第十一景 コタツへの「ただいま」【コタツ】
眠ってしまいます。
※noteにも転載しております。
「ただいまぁ。
ううっ、寒い、寒いっ!」
冬の日に帰宅したなら。
電灯をつけて、コートをハンガーにひっかけると、わたしはその足で——というより、その脚をただちにコタツへとつっこむ。赤いライトに電源を入れるのはそのあとだ。
仕事の日は、いつもストッキングでも。休日でソックス履きのときは、脚を覆いの中につっこんでから、もぞもぞとやってそれを脱ぐ。
衣類などをベッドに脱ぎ捨てはしても、床に脱ぎ散らかしたりはしないわたしだけれど。コタツのときのソックスだけは、気がつくと二、三足、覆いの中にころがっていたりするものだ。今だって、まるめたやつがひとつ出てきたが、左右まとめてあるだけでましなほう。
まったく、コタツってやつはひとをずぼらにする。
それでも、わたしはホットカーペットや床暖房より、コタツのほうを好んでいた。もちろん、こんな安アパートに床暖房設備などあるわけもないのだが(大家さん、ごめんなさい)。ストーブやエアコン、ほかのどの暖房器具よりも、コタツ。
わたしには、コタツ一択——それしか選ぶ気はなかったのだ。
わたしが小学生のころ。
うちには、やっぱりコタツがあった。
はしっこのほつれかけた古い布団で、正方形の卓を覆った、いかにもなやつだ。
そしてわたしは、おとなになったいまとおなじように。冬の日は学校から帰れば、ランドセルを置いてすぐにそこに脚をつっこんでいたもので。
覆いの中で、「靴下」を脱ぎながら。
凍える脚を伸ばし、剥き出しになった足で、コタツの中にきょうは「当たり」がないかさぐるのだ。
いた!
わたしの向かい側、いつも左右どちらかの角。
柔らかで、触り心地のいい毛並みをした、その「当たり」は。
わたしが脱いだ「靴下」のようにまるくなっていた。
さぐった足の指で、そいつをぐにぐにいじってやっていると。そろそろうんざりしたのか、やがてそいつは「にゃあ」と抗議の声をあげる。
あやまりついでに、布団の中を覗きこんで、その小さなからだをひっぱり出してやるけれど。毎回のことで、もはや抗議する気も失せたのだろう。不機嫌そうにした虎模様のオス猫は、めんどくさそうな顔をわたしに向けるのだった。
あのころから、もうずいぶんとたつ。
中学生になれば、自分の部屋に籠る時間が増えて、コタツであのコを足でさぐることも、あまりなくなった。
そして、高校生になって。あのコが召されてしまってからは、もう猫を飼ってさえいない。
就職して、ひとり暮らしになったいまも。ペット不可のアパート暮らしでは、もう猫を飼うことはないだろう。
けれど、ある冬。
なんの気まぐれか。家具売り場でみつけた小さなコタツを、わたしは衝動買いした。
実家にあったような卓は無理だが、このサイズならわたしのアパートにも置いてやれる。
そうして、部屋にコタツを置くことになって。薄手の毛布を覆いに挟んだその中へと、脚をつっこんでやったとき。
わたしの足は、小学生のときとおなじように。
だけど、もう小学生のときとおなじようには、コタツの角にまるくなっているはずもない、「当たり」を——あのコの存在を、いつのまにかさぐっていた。
「にゃあ」と抗議の声をあげて、なんならかるく噛みついてくれたっていい。
コタツに脚をつっこむことが、あのコへの「ただいま」で。あのコがそれに応えてくれていた。
それがひどく懐かしくなったのだ。
それからというもの。
わたしは、冬の日に帰宅すれば。
その脚を、ただちにコタツへとつっこむことにしている。
ただ、暖をとるためではない。これは、コタツと記憶の中にまるまっていたあのコを忘れないためのあいさつ——「ただいま」の儀式なのだから。
そしてもう一匹。
コタツを置いた次の日に、これまた衝動買いした猫のぬいぐるみ。冬のあいだは、あのコとおなじポジションである、わたしの向かい側の、左右どちらかの角。そこにこのぬいぐるみを仕込んでおくのだ。
あのコ——虎模様のオス猫はもういないけれど。この新しい「当たり」をわたしの足がさぐりあてたとき、あのコのことを思い出して、わたしはコタツ以上のぬくもりを感じる。
そして、ぬいぐるみと反対側の角。
なにもいるはずがない、そちら側も、足でさぐってやることを忘れない。
まるめたソックスくらいしかころがっていなくたって、それは「はずれ」ではないのだ。
そこは、虎模様のオス猫——あのコのためにあけてある場所なのだから。
コタツを出している冬のあいだじゅう、この「ただいま」の儀式は毎日続くし。きっと来年も、そのまた来年もとりおこなうことだろう。
わたしが、あのコのことをすっかり忘れてしまわない限りで。
そして、そんなことなどはあるはずもない。