第十ノ三景 籠城の月【月】
歴史もの!
※noteにも転載しております。
窓の外に浮かぶ薄い月を見上げながら、痩せこけた頬で唇を歪ませる。初老の男は、その窪ませた眼で恨みがましそうに。爪痕のような細い光を、睨んでいた。
「よもや、貴様まで儂を裏切るとはの」
呟きというより、呻きに近い声を絞り出す。かつて、そこに湛えられていたであろう貫禄はどこへやら。厚みを失ったからだは今にも枯れて散りそうで、男の窮状を如実に語っていた。
「殿——そのようなことを、今更おっしゃられましても」
こちらも鶏ガラのようになった爺が言う。殿と呼ばれた男より、ひとまわりほど年上であろうか? 顎のかたちからして、本来は狸顔をしていたようだが、こちらもすでに狐のように痩せてしまっている。
「やはりこの度の謀反。隣国からの介入や、同盟国からの助け船が我々に送られないことを考えましても。貴奴め、そこまで使者を遣わして、根回しをしていたものと思われます」
苦々しい爺の物言いにも、振り向くことはなく。殿は窓の外に浮かぶ薄い月を、忌々しげに見上げているだけだった。
ことは満月の晩。
夜の闇に乗じて月灯りを頼りに、腹心であった筆頭武将が謀反を起こした。
思えば、彼の叔父を粛正したり、恩賞として与えたのが僻地だったりと。火種を生んだのは、己だったのかもしれない。
外交を一手に貴奴に任せたのも、まずかったか。
家老である爺の推察どおり。謀反から数日中には、彼は干渉のありそうな隣国、同盟国には書状を送り。支援か追認か、あるいは静観かをすでにとりつけてあった。
ここまで手際よくされては。もはやどうしようもない。
籠城した此処で、朽ち果てるしかあるまい。
幸か不幸か、内堀より中に井戸があったため、水にこそ困らなものの。作物の収穫前を狙っての決行に、食糧の備蓄は乏しかった。
そのため、彼も無理に攻め込もうとはせずに、兵糧攻めを選んだらしい。
謀反から16日め。
飢え死ににはまだ遠いものの、体力と気力はもう限界を迎えていた。
「ふん、儂が言っておるのはあんなやつのことではないわ。
ともに、朽ち果てようぞと、痩せる身を晒しあったあいつめのことじゃ」
そのことばの意を汲みかねて、戸惑う爺だったが、やはり殿の目には薄い月しか映らないようだった。
こうして籠城をはじめた夜から、この16日間。本丸の上階に抜かれたこの窓のむこうの空に浮かぶ月を、毎晩、眺めていたのだ。
それにしても。
今晩の殿は、ずいぶんと苛立ちを見せている。
昨晩までは、月を見上げるその表情は穏やかで、慈しむようなものでさえあった。謀反を起こされたことさえ、この世の常、己の業ゆえと悟りきった様子すら見せていたのだが。
それが16日めの今晩に限っては、まるであの月こそが、いま恨むべきものであるように、睨みつけるかの双眸をしているではないか。
それもそのはず。
殿がこの窮状において、ただひとつ。己への裏切りを赦せぬと、奥歯を軋ませていたあいては、他ならぬあの月だったのだから。
籠城をはじめてから、昨晩までの15日。
窓から見上げる月は、満月から、徐々にその身を削っていった。
乏しい食糧と、心を苛む死への無念から痩せゆく己の身を、欠けていく月へと重ねるようになるのに幾晩もかからなかったのだろう。
そして、それは月を見上げてる表情に、穏やかさや慈しみとしてあらわれていったのだが。
今晩は「16日め」。
新月にまで、身を削りきった月が、ふたたびその身を満ちさせてゆく段へと転ずるとき。
昨晩は欠けきって、ついに姿を消した月に。己のほうが永らえてしまったと、不在を知らせる夜空にうっすら涙さえ滲ませた殿であったが。
これから夜ごとに、身を太らせていくであろう月には、裏切られたと感じるのも無理はないかもしれない。
ずいぶんと、月を睨んでいた殿であったけれど。
なにせ、籠城の夜は長い。心変わりか、意を決めたような目つきをすると、歪めていた唇をゆるめ、深いため息のあとにぼそりと呟く 。
「いいだろう。
貴様までそのつもりなら、儂にも意地というものがある」
己を裏切るどころか、嘲笑うように太りゆく月に見下されて、このままくたばってたまるものか。
せめて、もういちど。
満ちきった月が、欠けはじめるに転ずるまで。
叶うのならば、さらに新月に欠けきるまで。
「儂も、この命、永らえてやろうぞ」
それだけの夜を生き延びたとしても。助けがくることはおろか、この窮状がほんの僅かでも、なんらかの好転を見せることさえ期待できるものではない。
それでも。
いや、それだからこそ。
拠るものもない己をも、こうして照らしてくれる月への逆恨みとさえ呼べるこの想いは。自害さえやむなしの殿に、まだ死んでなるものかとの意思を抱かせる、ただひとつのものだったのであろう。
籠城の月。
痩せて朽ちてゆく己の身と、満ち欠けをくりかえすその身。
共にしては、裏切られる。
とはいえ、こうして貴様だけは毎晩、この儂を照らしに訪れてくれるのだな。
愛憎はときに紙一重とは、よく言ったものだ。
もはや助けのひとつも訪れないこの城に。夜空高くの傍観者とはいえ、己の最期を見て見ぬふりではなく、むしろ見届けてくれようとする月。
憎々しく恨みながらも見上げる殿の目は、一瞬、柔らかいもの含ませた。しかし、それはすぐにもとどおり、爪痕のような細い光を睨み戻す。
明日の晩になれば。
己の身は、またいくらか痩せ細り。
逆に、おまえはいくらか身を太らせるのだろう。
「ふん。それにしても、見事に裏切られたものだ」
籠城の夜は長い。
今晩も殿はもうしばらく、こうしてあの月を見上げていることだろう。
その長い夜を、あと幾晩迎えることができるのか。
それは殿にも、あの月にもわからなかった。