。
その日は早く上がれるからと言われ、ぼくは八時頃アパートに着いた。昼間はほとんどの確率で会う大家さんも、さすがにこの時間だと部屋にいるらしい。灯りが漏れていた。
その灯りの漏れる窓を覗き込む黒い影が目に入った。以前の黒ネコだった。ぴーちゃんを狙っているのだろうか? ぼくが一歩近付こうとすると、気配を察したらしくサッと身を隠してしまった。
その黒ネコの去ったあとに、もう一つ黒い物があることに気付いた。黒ネコの後ろにいて見えなかったのだが、同じような黒ネコがもう一匹いた。
いや、正確には黒ネコの赤ちゃんだ。手の平サイズの子ネコだ。母親だったのか、先程の黒ネコが急にいなくなってみーみーと鳴きだした。
「かわいー! 子ネコじゃなーい!」
背後から女性の声がした。ぼくは聞き慣れた、だけど聞き慣れない高音の声に振り向いた。
声の主は彼女だった。まかないの焼き鳥が入ったビニール袋をぼくに押しつけ「かわいー!」を連発している。ぼくを叱る時はドスを効かせるくせに、聞いたこともない甘い声で悶絶中。
「汐音、親ネコがすぐ近くにいるかもしれないから触らないほうがいいよ」
「にゃーん! かわいーねー、お前! おいでおいでーぇ」
ぼくの忠告も虚しく、彼女はみーみーと鳴き続ける子ネコを抱き上げた。
彼女の腕に抱かれた子ネコをよく見ると、先程の黒ネコとは違い、子ネコには白い眉毛があった。鼻と口周りも白い。柴犬でよくみかける色合いだが、ネコとなると珍しい。
「ねぇねぇ。この子、内緒で飼っちゃダメかなぁ? 声も小さいし、イヌと違って散歩もしないからバレないよね?」
愛おしそうに子ネコを抱きしめ、彼女が上目使いをしてくる。ぼくとしてはめちゃめちゃ保存したい絵面だが、残念な説得をしなければならない。
「いやいやダメだろ。このオンボロアパート、隣がガタガタするだけで響くんだからすぐバレるぞ? かわいそうだけど親がいるから寂しくないって」
「えぇー……」
なおも鳴き続ける柴犬みたいな子ネコ。彼女はその顔を名残惜しそうにしばらく見つめていたが、無言でそっと下ろしてやった。
「偉い偉い。さっ、冷めないうちに食べよ?」
ぼくが促すと、しょんぼりしている彼女もこっくり頷いて歩き出した。
ところが、今度は子ネコがぼくらのあとをついてきた。さすがに階段は昇れないらしく、一番下でみーみーと見上げている。これにはぼくも心が痛んだが、振り返る彼女の手を引き部屋へと急いだ。
夕飯時もまかないの焼き鳥をつまみながら、彼女はしばらくしょんぼり俯いていた。「しょうがないだろ?」と言いきかせるぼくでさえ、後追いしてくる姿と鳴き声が耳から離れなかった。
子ネコは数日の間、アパートの辺りをうろうろしていた。一緒にいた親ネコはどうしたのだろうと見守っていたが、あれ以来見かけていない。通りすがる人たちも「かわいー」と撫でていく。彼女もまた、アパートを後にしようとしない子ネコに「ただいまぁ」と一撫でして帰ってくるようになった。
「ちょっと痩せてきたと思わない? あの子……」
彼女が窓から身を乗り出し見下ろしていた。声が切ない。ご飯をあげたいのはやまやまなのだが、地域ネコ問題に難しい昨今、ご飯を与えるという行為は顰蹙をかってしまうこともある。
「しょうがないよ。それにしてもあの黒ネコは親じゃなかったのかなぁ? 全然みかけなくなっちゃったし。ふつー、自分の子ほっとくかー?」
「……ね」
ぽつりと返す背が、『どうにかしてあげたい』と物語っている。だが、飼ってあげられないぼくらにできることは見守ることしか……。
「里親、探そうか」
ぼくが肩に手を置くと、彼女は涙目のまま「うん……」と力なく頷いた。
うちは母さんがネコアレルギーなので飼えない。引き取ってもらうなら、できれば知り合いがいい。それも信頼できる知り合いが。彼女がたまに会いに行けるような環境ならなお有り難い。
