公園のセイレーン
その歌声に出会ったのは、町はずれの大きな公園だった。江戸時代の大名屋敷を庭園として残した公立公園のひとつ。音楽フェスや朝顔展、鉄道の祭典などでも有名だ。夏になれば噴水の周りで大規模な盆踊りが開催される。
かつては広々とした児童遊園になっていた木陰の広場は、今では遊具が撤去されて木製のテーブルだけが点在する。散歩中の観光客、仕事帰りの勤め人、ウォーキングの休憩など、さまざまな人が束の間の休息を楽しんでいる。
私はいつも、会社帰りにその公園でコーヒーを一杯呑んでいた。公園内には、有名なカフェもあった。しかし私は、街中のチェーン店でテイクアウトした旨くも不味くもないホットコーヒーを飲んでいた。
その日は雨模様だったので、当然野外の椅子やテーブルは濡れている。それでも私は、いつに変わらずその広場へと足を向けた。その広場に生えている椎の木が好きだったのだ。疎に生えた木立を縫って、まだ湯気をたてるコーヒーに口をつける。見上げる梢は季節を告げる。公立の公園なので、足元は綺麗に掃き清められている。
もう何年も、そんな風に広場を訪れていた。雨故に人のいないテニスコートを通りすぎ、仕事リュックを背負って。名画がプリントされた傘では、カフェでくつろぐご婦人が温かく微笑んでいる。
空いた方の手で、今日もコーヒーを口に運ぶ。公園前の大通りを渡ったところにある店で買ったものだ。その店からこの広場までは、猫舌の私にちょうどよく冷める距離でもある。
何処かで歌う人がある。今日は野外音楽堂で何かイベントでもあったかな。歌詞までは聞き取れないが、驚くほどよく伸びる耳に心地よい声だった。女性の声にも聞こえるが、男性の高音にも聞こえる。雨音と風が枝葉を揺らす音に紛れて、途切れ途切れに私の耳へと届く。
広場に近づくにつれ、声は大きくなってきた。野音のフェスではなかったか。ごく稀だが、晴れた日にはアコギ青年が練習していたりする広場だ。そういう人かもしれない。それにしても心惹かれる歌声だ。
「こっち、こっちから聞こえる」
「あっちじゃない?」
私が来たのとは別の入り口がある方角が、俄かに騒がしくなる。興奮気味の若い女性が数人でワイワイとやってきた。どうやらあの歌声を辿って来たようだ。この公園は通り抜けて駅へと向かう人も多い。公園内には公立図書館もあった。雨でもそこそこの人通りがある。
そうした人々があちこちから集まってきた。沢山の人が、あの声を素晴らしいと感じたようである。広場に着くと、既に人だかりが出来ていた。
歌い手は地味な黒い傘に隠れて、男か女か分からない。服装はゆったりした青白ボーダーのTシャツにネイビーの綿パンで、足元はふくらはぎにも届かない編み上げ靴だ。Tシャツは七分袖のタートルネックだった。
広場までのざわめきは嘘のように鎮まり、木陰にはその人の歌声だけが響いていた。時折手先を揺らしたり握ったりと微かな動きを見せている。だが、ダイナミックな身体表現をする歌手ではないようだ。カウントも脳内で取るタイプ。
やがて歌い納めて、広場がシンと静まり返る。私の目からは涙が流れた。感動した。だが、同時にお腹の底が冷たくなるような、言いしれぬ恐怖を感じた。人の技を超えた物に触れてしまったかのような。これは、畏怖の念なのだろうか。
凍った時間が動き出す。実際にはどの程度沈黙が続いていたのか分からない。傘の中から、おずおずとした感謝が聞こえた。
「ありがとうございました」
立ち去ろうとする歌い手に、ブランド靴が汚れるのも構わず駆け寄った小母様がいた。無言で、涙を流して、札を数枚握らせる。そのまま手をぎゅぎゅっと数回握り直して小さく振った。
小母様が去ると、次々にお金が渡された。壮年の紳士が、高級そうな帽子を脱いで、それごとお金を渡した。
「帽子は捨てていいから。人の被ってた帽子なんか気持ち悪いでしょ」
丁寧に髪を整えた帽子の持ち主は、穏やかに微笑んで遠ざかる。歌い手は呆然と数万円が入った帽子を受け取り、持ちにくそうに傘を顎で抑えた。帽子には、次々と札が入れられてゆく。幼い子供が走り寄ってきて千円札を投げ入れる。
