"Moon Light" ― b
人生において、どうしても逃げ出したいことはあると思う。
あなたの逃げ出したいものは何?――――私は妹だ。
「ほら、ご覧。あなたの妹、メアリースよ」
初めて妹を抱いたとき、それはとても愛おしい気持ちでいっぱいになった。温かくて、小さくて、柔らかい、かわいらしい私の妹。
「メアリース、あなたはとってもかわいい子ね」
私や両親だけでなく、彼女を見た人間は皆口をそろえてそう言った。皆がメアリースを可愛がった。
とにかく、可愛がったのだ。
「「メリークリスマス、メアリース」」
私が本を貰った時、メアリースは本だけでなく洋服も貰った。
「私も、お洋服欲しい」
「あなたはお姉ちゃんで必ず新品の服が着れるでしょう?」
「メアリースはいつもおさがりで我慢してくれるからな」
そう理由をつけて、なんだかんだメアリースに新品を買い与えているのはどこの親か。気づけば、私が持っている数よりも倍、メアリースが服を持っているのは当然のことだったし、私が服を買う時も必ずメアリースが着られるものを買わなければならなかったので、思いのままに服を買えたことは無かった。
「「偉いね、メアリース」」
私が初めてご飯を一人で作った時、メアリースは文字が書けるようになった。
「ごはん作ったの」
「見なさい、メアリースが文字を書いたのよ!」
「ごはん…」
「ああ、ありがとう。食べようか」
初めて一人で作ったオムライスの味は思い出せない。褒めてもらった記憶も…ない。
「「すごいね、メアリース」」
私が初等部の成績で満点を取ってきた時、メアリースは幼稚舎のテストで満点を取っていた。
「お母さん、お父さん…私、今年の成績も満点だったの」
「メアリースもテストで満点を取って来た。凄い子だ!」
「そうね。今日はご馳走にしましょう」
「………」
私はただ一言、「偉いぞ」と褒めてもらいたかっただけなのに。
ひとりで部屋に戻って泣きじゃくりながら、当時9歳だった私はこの時点で気づいてしまった。
――――もしかして、全てがメアリースのためにある?
家庭内で起こるこの異様な偏愛は、外でも起こる。姉妹揃って教会に行けば必ずメアリースに注目が集まる。姉妹揃ってお店に行けば、『オマケ』と称したサービスを受けるのは必ず妹で、それは誕生日当日だった私を差し置いて行われることも多かった。
その偏愛は、メアリースから離れれば何の影響も受けない。去年一昨年と、学校の成績から判断して飛び級を打診された(連合国には公私関係なく飛び級制度があるのだ)が、その話はまだ入学すらしていないメアリースには関係がない。私だけがその話を聞かされ、私が判断して、両親にお願いをして飛び級をした。
「凄いじゃないか」
「とっても賢くてしっかりしているとは思っていたけど、こんなにすごかったなんて…!」
両親が私を褒めたその場に、メアリースはいなかった。思えば、私はその時だけ、両親から褒めてもらうことが出来た。
気付けば3年分を飛び越していたおかげで、メアリースが入ってくるよりも早く初等部を卒業した。来年からは中等部に通う。
――――でももし、メアリースも飛び級してきたら?
ありえない話ではなかった。学校に通い始めれば、先生からも可愛がられることは経験上間違いない。
「逃げなきゃ…」
この時から、私の逃げ出したいものは『妹』になった。
***
ここはひとつの海に浮かぶ、とある島を拠点とした王国。
その首都郊外、地上二階建ての冴えない建物。「文化財団」と書かれた看板が入り口にかけられた以外は取り立てて特徴もなく、周囲の景色に埋もれている。
「『月光』さん、追加の確認文書です」
「ありがとう」
その中にある一室で、『月光』と呼ばれた女はひたすら山積みになった書類を捌いていく。その手際は素早くも丁寧であり、書類に傷一つつけることなく内容を確認する。まっさらな紙を片手に持ちながら書類を眺め、その紙をファイルへと綴じた。
確認済みの書類は読まれた形跡を一切残すことなく元通りに文書の山へと戻り、紙の束として埋もれていく。
(油断しまくりだ。何であからさまな内容が平文で書かれているのか)
内心でそうごちながら行われているのは、どう見てもきっちり封をされているはずの公的文書の開封、複製、再密封だった。しかも、王国の公的文書ではなく、首都に乱立する外国公館から各々の国へと送られる類の、他国の公的文書だ。
『月光』は、【念写】の能力持ちだった。「ギフト」とは、個人が保持する超常的な力のことであり、この王国においてそこまで珍しいことではない。国外でも稀に発見されることのある能力は、王国以外での認知度は低く、魔女狩りのように迫害されている地域すら存在する――――それはさておき、月光が先ほど綴じたまっさらな紙には、彼女が眺めていた書類の内容が転写されている。複製をするなら手書きがメインとなるこの世界において、彼女はかなり有用性の高いギフトホルダーであることは間違いない。そして、それこそが、彼女が公的文書をのぞき見している理由でもあった。