ぼくはまず、ネコ好きな人をピックアップした。そのうち飼ってくれそうな人を絞り出す。そして辿り着いたのが、母校の前にあるコンビニのお姉さんだった。
名はもみじさんという。実家暮らしですでに三匹のネコがいるらしく、「里親さん見つかるまでなら預かるよ」という条件で快く引き受けてくれた。
早速彼女に朗報を伝えた。初めは複雑な表情をしていたが、ネコの扱いに慣れているもみじさんのお宅なら……と納得してくれた。
ぼくはその夜、子ネコをもみじさん宅まで連れて行った。柴犬のような珍しい顔つきをもみじさんも気に入ってくれた。ネコを飼ったことがなくご飯は何をあげたらいいのか分からないぼくは、ペットショップで子ネコ用のご飯をいくつか買って一緒に委ねた。
正式な里親は、その後すぐ見つかった。母校の保健の先生だ。今度彼女にも会わせてくれると約束してくれた。名はコジローになったらしい。元気のなかった彼女にもやっと笑顔が戻った。
*
十月下旬、コジローが引き取られて一ヶ月が過ぎた。秋風というよりすでに冬到来のような寒さが続いたある日、彼女は階段の下でふと立ち止まった。
「ねぇ茉莉花、最近大家さんに会った?」
「え? あぁ、そういやぁ……」
そういえばぼくも会っていない。温泉まんじゅうをくれた日から、ぼくの顔を見ては「相葉さんと食べたらいい」と言って、何かしらお菓子を持たせてくれた大家さん。彼女は木枯らしに首をすくめながら眉を寄せた。
「あたしが朝バイトに行く時、いつもここの前を掃き掃除してるのに、ここ何日か見かけてないのよね。時間ずらしたのかなぁ……」
時刻こそまだ五時だが、この時期の空はもうとっくに暗いのに窓から灯りは漏れていない。外出中ということだろうか……。
「高齢者の独り暮らしって心配よね。最近、社会問題にもなってるし……」
「ふ、不謹慎だぞ? 勝手に殺すなよ」
「亡くなってるとは言ってないでしょ? 倒れてたりしないかって心配だって意味」
言われて新聞受けに目が行く。新聞がいくつか貯まっていた。彼女も気が付いたらしい。悪い妄想が当たっていませんように……とポストを覗いて数えてみた。
三日前の日付のものがあった。彼女がハット息を飲むのが聞こえた。
貯まった新聞を見てどうしたらいいか分からなかったぼくらは、とりあえず仲介してくれた不動産屋に連絡をした。幸いにも不動産屋は合鍵を持っていた。身よりがなかったため、大家さんはこのアパートの鍵と共に自分の部屋の鍵も不動産屋に預けていたのだ。
大家さんは布団の中で小さく丸まっていた。意識こそあったものの、かなり衰弱していた。すぐに救急車で運ばれた。ぼくと彼女は、発見した不動産屋さんと白いヘルメットを被った救急隊員たちが乗り込んだ救急車を見送ることしかできなかった……。
次の日、ぼくは不動産屋を訪れた。昨日の担当者さんがいた。風邪をこじらせて肺炎を起こしていたらしいと教えてくれた。
二日後、ぼくは一人でお見舞いに行くことにした。ベッド上で身を起こした大家さんは、咳こそ出ていたが、顔色は結構良かったと思う。いつもの人の良さそうな笑顔で「これ、相葉さんと食べて」とプリンを二つくれた。
そして、頼み事を一つされた。
それは、オカメインコのぴーちゃんのお世話だった。鍵を託され、「水と餌の交換だけでいいから」と頭を下げられた。動物の世話などしたことがないと言っても、君なら大丈夫だよとにこにこするだけだった。
自信はなかったがやるしかない。大家さんの代わりはいないし、ぴーちゃんのことも心配だったからだ。帰りにさっそく大家さんの部屋にお邪魔した。
ぴーちゃんは暗い部屋の中、窓際のカゴの中にいた。ぼくの姿を見ると「イイコダネーェ」と喋った。意味を分かって使っているのかは不明だが、褒められたみたいなので「でしょ?」と笑ってみせた。
