1 婚約解消おめでとう
「ヴァレンティナ・デルヴィーニュ、君との婚約は二日前に解消された。今後、君をパーティでエスコートすることはない。今夜の卒業パーティでは近寄るのも話しかけるのもやめてくれ。迷惑だ」
淡々とそう話すのはオーガスティン・スタインフェルド第一王子。
私はキュッと眉間に皺を寄せ、悔しそうな表情を作った。
心の中で『怒っている表情、怒っている表情…』と唱えながら。この場面では怒りの表情が正解なはず。
第一王子殿下は呆れたようにため息をついた。
「新しい婚約者は君の妹、エヴェリーナ嬢だ。君とは違い社交界でもうまくやっているようだし、性格も明るく前向きだ。きっと良い王太子妃となるだろう」
えーっと、えーっと、婚約解消後の台詞集の中にあった台詞は…。
「どうぞご勝手に。私には関係のないことですわ。卒業後は田舎にでも引っ込んで、静かに暮らすつもりですから」
「まぁ、そうなるだろうな。男爵家の娘や平民をいじめた程度では国外追放も難しい。君みたいに陰湿な女はかび臭い女しかいない田舎の修道院がお似合いだ。自分の顔を鏡で見てみるといい。醜い老婆のようだ。性格が顔に出るというのは本当だな」
そう言うと第一王子は部屋を出て行った。
ふぅ…と大きく息を吐く。
しかしまだ終わっていない。立ち上がりドアに鍵をかけた後、念のため防音の魔法をかける。
「フェリ、グレッタ、エマ、もういいわよ」
呼ばれた三人が隣の寝室から『婚約解消おめでとう』と現れた。
明日いっぱいでお別れとなる学生寮の一室。
部屋は最上ランクのうちの一室で客間、寝室、使用人の部屋に狭いながらもキッチンやバスルームもあった。
快適な広さだが、無駄に広いとも言える。メイドを連れてきていないため、すべて自分でやらなくてはいけない。
実家…と言うより母は地味な嫌がらせが得意な人だった。いっそ血のつながりがないと言われれば納得だが、残念なことに間違いなく実母だ。
広いと掃除や管理が大変だったが、フェリ達と知り合ってからは交替で面倒をみてくれた。
お礼はバスルームの使用。
平民部屋と下位貴族部屋は共同風呂で、下位貴族の中でも高位の者から入る。平民が入る頃には浴室もお湯も汚れ、それを掃除するまでがセットになっていた。
下位貴族の中にはわざと湯や洗い場を汚す人もいる。後で入る子達が困るように嫌がらせでやっているらしいが。
『私達、ド平民ですからね~、酔っ払ったクソ親父や小さな子の世話もしていますから、汚れ物には耐性があるのです』
『ただ掃除した後に改めてお湯を張って、また掃除して…が面倒で』
『ヴァレンティナ様がバスルームを貸してくださるので、程度の低い嫌がらせなんて、スルーですよ、スルー』
『そうそう。私達を見下している貴族令嬢が、嫌がらせのためにお風呂場で気張っていたり、わざわざ生ごみを集めてバラ撒いているのかと思うと…、間抜けだなぁって』
皆は笑ってくれているが、同じ貴族として恥ずかしい。
浄化魔法があるといってもそこは女の子。ゆったりお風呂に入って隅々まできれいにしたい時もある。
フェリ達三人だけでなく、階級弱者である子達も『侯爵令嬢の被害者』を装ってバスルームを使いに来ていた。せっかくなので集まった子達でお茶会をしたり、試験前は勉強会を開いたり。
最後の一年は学生らしく過ごせた。寮の部屋限定だったけど。
「無事、婚約が解消されたみたいですね」
「ありがとう。エマが用意してくれた問答集、とても役に立ったわ」
「うまくお芝居、できたみたいですねぇ」
頷く。
「あとは家から追い出されるだけ」
ただこの事に関してはあまり心配していない。母を愛するあまり、母の言葉しか聞かない父と、私を嫌っている母、そして王子様との結婚に憧れている妹。
最近は素行も態度も悪かったので、全力で私を家から追い出そうとするだろう。
そう話しているところに手紙が届いた。
「実家からだわ」
早速、読むと…、婚約解消、妹の婚約、それから…。
「やったわ、卒業後はオルドリッジ領の修道院に行けと書かれている」
「ジェフリー様がうまく誘導してくれたようですね」
「えぇ、えぇ…、本当に良かった」
