閑話1「11年前、とある朝」
◆補足
この回は当初「プロローグ」として公開していた話です。2023/8/20の新話投稿時に話順を並び替えた際、エピソードタイトルを「閑話」に変更しました。
気づけば少女は揺れていた。
心地よくも懐かしい揺り籠みたいなリズムに誘われ、幼い彼女はふわっと大きく伸びをする。
伸びて伸びて、心ゆくまでめいっぱい伸びてから。
気の向くままに目を開けると――
――そこは、知らない“小部屋”。
2人掛けソファで埋め尽くされる「狭い空間」。
規則正しく揺れ続ける「ふかふかの座面」。
短く小さい5本の指をまっすぐ伸ばせば届いてしまう「低い天井」。
ぐるっと四方を囲む「透明な壁」ごしに流れていく爽やかな早朝の景色。
昇りはじめた太陽の光が、マシュマロみたいな少女の頬を淡いミカン色に染め上げる。
「わぁっ!」
少女の鮮やかな紫の瞳が好奇心できらめいた。
キョロキョロ辺りを見回すたび、黒く柔らかな髪がサラサラ踊る。
頭から生える黒猫の耳や、お尻から伸びる黒猫の尻尾がぴょこぴょこ遊ぶたび、よく手入れされたなめらかな毛並みが日差しを反射してツヤツヤ輝く。
「おはよう、メネア。今日もよく眠れたかな?」
大きな大きな人間の手で娘の頭をなでたのは、隣に座る細身の男。
黒い髪も猫耳も尻尾も少女と違ってくたびれ切ってしまっているし、目の下には年季もののクマが染みついている。ほんのり薬品の香り漂う白衣が使い込まれて薄くヨレヨレになっているあたりからも、全身から徹夜明けの疲れが隠しきれていない。
だが対照的に、彼の表情だけは何物にも代えがたい充実感で満ち溢れていた。
「さいこうの きぶんよ、おとうさん!」
嬉しそうにゴロゴロ喉を鳴らす娘に、父は慈愛に満ちた紫の瞳を細める。
「それより これは なにかしら? はじめて みるもの ばかりだわ??」
「ああ……メネアは外へ出るのが初めてだもんな……」
興味津々な少女が、手の届く範囲をペタペタ触りながらたずねる。
男は感慨深げに遠くを見やった。
「……いいかい、これは“車”というんだよ」
「くる、ま?」
「とても便利な乗り物の一種でね。AIを活用したシステムが搭載されているから、こうやって端末に目的地を入力すると、あとは勝手に自動運転で運んでくれるんだ」
実際にスマホで実演してみせる男だが、黒猫少女はポカンと口を開けるのみ。
無理もない。
少女にとっては先ほどから五感に飛び込む全てが新鮮すぎて、理解が到底追いつかないのだ。
生まれてからこのかた、少女は“家”から出たことがなかった。
窓も装飾も無い殺風景な白い空間には、最低限の家具が置かれているだけ。
父と暮らす部屋、父が話す言葉、父が見せてくれる物……それが「彼女の世界の全て」だったのだから。
『――……まもなく目的地です』
なごやかな父娘の時間を遮ったのは、備え付けのスピーカーから響いた機械的な通知音とアナウンス。
「そろそろか……」
男の顔に緊張が走る。
「おとうさん、そろそろって?」
「目的地……つまり、“行かなきゃいけない場所”へ着くのさ」
「??」
ちょこんと首を傾げる娘に、父は穏やかに微笑んだ。
***
早朝の街は、これから仕事や学校へ向かおうとする人たちであふれていた。
揃いのブレザーに身を包んで、キャッキャと騒ぐ学生たち。
眠そうな目をこすりつつ、あくび交じりに歩くカジュアル着の若者。
カフェで優雅にコーヒーを楽しみつつ、スマホでニュースをチェックするビジネスマン。
彼らは皆、獣の耳と尻尾と能力と、人間に近い体とをあわせ持つ『獣耳人』である。
メネアたちと同じ猫耳族はもちろん、熊耳族、犬耳族、兎耳族など見渡すだけでいくつもの種族を確認可能だ。
文明が発展した街中に走るのは様々な色や形の車。
多種多様な建物に競うように並ぶ色とりどりの広告や商品。
人々の話し声、乗り物の騒音、商店から流れる音楽など雑多なノイズが入り混じって奏でる独特のハーモニー。
車から降りた少女にとって、街中すべてが未知なおもちゃ箱。
無言の父に手を引かれて歩きつつ、彼女は見るもの聞くものに心をときめかせた。
しばらく歩いたところで男が足を止めたのは、裏路地に佇む古びた建物。
扉を3回ノックすると、待ち構えていたらしい猪耳族の初老女性が出迎えた。
「……こりゃ随分と久しぶりだねぇ、エミオット」
ぶっきらぼうな低い声。
だが仏頂面にはわずかな好意が混じるあたり、歓迎しているようにも見える。
「あははは、しばらく色々と立て込んでおりまして……店長はお変わりないようで何よりです」
気まずそうに答える男。
猪女は鼻で笑った。
「ふん、勘弁しとくれ。あたしゃもういい年だよ! 何かにつけて肩も腰も悲鳴を上げるし、目だってすぐにショボショボしちまうさね。稼業だっていつまで続けられることやら……それよりさっさと用事を済ませたらどうだい。無駄話に割く余裕なんざ無ぇんだろ?」
「あ――はい!」
男は背筋をシャキッと伸ばし、娘のほうへと目線をやった。
突然の見知らぬ大人に戸惑っているのだろう。
幼い少女は父の後ろに隠れつつ、白衣の裾を両手でギュッと掴んで様子を伺っている。
父はしゃがみこみ、娘に目線を合わせて優しく言った。
「メネア、今日は何の日かわかるかい?」
「ん~っと……わかんない」
一生懸命考えてから、少女が答える。
「今日はね、メネアの “誕生日” なんだ」
「たんじょーび?」
「君が4歳になった特別な日さ……そして、これは誕生日プレゼントだよ」
と父がポケットから取り出したのは――
――光輝く金色の指輪。
シンプルで洗練されたフォルムには、何やらびっしり文字が刻まれている。
ごくごく細い金色のチェーンに通してあるから、ペンダントとして身につけることも可能だ。
「わぁっ、きれい!」
見たことも無い美しさが、一瞬にして心を奪う。
さっきまでの警戒心などどこへやら。
指輪を天に掲げた少女はくるくる回って喜んだ。
――ピコンッ
瞬間、鳴り響いたのは父のスマホ。
「「ッ!」」
大人たちに緊張が走る。
黙って顔を見合わせ、うなずき合う2人。
すぐに父は娘へと向き直った。
「あのねメネア、おとうさん、ちょっと行かなきゃいけない所があるんだ……しばらくお留守番できるかな?」
「もちろんよ!」
元気に答える娘。
何かを言おうとした父だが、首を振って言葉を飲み込んだ。
かわりにギュッと娘を抱きしめ、震える笑顔でどうにか声を絞り出す。
「……いつまでも……元気でいるんだよ」
娘を1人残し、父は足早に街へと消えていった。
それは、幼いメネアにとって、最後に見た父の姿となったのだった。