カゴの中には山盛りの餌と、汚れた水が入っていた。ぼくは不思議に思った。大家さんが運ばれる前に入れていったとしても、ほとんど手をつけていないんじゃなかろうか……。
「もしかして、寂しくて食欲なかったのか? ぴーちゃん」
「チュチュッ。ピーチャン、イイコダネーェ」
「そっかそっか。ぴーちゃんはかしこいもんな……」
「オカアサーン、サミシーヨーォサミシーヨーォ。オイテカナイデヨー。オカアサーン。チュッチュ」
……多分、最後のは奥さんが教えた言葉ではない。大家さんが奥さんを思って発していた言葉を、ぴーちゃんが覚えたのだろう。ぼくは二人と一羽の関係を想像して胸が苦しくなった。
ぴーちゃんの餌と水を交換してやり、目に止まった小さな仏壇の水も取り替えた。写真の奥さんはつぶらな目と丸々したほっぺが特徴的で、どこかぴーちゃんに似ている気もした……。
二度目のお見舞いに行った日、大家さんの顔色はとても悪かった。咳も前よりひどい気がする。笑顔こそ作ろうとしていたが、その姿がとても痛々しかった。
「ぴーちゃんを……自由に……してやってくれないかな……?」
痰の絡んだ咳を挟み、大家さんはがらがら声でそう言った。
初めは何を言っているのかと思った。きょとんとしているぼくに、大家さんは重ねて言った。
「放してやってほしいんだ……。わたしは施設に入ることにしたから……」
「……えっ! そんなこと……」
やっと意味が分かったぼくがふるふると首を振ると、大家さんは力なくぼくの手を握ってきた。
「いやっ、でもぴーちゃんは……」
「いいんだ……。いつ逝くか分からない年寄りと暮らすよりか……そのほうがぴーちゃんも幸せだよ……」
誰の幸せのため……?
そんなの、誰も幸せになれない……。
鳥カゴで育った鳥は、きっと外では暮らせない。飼ったことのないぼくだって、それくらいは分かる。
人間だって動物だって、家族といるのが一番だ。好きな人と過ごすのが一番に決まっている。
だけど、それが叶わないというのなら……。
「分かりました。ぴーちゃん、ぼくが引き取ってもいいですか?」
驚いた大家さんが大きく目を見開いた。あの時の涙は、きっと一生忘れられない。横になったまましわしわの手でぼくの手を握り「ありがとう、ありがとうね……」と何度も呟いた。
きっと苦渋の決断だったのだろう。もう世話をしてあげられないぴーちゃんという家族を手放す覚悟は……。
ぼくはその夜、カゴごとぴーちゃんを連れて帰った。両親は突然のことに驚いていたが、「ぼくの部屋で飼うから」と押し切った。ネットで『オカメインコ 飼育の仕方』と検索し、まずはフンだらけのカゴを奇麗に磨いてやった。
急な環境の変化に戸惑うだろうかと心配したのだが、意外にもぴーちゃんはぼくの部屋を満喫しているようだった。あっちこっち飛び回っては肩に止まり、また飛び回っては頭に着地するのを繰り返す。
「ぴーちゃん、寂しくないのか?」
「……チュッ、チュッ」
「ぴーちゃん、こんにちはー」
「チュチュッ」
「ぴーちゃん? こんにちはー、は?」
「……」
いくら話しかけても、ぴーちゃんは喋らなくなった。ぼくが声真似して「こーんにーちはー?」と促しても、コミカルに首を傾げたり鶏冠のようなものを立てたり寝かせたりするだけで、一向に喋ろうとしない……。
やっぱり環境の変化かショックでしゃべれなくなってしまったのだろうか、とネットで色々調べた。ストレスは大いに原因になるらしい。それと、話しかける人にもよるのだと書いてあった。そういえば大家さんは以前言っていた、気まぐれなのだと……。