オルドリッジ侯爵家のジェフリー様は幼馴染の一人で子供の頃はよく遊んでいた。しかし私が王子の婚約者候補となった頃から会う機会が減ってしまった。
数年後にはオルドリッジ前侯爵が体調を崩され、ジェフリー様も領地経営を助けるために領地にいることが多くなった。
幼い頃から落ち着いた穏やかな性格で、子供同士で喧嘩をしていれば仲裁し、馴染めない子がいれば声をかけ…と。私も馴染めなかった一人で、ジェフリー様には随分と助けていただいた。
五つ年上なので落ち着いているのは当然なのかもしれないが、側に居てくれるだけで心強かったのは間違いない。優しい笑顔で私の初恋の人でもある。
「さぁ、そうと決まればあとは卒業パーティを楽しむだけ。支度をしましょう」
私達はフェリの部屋へと移動した。
フェリシティ・ベイリーは男爵家の娘だ。領地を持たない家で男爵家としてよりもベイリー商会という名のほうが有名だ。だからフェリシティも貴族令嬢というより、商人の娘として扱われることが多かった。
フェリの幼馴染グレッタ・キャノバーは騎士の娘ではあるが、これもまた名ばかりの騎士爵。平民から見れば騎士様だが、貴族から見れば平民に近い。
爵位なんてアテにできないからと女性ながら騎士科で独り立ちを目指していた。卒業後はオルドリッジ侯爵領で騎士として働くことが決まっている。
そして平民の中の平民と豪語するエマ。オルドリッジ侯爵領内にある小さな村の出身で、本人も家族も死ぬまで村から出ることはないと思っていた。
しかしエマに魔法の素養があるとわかり、オルドリッジ侯爵が『学びの機会を与えるべき』と学校に行かせてくれた。
田舎暮らしで何もない村から、侯爵領地で最も栄えた町に引っ越したエマの世界は一気に広がった。学校に行けば大好きな本が読めると勉強も頑張った。
結果、国内では最高峰と言われているスタインフェルド学院にまで進み、卒業後はオルドリッジ侯爵領に戻り文官兼魔法師として働く。
フェリは王都に残るがベイリー商会の支店がオルドリッジ侯爵領にもある。年に二、三回は会いに行くからと話していた。
一人でオルドリッジ侯爵領に行くものと思っていたが、卒業後も皆が近い場所に居てくれるのはとても嬉しい。
フェリの部屋に到着するとメイドさんや商会の美容部員達が待っていた。
「お嬢さん達、時間がありませんよ。ヴァレンティナ様は老婆メイクを落としてお顔のマッサージを受けてください。フェリお嬢様は爪のお手入れ、グレッタさんは全身マッサージ、エマさんは軽食を。あなた、また本を読むのに夢中で食事してないでしょう」
なんでわかるの?とエマが驚いているが、いつものことだから…としか言いようがない。
私もおとなしく指示に従って、追い詰められた悪役令嬢…、略して老婆メイクを落としてもらう。
さっぱりしたところで顔から頭皮、首回りのマッサージ。
あぁ、眠くなるほどの心地よさ。
「フェリお嬢様、今夜はいい意味で手加減なし、全力でいっちゃっていいんですよね?」
「うん。ヴァレンティナ様の最後の大舞台だからね。うんときれいにして」
グレッタが声をたてて笑う。
「ははっ、最後ってことはないだろ。ジェフリー様と結婚したらまた王都に戻って来ることになる」
「その時は人妻だから、未婚の時とは装いが違いますよぉ」
ジェフリー様と結婚…、本当にできるのかわからないけど、今、その方向で皆が動いている。一年前までは予想もしていなかった未来だ。
そう…、一年前、妹がスタインフェルド学院に入学してきた日。
あの日から、もともとあまり良くなかった私の評判はさらに悪いものへと転がり落ちていった。
さかのぼること八年前。十歳の年に私は第一王子オーガスティン様と婚約した。
華やかな場や注目されることが苦手な私は何度も無理だ、できないと断ったが、聞き入れてはもらえなかった。
王子妃としての教育がすぐに始まり、すぐに異変に気がついた。教師たちの当たりが強すぎる。厳しいとか厳格…の域を超えている。嵐よりもきつい風当たりに何が起きているのかさっぱりわからなかった。
何をしても、何を言っても、普通に歩いているだけでも姿勢が悪い、品がないと罵倒される。