「あっ」
離れて見ていた私は、思わず声を漏らした。この辺りにも家はある。子供が遊びに来ることもある。観光客だけではない。100年以上続く老舗の子や、新たに出来た高級集合住宅に住む子供たちだ。
それでも、ヒョイと千円札を手放す年齢には見えなかった。お使いに出始める歳ではあろう。あの千円は、夕飯かおやつの代金だったのではなかろうか。心配になってしまう。
そうこうするうちに、人だかりは消えて、たちすくむ歌い手と私だけが残った。帽子からは紙幣が溢れて、足元にまで落ちていた。雨に打たれて散らばる札を拾うでもなく、大ぶりの傘になおも隠れた顔からは、溜息ひとつも聞こえない。
「あの」
普段は知らない人に声などかけない。落とし物を拾うのすら躊躇ってしまう。だが、なぜか私は口を開いていた。
「拾わないんですか?手伝いましょうか?」
傘が後ろへと大きく傾いた。男とも女ともつかない短髪の若者が、大きく黒い瞳を見開いている。
「すみません、失礼致しました」
無意味に謝って、私は踵を返す。
「待って!」
怯えたような焦ったような声を背中に受け、私は足を止めた。
「あの、ありがとう、ございます」
美声の歌い手は、地声も綺麗だった。やはり性別は分からない。お金を出していない私に、何のお礼なのだろうか。
「はは、ありがとう」
「えっ、何?ちょっと」
私は泣き崩れるその人に駆け寄った。高級帽子がひしゃげて、中の札がますます落ちる。慌てて濡れた紙幣をかき集め、ぎゅっと帽子に押し込んでやる。
「あっ、くっついちゃいますね。何処かで早く乾かさないと」
嗚咽を漏らし肩を震わせる人に、なんとなく早口になりながら話しかける。
「はい、はい、あり、ありがとう、ございますぅ」
歌い手はしばらく泣いていた。しゃがんで大きく傾いた黒い傘の柄を、私は困りながら支えた。
泣き止んで大きく深呼吸をすると、歌い手は私を上目遣いで見た。鼻筋の通った色白の丸顔だ。歌い手らしく大きな口は、筋肉の発達した頬に守られている。弓形に整えられた細い眉の下では、切長の双眸が長い睫毛に縁取られていた。
「すみません、驚かせてしまって」
相変わらずおどおどしながら、歌い手は言った。
「都会なら大丈夫かと思ったんですけど」
何を言うのだろうと好奇心に駆られて、私は話の続きを待つ。休み休みではあるが、歌い手は事情を説明してくれた。
「小さな頃から、歌っているとお金を置いていく人がいて」
幼い時からずば抜けた才能があったのだろう。
「でも、普通じゃないんです。みんな無言で大金を置いて行くんです」
「え」
「怖いんです。中にはお財布を空にして行く人もいて」
「それは」
「音楽事務所の人が名刺を置いて帰った事もありましたが」
「すごいですね」
「それが、涙を流して、無言で渡されただけなんです」
「ああ」
「何度かそういう人がいて」
「ちょっと怖いですね」
歌い手は大きく頷いて、少し大きな声を出した。
「そうなんです!」
私はややたじろいだ。歌い手はしょぼんと肩を落とす。
「あ、ごめんなさい」
「いえ」
「もうずっと、どこへ行ってもそうなんですが、どうしても断る勇気がなくて」
いつも固まってしまうのだろう。先ほどのように。
「それなのに、歌う事もやめられなくて。仕事でもないのに」
集められた金額を見れば、充分仕事と言えるだろう。だが、それを告げるのは憚られた。このお金は、歌い手にとっては報酬でもなければ、才能への評価でもない。訳の分からない恐怖の塊なのだ。だから、雨で札が駄目になるままにしているのだろう。
「防音室はどうでしょう。まあ多少は漏れるでしょうけど」
「あの、わがままだとは分かってるんですけど、木々の中で歌いたくなってしまうんです」
それ以外の場所では、歌いたくならないという意味だろうか。難儀なことだ。
「それなら、木のあるところを避けたら?」
「都会なら、木も避けられるし、僕程度の歌なんか見向きもされないかと思っていたんですけど」
「そうですか」
ここで、この人の歌が人外レベルであることを言うのは酷だ。それを知ってしまったら、自分に逃げ場がないことを悟って絶望してしまうかもしれない。