一ヶ月が過ぎても、ぴーちゃんは一言もしゃべらなかった。餌は元気にもりもり食べるし、話しかけると「チュッ」と返事はしてくれる。懐いてくれているらしく、ベッドに転がって電話しているぼくの周りをちょんちょんと歩き回ったりもする。カゴから出していても絶対にぼくの部屋から出ようとはしないので、前ご主人からバトンタッチされたぼくを信頼してくれているのは伝わってくる。
ぼくは毎晩、おやすみコールの際に、今日のぴーちゃんの様子を彼女に話した。動画も送った。『すぐ根をあげると思ってたけど、意外と仲良くやってるみたいね』と彼女は笑う。ぼくが尽くすタイプなのは彼女が一番分かってるはずじゃんか……と心の中でツッコんだ。
クリスマスイブの前日、久しぶりに彼女の家に連泊するので、ぴーちゃんも連れて行くことにした。
その頃にはぼくも、しゃべらなくなったことにこだわるのは辞めていた。ぼくではもう無理だと思ったからだ。無理矢理しゃべらそうとしてぴーちゃんにストレスを与えてもいけないし、何事もなく二ヶ月経とうとしていたので、あまり気にもならなくなっていた。
緑と赤の毛糸でリボンを作り、ぴーちゃんの首にかけた。黄色い羽根にクリスマスカラーがよく映える。ぼくはおめかししたぴーちゃんをカゴごと車に乗せ、彼女のアパートへと走らせた。
アパートに着き、階段の下でふと足を止めた。ぴーちゃんが大家さんの部屋のほうを見つめていたからだ。
空き部屋になって久しいぴーちゃんの古巣……。ぼくは部屋の前まで行き、じっと扉を見つめるぴーちゃんの様子を見守ることにした。
しばらくして、ぴーちゃんは「チュッ」と鳴いた。『もういいよ』というようにぼくを見上げる。前ご主人はもうここにはいないと分かったのだろう。健気な姿に目頭が熱くなった。
「タダイマーァ、ピーチャン」
「えっ、ぴーちゃん?」
数段昇ったところで、突然ぴーちゃんがしゃべりだした。今までの沈黙を埋めるかのように……。
「タダイマー。ピーチャン元気ーィ? カワイイネーェ。オカエリ、オリコウダネー。オイテカナイデヨー、サミシイヨーォ。ピーチャン? ピーチャン、オイデー。サミシイヨーォ、会イタイヨー。オカアサーン。ピーチャン? ピーチャン? オイテカナイデヨーォ。サミシイヨーォ」
一気に涙が溢れた。一歩も足を進めることができず、ぼくはただ鳴き続けるぴーちゃんの横で泣き続けた。
「茉莉花……?」
彼女の声だった。もう少し遅くなると思っていたのだが、予想以上に早い帰宅だ。階段の途中で立ち止まっているぼくの様子を探るように、カンカンとブーツの踵を鳴らしゆっくり昇ってくる。ぼくは背を向けたまま「おかえり」と言って、気付かれないように袖口で涙を拭った。
「ぴーちゃん久しぶりだねぇ。あっ、おめかししてもらったのー? かわいいねー」
首元のリボンに気付いた彼女がカゴを覗き込んだ。ぴーちゃんはまた沈黙した。ぼくは一度すんと鼻をすすり、「あー寒い寒い」と二階へ急いだ。
先に部屋へ入り、手を洗うついでに顔も洗った。涙の跡は消えたが、鏡の中の自分はウサギのような赤目だった。
「ぴーちゃんと遊んでてよ。ぼくがステーキ焼くから」
「ほんと? やったぁ!」
クリスマスの定番料理は、ぴーちゃんを連れて行くのを決めた時点で別の料理にしようと決めていた。ネットの記事を参考にしながら、二人分のステーキをじっくり焼いていく。
「ねぇ、茉莉花ってば」
ジュージューと肉の焼ける音で気付かなかったが、いつの間にか彼女が後ろに立っていた。
「びっくりしたぁ、どした?」
「ぴーちゃんがカゴから出ようとしないのよ。なんか言いたそうにむにゃむにゃしてるし……」
「むにゃむにゃ?」
ぼくは火を止め、開いたままになっているカゴに顔を近付けた。確かに嘴を微かに上下させてむにゃむにゃ言っている。
「ぴーちゃん、どしたぁ? 具合悪いのか?」
先程の姿を思い出してしまう。やはり、ぴーちゃんは大家さんが恋しいのだろうか……。