当時は理由がわからなかったが、後にフェリが調べてくれた。
現王妃アデライン様と母ダニエラは現国王を巡り壮絶な戦いを繰り広げた…らしい。取り巻きの令嬢も巻き込んだ戦いの末、アデライン様が勝ちあがった。
令嬢同士の厭味合戦…だけでなく、取っ組み合いの喧嘩もあったし、毒を飲ませたり、暴漢に襲わせたり。公にはされていないが、毒を代わりに飲んでしまった令嬢は今も自領地で臥せっているのだとか。気の毒すぎる。
二人の仲は今も険悪で、年々、憎悪が増している。
アデライン様にとって私は大嫌いな女の娘で、大事にする理由などひとつもない。
王子妃教育は体罰ありの厳しいもので、見えない場所に無数の傷跡が残された。今も消えていない。
高位の治癒師にお願いすれば消せるが、両親は『残しておけばいずれ王妃を糾弾する切り札になる』と治療には消極的だった。メイド達も最初の頃はあまりの傷の多さに騒いでいたが、母の指示で最低限の手当だけをするようになった。
両親に何度も訴えたが、『その程度であの女に負けることは許さない』と言われ続け、諦めた。
無気力にただ言われたことをこなすだけ。
当然、婚約者である第一王子とのお茶会も楽しいものではなく、苦痛しかなかった。
私が口にするものには下剤や毒が混ぜられていたから、本当に辛かった。殺すほどのものではないがダメージは確実にある。
お茶会の途中で何度も席を立つ事になり、それも叱責された。
そんな状況で王子と楽しく会話などできるわけもない。
王子もつまらないと思ったのだろう。二、三年でお茶会はなくなった。
子供達が集められた社交の場でも徹底的に無視された。
妹であるエヴェリーナもいじめられたらどうしようかと心配していたら、王妃はエヴェリーナを嫌がらせに使ってきた。
エヴェリーナのことは可愛がり褒めちぎったのだ。
それに比べて姉のヴァレンティナは…と続く。エヴェリーナは『私はお姉様よりすごい』と思うようになり、私を蔑むようになった。
孤立しそうな時に助けてくれたジェフリー様はもういない。
誰に助けを求めればいいのか。
母は『おまえの努力が足りないのです。この程度のこと、あしらえなければ王妃になどなれません』と言う。
父は『ダニエラが正しい。王家とはそういった足の引っ張り合いがある場だ。もっと強く賢く立ち回れるようになりなさい』と優しい顔で、悪魔のようなことを言う。
自分には無理だ、エヴェリーナを婚約者にと頼んだが両親だけでなく王妃にも断られた。
エヴェリーナはまだ貴族令嬢としての教育が終わっていない。無邪気なあの子が弱肉強食の王家でうまくやっていけるはずがない。あの子は自由奔放なところがあるから。
特に母はあからさまにエヴェリーナを可愛がり、かばっていた。
王妃も辛らつだ。
『言葉の裏も読めぬ頭の足りない女より、陰気なおまえのほうがましよ』
家族に突き放され、家庭教師は王妃の派閥の者達で、婚約者である王子とは公務以外で顔を合わせることもない。
どこにも逃げ場がなかった。
だからスタインフェルド学院に入学した時はホッとした。
学院は全寮制で、親からの干渉が減る。在学中は王妃教育もない。
代わりに王妃の派閥である令嬢達から嫌がらせを受けたが、チクチクと嫌味を言われる程度で実害は少なかった。
鞭で打たれたり針で刺されるよりはまし。
できる限り目立たないよう静かに過ごしていたが、何故か私は『悪役令嬢』と呼ばれるようになっていた。
下級貴族の令嬢をいじめていたとか、厭味を言っていたとか、平民を殴ったとか。
心当たりはなかったが長年の癖で嵐が過ぎ去るのを待つだけだった。
嵐、止まなかったけど。
それもどうでも良かった。
どうせ、私が何を言ってもやっても無駄。
妹のエヴェリーナが入学したことで、噂話に『妹も虐げている』が加わったが、本当に心の底からどうでもいい。
そんな時、声をかけてきたのがフェリだった。
『今夜八時、部屋に伺います』
そっとメモを渡され、意味がわからなかったが、断っても受け入れても悪い方向に話が進む。ならば会ってみるのも一興…と、フェリを部屋に招き入れた。
閲覧ありがとうございます。