彼女の隣では、同僚が同じように外国公館出の信書を捌いている。封を跡も残さず開封し、内容を複写し、元通りに戻す。二人ともさらっと行ってはいるが門外不出の技術だ。その同僚も【転写】のギフトホルダーであり、内容の複写が常人とはかけ離れたスピードと再現度で行われていく。
これらの行動は、他国に知られた場合重大な外交問題となる。しかし、この行動も、そもそもこの場所も、「文化財団」――――国王の口からは『宵闇』と称されるこの機関も、全て公には存在しないとされているのだ。存在しないのだから、何をしていても関係ないことだろう。
そう、例えすべての海外郵便がこの部屋で内容を複製されていたとしても。
首都の中央郵便局に集荷された海外郵便の発送は一日一回。機関員たちは長くても二時間で往復の輸送と一連の作業を終えるので、郵送の時間の誤差は発生しない。外国公館職員の手で受付された通り出荷される故に、責任を問われるようなことにもならない。その後の事故は管轄外、『月光』達のような裏方の担当ではなく、実働の担当だ。
担当の書類を捌き終える。終業時間も近いので、簡易的に清掃でもして時間を潰して――――そう思った時、部屋のドアが開く。
「『月光』、『暗月』が呼んでる」
「はい」
『暗月』、我らがボスの呼び出し。時間つぶしすら許さぬ業務の鬼…まさか追加の仕事だろうか。
ひそかに溜め息をつき、そこから切り替えて無の表情で上司のもとへ向かう。
「『月光』です」
「入れ」
重厚な扉の向こうへ声をかければ、中性的で無感情な声が返事を寄越した。扉を開け、書斎机に向かう上司の前で立ち止まる。
色素の薄い髪をシニヨンに纏め、首元をスカーフで覆っていることが特徴の美人――――『暗月』は、鋭い光が灯る瞳をこちらへ向けた。
「メアリース・コルネイトが留学してきているのは覚えているな」
頷く。覚えているも何も、忘れようがない。それを知った一年前、彼女から逃げだすために半分正気、半分狂気のままに退職しようとした私を、『暗月』以下上司同僚によって物理的に雁字搦めに拘束してまでこの組織に縛り付けられたことは強烈な思い出だ。美化しようもなくそのままはっきりと記憶している。
「貴様に実働の仕事を任せる」
「…え?」
何かの冗談ではないのか。退職騒乱の時に「これだから貴様を実働にさせられない」って言ったのは他でもない『暗月』ではなかったか。
どさ、と分厚い紙の束が机の上に放り出される。それを手に取り、頁を捲っていく。
「偽装する人間の資料だ。潜入までに覚えろ」
この上司の無茶ぶりには慣れている。…まさか裏方業務なのに表に出て仕事をしろと言われる日が来るとは思いもしなかったが、やれと言われればやるしかない。すべてを見通す我らが魔王の指示に対し、返事は「はい」か「了解」しかないのだ。
差し出された資料に目を通す。紙をめくって現れた台本に書かれた名前とその人物の写真に思わず固まる。
――――本気か…?
ふ、と正面から息を吐く音を聞く。おそらく、笑っているのだ。恐る恐る視線を上げると、そこにはいつも通りの無表情があるのみ。逆に安心して、静かに続きを待つ。
「潜入先は国立王都大学。貴様はヨセフカ教授付き研究助手のユリアナ・コルネイトとして任務に当たれ」
ユリアナ・コルネイト、覚えがありすぎる。
何せ、私の以前の名前だ。偽装も何も、私が『宵闇』へ就職した時に国籍と共に捨てたもの。
「簡単な話だろう。偽装するのは職だけだ。それ以外はありのままでいいのだからな」
それはそうだが、どうして私なのだ。本人は確保済みなのだから、実働部隊で人員を割り当てカバーさせれば問題ないだろうに。
「見抜かれたら困る」
私は天を見上げて両手で顔を覆った。いや待ってほしい、女装が得意な部下たちの面目は?
「補佐に『静月』、『華月』。どちらも先に潜入しているから貴様による多少のヘマは問題ない」
つらつらと書類に書けない内容の説明が暗月によってなされる。一字一句必死に聞き取って覚えるが、記憶力にはあまり自信がない。
しかし、やるしかない。大事だから何回でも言う。
「やり方は教えたはずだ。任務内容を意識の底にまで刷り込め」
「ハイ」
この施設から紙は持ち出せないし、任務が始まる前に持っている資料は全て破棄される。つまり、必要な情報はすべからく頭に叩き込め。『月光』を包み込むのは、地獄のようなカバー作業が始まる暗闇の絶望。
「自白剤訓練でもするか?」
「嫌です」
そちらよりは断然良い。張り切って取り組もう。