第十ノニ景 夜空に姿なきものを探す【月】
月齢、わざわざ調べて月を見ません。
※noteにも転載しております。
「あれ? なんか踏んづけた?」
ああ、踏んだとも。
他でもない、おれの右足をだ。
だけど、こんなのはなれっこ。
いいからさっさと、むこうに行ってくれ。
やれやれ、きょうだけで何度めだろう?
いくらおれに存在感がないとはいえ、一日にこうも何度もじゃあ、嫌気がさす。
とはいえ、これを「あの日」からずっと繰り返してきたのだ。
あきらめがついてるとまでは言えなくとも、いちいち腹までは立たない。
おれは気をとりなおして。
つぎにおれの左足をふみつけようと狙うやつも、あたりにいないことをたしかめると、あたまのうえにひろがる星空に目をやった。
ひと気を避けたかったのもあるが。
この空を見るために、おれはわざわざ徒歩でこの丘を登ってきたのだ。
あんのじょう、さかりのついたカップルが何組——十何組には満たないと思う——がいるだけで、そいつらがはめをはずすのさえ気にしなければ、静かなもの。
そしておれは。季節の移り変わりとともに透きとおりはじめた夜空と、そこに輝く星たちの光から、お目当てのものを探すことにした。
だいたいの方角はわかっている。
街の灯りから離れたここでは、それなりの数の星たちが見えて、ほんのちいさな輝きで夜空のスクリーンを埋め尽くしているのが肉眼でもわかる。
そして、おれのお目当てのものはと言えば、その星たちの光そのものではなく。
されど、星たちが夜空を埋め尽くしていてくれなければ、見つかり得ないもの。
それは夜空の空洞。
星たちが埋め尽くしきれなかった「空隙」とも違う。
夜空に浮かんだ姿なきものの、その影なのだ。
おれはその空洞に、姿なきものの、その姿を見るためにここにいる。
あんたも姿は見たことをなくとも、名前くらいは知っていよう。
新月。
光をはなたない、姿なき月。
だが、こいつはたしかにこの夜空に存在し。
その証に、そのうしろにあるはずの星たちの輝きは、そいつにさえぎられるため、おれからは見えない。
見えるのは新月の影。
夜空の黒に溶けこんで、新月じたいを判別はできないが。これほどの星たちが埋め尽くした空なら、そこに空洞を見つければ、それこそが新月にさえぎられて、星たちの輝きが届かない場所だとわかる。
そして、その場所に姿なき月——新月はたしかに浮かんでいるのだ。
おれはその姿なき月を夜空の空洞に見て、ある感情をおぼえる。それは同族に出会ったような親しみ。
たしかにそこにあるのに見えない月と、たしかにここにいるのに、知らん顔されて足を踏まれるおれ。
仲間意識のようなものを感じたって、そんなに不思議はないだろう?
あしたにはわずかながらも光を取り戻しはじめ、夜空に日ごとまるみを帯びる姿をあらわす月に。裏切り者と、恨みがましい視線を送ることになるんだろうけどな。
「あら? なにか踏んだかしら?」
ああ、踏んだ踏んだ。
そいつはおれの左足。
さっきおれの右足を踏んでくれたやつのつれあいが、ご丁寧にカップルで両の足をかたほうずつ踏んでくれたわけだ。
気がつけば、そこかしこにいた男女も何組か、どこぞへと姿を消したようで。丘で星を眺めているカップルは、半分ほどにまで減っていた。
いや、「姿を消す」はここではふさわしくない表現か。
どこぞへとむかったよう。
そう言い直しておくことにしよう。
姿なき月である新月に背をむけて。
おれもこの場から姿を消す——もとい、どこぞへとむかうことにした。
これほどまでに存在感のないおれだ。その姿なんぞは、とっくに「消えて」いる。
だからだれの目にもうつらずに。
こうして足を踏まれ、ときにはからだをぶつけられ、ふりあげた手にはたかれるのだ。
それでも足を踏まれた痛みや、ものを口にしての味。
そんなもので、自分の存在がここにちゃんとあるのだとたしかめる。
そしてそんなおのれを慰めるために。こうして毎月のように。新月を「見に」この丘へと足をはこんでいた。
たとえつぎの夜から。空に浮かぶ月が取り戻していく光を、妬むことになろうとも。
ひょんな事件に巻き込まれて、謎の薬品を注射された「あの日」から、透明人間になってしまったおれ。
透明なのに、たしかにここにいる存在。
新月のように徐々に姿を取り戻すんじゃあ、それも困るとも思うけれども。
やがて満ちる、今夜は光なき月に自分を重ねることで。
このおれも、ふたたび誰かの目にうつるようになる日が、また来るように。わずかな望みを、なんとか絶やさずにいられるのだった。
いつかまた。
だれかがおれの足を踏んだことすら気づかずに、通り過ぎるなんてことがなくなってくれたらと。
「おや? なにか踏んだかな?」