「会イタイヨー、シオーン。サミシイヨーォ、シオーン」
……やっとしゃべったと思ったら……。
「ちょっとぉ茉莉花、これってさー……」
彼女がにやにや覗き込んできた。新しく覚えた『シオン』という単語と組み合わせられると、まるでぼくがぴーちゃんに泣きついているかのような誤解が……。
「いやいや、ほらっ、よく夜の電話の時にぼくの周りうろうろしてたから、汐音の名前覚えただけだって。会いたいだの寂しいだのってのは前からしゃべれてたし……」
「ふぅーん? ほんとーぉ? あたしに会えなくて、家で泣いてたんじゃないのー? かわいいとこもあるじゃなーい、茉莉花さぁーん」
「ちょっ……んなわけないだろー!」
「ふふーん、照れなくてもいいのよ? 茉莉花が寂しがりなのはあたしが一番よく知ってるんだから」
「だ、だから違うってー!」
否定しようにもなぜか頬が熱くなっていくのを感じる。きっと今のぼくはぴーちゃんとお揃いのほっぺただろう……。
「マタァ、怒ルナヨー。シオーン、シオーン、カワイイネーェ。オリコウダネーェ。会イタイヨーォ。マタァ、怒ルナヨー」
「……一言余計じゃない?」
「い、いやだから、これは別に汐音のことじゃなくて……」
「へぇ? じゃあ誰がかわいいって? 誰に会いたいって?」
詰め寄られてたじたじのぼくの頭に、ぴーちゃんがちょこんと乗った。「怒ルナヨー。モー、スグ怒ルー」と連呼し出す。
「……あたしのこと、ずいぶん怒りんぼキャラで教えてるのね……」
「教えてないって! 電話してた時に言ったのを覚えちゃっただけだって!」
「インコが一回で覚えるわけないでしょー? 絶対あんたが教えたのよ。ぴーちゃんがしゃべらなくなっちゃったからって言いたい放題してたんでしょー!」
「カワイイネーェ。シオーン、カワイイネーェ」
「ほ、ほらっ! ぴーちゃんも褒めてるぞっ?」
「もう遅ーい!」
危機を感じたぴーちゃんが飛び立つと同時に、彼女がぼくにクッションを投げつけてきた。かろうじて腕でガードはしたものの、容赦ない攻撃にぼくはひたすら否定と謝罪とを繰り返す。
「仲イイネーェ。相葉サント食ベタライイー。チュチュッ」
カーテンレールに止まったぴーちゃんが新しい言葉をしゃべった。お菓子をくれる際に、大家さんがよく言っていた台詞だ。ぼくと彼女はぴたりと動きを止め、ぴーちゃんを見上げる。首にかけた赤と緑のリボンがひらひら揺れていた。
「……そうね、引っ越して初めてのクリスマスだし……今日のところは勘弁してあげるわ」
「そうそう、クリスマスだぞ? 仲良くしよ? んじゃぼくステーキの続きするから」
「うん、よろしくー。ぴーちゃん、おいでー?」
彼女の呼びかけに、ぴーちゃんは「チュッ」と鳴いて羽ばたいた。差し出した彼女の指に止まる。嬉しそうに笑う彼女の横顔をチラ見しながら、ぼくは特別な夜のごちそうに腕を振るう。
「ぴーちゃん? 『茉莉花のバーカ』、って言ってごらん? 『茉莉花のバーカ』」
「おいこらっ、変なこと教えんなよー。聞こえてるぞー!」
香ばしく焼き上がる音に紛れ「冗談冗談」と、半分以上冗談に聞こえない台詞が聞こえてきた。ぼくは唇を尖らせながらも、ぴーちゃんと戯れる彼女が楽しそうだからいっか……と苦笑する。
恋人になって三年半。付き合い始めとほとんど変わらないぼくら。イチャついて、わちゃついて、ケンカしながらも迎えた四度目のクリスマス。
去年とは違う、彼女の部屋での初めてのクリスマス。
「しおーん、もうすぐ焼けるからサラダ盛っといてー」
少しずつ、環境は変わっていく。
別れと、出会いを繰り返し。
時の流れに置いて行かれないように、ぼくらも大人になる。
「オッケー。……あーっ! ぴーちゃん、水菜食べちゃダメでしょー!」
「チュッ。ピーチャン、イイコダネーェ」
託された、小さな命と共に……。