四話
自然と荒くなる息を必死に抑える。
右手にはスタンガンを固く握りしめ、前方に全神経を注いで静かに足を運ぶ。
アタシの五メートル先にはスウェット男。その先には風花が歩いている。
風花は後ろの男には多分気付いてない。
駅から歩いて五分くらいのこの道は、街灯もまばらで人気もない。
全身の毛穴から汗が噴き出る。
男は背骨をぐったりと前に曲げ、ポケットからチャリン、チャリンと金属が動くような音が聴こえる。
男に気づかれぬように、何かあればにすぐスタンガンを当てられるように距離を保つ。
……右手が震える。
男はナイフを持ってるかもしれない。
ボコボコにしてやる、という啖呵を切った自分の背筋から悪寒が全身を伝う。
そうしている間にも男の歩幅は大きくなり、風花との距離は徐々に縮まっていく。
「まずい、まずい……」
心の中で何度も繰り返す。
ベタッ、ベタッ、ベタッ……
男はポケットに手を突っ込んで、小走りで風花に急接近し始めた。
右手から何かを取り出した。それは街灯に照らされ、ギラリと光っている。
「ッ……やってやる!」
アタシは全ての力を両脚に込めて、男に向かって駆け出した。
ガツッ!
つま先が地面に引っかかり、全身が宙を舞った。
目の前はアスファルト一面になり、徐々に接近してくる。
ビタンッ!
頭を強く打ち付け、全身が痺れる。
身体が起こせず、頭だけをどうにか持ち上げる。
「風花は……⁈」
突然視界は真っ白に変わり、鈍いエンジン音が耳を劈く。
あまりの眩しさに眼を閉じる。
「……乗る?」
エンジン音に混ざって聴こえる聞き慣れた声。
眼を開けると、アタシの隣には黒のワゴン車が停まっていた。
助手席側の窓から風花が顔を出している。
運転席には……あのスウェット男が座っていた。
「わたしの家で手当てしてあげるから、早く後ろ乗って?」
返事もせず、風花の言われた通りに車のドアを開ける。
前に座っている風花から、嗅いだことのない臭いがした。
車に乗っている間、聞きたい事はいくらでもあった。
けど、何も話せなかった。
前の二人は終始無言のまま何も言わず車を走らせていて、その雰囲気から、アタシはこれから起きることが只事では無いのを確信していた。
気が付くと車はアパートの駐車場に停まっていて、風花が男と話をしている。
「ありがと。後はよろしくね」
「気にすることないからね。小森さんのためならどうってことないよ」
「じゃ、アタシは明里ちゃんに残りを手伝ってもらうから」
「信用できるの?」
「だいじょーぶ。親友だもん」
「そっか。じゃ」
会話を終えると男は車を出て、一人でその場をトボトボと去っていった。
風花の横顔をじっと見つめる。
見たことのない、アタシの知らない風花がそこにいた。
「ウチ、ここだから。一緒に来て?」
「ちょっとやって欲しいことがあるから」
風花の言われるまま、車を出て後ろについて歩く。
鍵を開け、玄関に入ると風花から漂っていた臭いが部屋中に充満していた。
「これ何のニオイ?」
「ん? そうだなぁ~。女の子の匂いってカンジ?」
廊下中に漂うそれは、リビングに入ると更に強くなった。
「ちょっと。何なのこれ」
ゲホッ!ゴホッ!
フッーッ!ンッー!
ヒューッ……ヒューッ……
目の前には、三人の女の子が裸で倒れていた。
両脚両腕を縛られてテープで口を塞がれ、身体にはいくつもの青アザが痛々しく残っていた。
「言いたいことは色々あるだろうけど、まずはお茶でもしようよ」
風花はさも当たり前のようにキッチンに向かってコップを用意している。
「え~? ここ何にもないじゃん」
体を屈めて床に倒れている女の子を踏みつけながら、風花は部屋の真ん中にあるテーブルにコップを置いた。
「アイスコーヒーでいいよね?」
「明里ちゃん苦いの苦手だっただろうから、砂糖入れちゃうね」
風花はテーブルに置いてある瓶の、僅かに残っている砂糖を入れた。
アタシは何も言わず、そのままリビングを飛び出した。
廊下に出て、ポケットからスマホを取り出した時、後ろから風花の声が聞こえた。
「わたしたち、親友だよね?」
「何するつもり?」
足が床に釘付けになったように動かなくなる。
「結局そうなんだ」
「何も理解しようとしないで、自分に不都合なことが起きそうだったら知らんぷり」
「昔からいつもそうだね」
冷たい、耳に張り付きそうな声で話す風花。
頭がズキズキと痛み、今までの記憶がボロボロと零れだす。
「ごめんなさい……」
震える脚を動かし、リビングへ戻った。
「わたし、高校でもイジメられてたの」
コーヒーを口へ運びながら、アタシの眼をじっと見つめ話す風花。
つられるようにしてこっちもコーヒーを飲む。
砂糖を入れてもらった割にはニガくて美味しくない。
「周りにどんどん友達が出来てグループが作られていくうちに、わたしだけ孤立しちゃって」
「お昼も一緒に食べてくれるような子がいなくて、トイレで食べてたの」
「明里ちゃんがいればいいなーって、よく思ってた」
風花は一時もアタシから眼を逸らさず、淡々と語り続けている。
話を聞いてるうちに頭の中がグラグラと揺れ始めていた。
怒りなのか、同情なのか、得体の知れない感情が脳内を回り始め、動悸が早くなる。
「でも明里ちゃんにはどうしても話せなくて。いつまでも頼ってばっかりじゃダメだーって思ってたから」
「でもどうしても一人じゃ辛くて。親戚のお兄さんに相談したの」
「そしたらすごい心配してくれてね、仕返ししてやるって言ってくれた」
心臓がバクバクと跳ねる。それに伴って体はどんどん熱くなり、眼から涙が溢れ出した。
「それでわたしをイジメてた子を部屋に監禁してくれてたの」
「そっか……そうだったんだ……」
涙が止まらず、そのままテーブルに顔を伏せる。
風花はそんなに辛い思いをしてたんだ。アタシはやっぱり気づけなかった。
「わたしをイジメてた人、明里ちゃんだったらどうする?」
ふと、テーブルの下で横たわっている女の子と目が合う。
目があったことに気づくと、その子は塞がれた口をぱくぱくと動かしながら首を振っている。
両眼を大きく開きながら何度も首を振っている。
風花はテーブルの下から包丁を取り出した。
眼が廻る。
グチャグチャに崩れる視界の中で、風花はいつものように優しい笑顔でアタシを見つめていた。