「歌は、お好きなんですか?」
当たり前のようではあるが、この人の苦しそうな様子から、好きで歌っている人とも思えなかったのだ。
「ええ、まあ。でも、人が集まって来るのは怖くて。嫌なんです」
「ここ、案外人、来ますよ」
「そうみたいですね。来た時には、誰もいなかったのに」
あなたの歌が呼び寄せたと、教えるかどうか迷う。
「セイレーンて、知ってますか」
「ええ。美しい歌声で船乗りを誘惑して難波させる神話の怪物ですよね」
「ええ。セイレーンの歌は癒しでもないし元気になることもないでしょ」
「そうですね」
「僕の歌も、そういう、人を破滅させる歌なんです」
大袈裟な、と言うは易い。だが、かなり思い詰めている人にそんな態度は取れない。私は悼ましい思いで歌い手を眺めた。
「あなたが初めてなんです」
「え?」
「歌った後で話しかけてくれたのは、あなたが初めてなんです」
「そうなんですか」
「はい。家族も、僕が歌うと無言で泣いて色んなものをくれるんです。学校の授業でもそうでした」
「怖いですね」
家族までも。それは恐ろしいことだろう。
「はい。なるべく歌わないようにしてはいるんですが。時々、どうしても歌いたくなってしまって」
「困りましたね」
天職として受け入れたなら、楽になるのだろうけれども。
「失礼ですが、お仕事は何を?」
「普通の会社員です」
月の出る時間だ。この人も仕事帰りなのだろう。
「お勤めはこの辺りで」
「いえ、違います」
わざわざ知人に会うリスクは犯さないか。
「ここも、もう来られないのでしょうね」
「はい、やめておきます」
歌い手は、リュックから買い物用の防水袋を出して、お金の入った帽子を入れる。捨てて行くわけにもゆかず、それはリュックに納められた。
「あの、ほんとに、ありがとうございました」
「え、何にもしてない」
「いえ、話を聞いていただいただけで、充分です」
「そう?」
深くお辞儀をした歌い手が、ふと不思議そうに私を見た。
「あの、失礼ですが、お耳が聞こえにくいとかですか?」
「え?ああ、私も、呆然と拝聴してましたよ?」
「けど、普通に接して下さったじゃないですか」
「どうでしょう?何かをあげたいとは思いませんでしたけど、拝聴して、とても感動いたしましたよ」
「ほら、普通の範囲ですよ」
歌い手は期待を込めて言い募る。
「今まで、あなたの歌を聞かずに通り過ぎてゆく人はいましたか?」
「いいえ、いませんでした。音楽を嫌いだと言う隣人やクラスメイトまでが、わざわざ寄ってきて、黙って泣くんです」
気の毒なことだ。さぞ辛いだろう。
「歌わない以外の解決策はなさそうですね」
「そうですよね」
気まずい沈黙が流れた。結局はどうしようもないことはあるものだ。もう社会人なのだ。一切歌うのをやめてしまえば良さそうには思える。だが、ここまでの才能を持つ人ならば、歌いたい衝動も一般人の想像を遥かに超えているのだろう。
この人はまだ若い。
いつかは聴衆の感涙を受け入れるかも知れない。あるいは、完全に歌う衝動を抑えられるようになるかもしれない。
しかし、絶望して命を断つ結末もありうる。
だから、気休めを口にするのはやめておく。陰鬱な黒い傘から、ぽたぽたと雨水が垂れている。頭上の枝葉を抜けて降る雨は、木々や地面に当たって不規則な音を立てていた。
歌い手が公園の出口へと向かう。私も帰宅の時間なのだけれども、凍りついたように動けなかった。人を取り殺すことを恐る、気の毒なセイレーン。飛び抜けた才能が幸せとは限らない。平凡な私に、その気持ちを理解することは出来ないが。せめて今日の僅かなやり取りが、いくばくかの慰めとなるのなら良いのだけれど。
遠ざかる黒い傘を見送っていると、見回りの人がやってきた。
「公園、閉めますからー」
大きな公立公園には、門があるのだ。かなり遅くまで開いてはいるけれど。
「すみません、もうそんな時間でしたか」
「お急ぎ下さいねー」
見回りの公園職員は、事務的な笑顔で退出を促す。雨雲から透けてぼんやり光る月を見ながら、私は駅へと急いだ。
お読みくださりありがとうございます