1話 助けはきた
頭が真っ白になった。
これまでもこの「頭が真っ白になる」というフレーズを使ったことはあった。
バイト先で積まれている牛乳にぶつかって雪崩を起こしたときとか。そしてさらに年齢を偽ってバイトに入っていたのがばれた時とか。でも今回はそんなの全然比にならないほどの「頭が真っ白」状態だった。
振り込まれていないのである。
金が。
養育費が。
月々10万円。クソ親父ではあったが6歳から14歳にいたる8年間一度も途切れることなく振り込まれていた養育費が今日、4月1日に限って振り込まれていない。
は?
頭が真っ白である。
え、どうしよう、どうすればいいのだろう。
弁護士に相談?それにしてもまず金だよな?
貯蓄なんてものは雀の涙しかない。弁護士っていくらくらいかかるんだろう?
そもそも弁護士に頼んだからって絶対また振り込ませることができるってわけではないのか?
世の中には養育費を払わない人間も多いと聞く。
じゃあ今後一切養育費には期待できないってこと?
後ろで大勢の足音がして銀行内が一気に騒がしくなったようだが、すぐそこの現実がとても遠く感じる。ふわふわとして真っ白で、本当にもうどうしようって感じだ。
急に誰かに引き寄せられたような、喉に冷たく硬い何かがあったているような、どこかで甲高い悲鳴が上がっているような、それらすべてがどうでもいいような。
不思議な酩酊感の中にいた。
『そこのかわいい子にしよう!』
『女はやめろ、泣きわめいてパニックになられたら面倒だ。この坊主でいい』
うるさい、今大変なんだ少しほっといてくれよ。
ハッと意識が急にクリアになった。
するとそこは車の中であった。
まず感じたのは両腕にかかった圧力である。少し痛いくらいに握りしめられていてそれだけで強い恐怖を感じる。
状況が分からず思わずきょろきょろしてしまう。
なんで車の中なんだ?いったいどこに連れて行かれるんだ?
というかこいつらは誰だ?
「おい、目ぇさましたぞ」
「目はずっと開いてたけどな」
「チッ、おいガキ!ぜってぇに騒ぐんじゃねぇぞ!騒いだらコロスかんな!」
どうやらガラの悪そうな男4人とドライブ中のようである。
天井も奥行きも普通車よりありそうでバンにでも乗せられているのだろうか。
ひとつ確実に言えるのは俺は絶対に自ら進んでこの車には乗っていないということである。
つまりは誘拐である。
「うちには金なんてありません!」
思わず大きな声が出てしまった。騒ぐなと言われたばかりなのに。
やっばと思ったがもう遅い。
「何言ってんだてめぇ!金ならもう取ってきたんだよ、すぐそこで見てただろうが!」
そう怒鳴られてやっと思い出してきた。
俺は銀行にいたのだ。
学校終わりに振り込まれているはずの自分の養育費を自分で引き出しに行っていたところだった。
そして養育費が振り込まれていないということを確認してからの記憶がない。
銀行、金ならもう取ってきた、誘拐され中ときたらもう導き出される答えは一つ。
自分は今人質にされているのだ。
ああなんだ、人質か。
そう分かると少し落ち着ける気がしてきた。
だって自分が銀行強盗をして人質を取ったとする。そして順調に車で逃走できたとしたら用済みの人質は無傷で返す、というかそこらへんに捨てると思うから。
街中には監視カメラくらいあっただろうから逃げた方向くらいはどうせばれるし、もし捕まった時に殺人までしていたら罪が重くなる。
人質を傷つけるのはデメリットしか浮かばない。
だったら嵐が過ぎるまで石のようにただじっとしていればいいのである。
大丈夫、大丈夫、俺はきっと無事解放される。そして帰ってまずあのクソ親父に連絡して問いただすのだ。
養育費はどうしたと。
母さんは帰りが遅い俺をそろそろ不審がっているだろうか?
早く帰って夕飯の支度もしなければ、あと風呂を洗って、洗濯物を取り込んで。
そんな現実逃避をしていると車が坂を上るように傾く。
窓はカーテンが閉められていて外が分かりずらいがフロントの外を見るに山に入ったのだろう。
人通りの少ない道であるしきっと山頂あたりで解放されるに違いない。
たぶんきっとそう。
逃走は順調そうである。今のところ追ってもきていない。
だがそのときである。
「これでノーネームから解放されるな!そしたら俺たちゃ自由だ!」
一人の男がそう言った。
車内が静まり返る。
俺の心も静まり返る。
……。
「え、今なんて言ったんですか?何にも聞こえなかったっす!」
本当です、信じてください!あんたらが明らかにやばそうな犯罪組織とイザコザがあってそのために銀行強盗をやったなんて知りません、聞いてません!
車が茂みに突っ込む形で急停車した。
「おい」
「な、なんだよ」
失言をした男はまだ自分のミスに気がついていないようである。
急に自分に向けられたヘイトにひたすら戸惑っている。
なんだよじゃないんだわ。
車内の空気はまるでお通やである。
ほんとにそうなるかもしれないけどな!
この車内で失言男に対するヘイトが一番高いのは間違いなく俺である。
絶対に俺である!!
え、これどうなんだ。
この男たちははたして「覚悟」決まっちゃってる系なんだろうか。
俺としてはそんな簡単にその「覚悟」は決まるもんじゃないと俺は思うね。決めていいもんでもないし。
お願いします決めちゃわないでください。ほんっと頼みます!
「あの、ほんっっっとに俺なんも聞いてないです。ほんとです。」
「おま、それはよ……」
疲れたような声で突っ込まれてしまった。
信じてください、何も聞いてないんです!警察には何も話しません何なら書面に残してもいいです!
誰も何も言いたくないようで沈黙が続く。
ただあの失言男だけが未だに困惑の声を上げフルしかとされていた。
もうお前黙っとけ。
するとこれまでずっと無言だった運転席の男がハンドルに伏せっていた顔を上げ言った。
「予定変更だ。ここで処理する」
処理だそうだ。処理ですか。そうですか。
開放するでも捨ててくでもなく「処理」。
「だけどよ、それは……」
「さ、早くしろ」
運転席の男がドアを開けて外に出ると他の連中も黙って後に続いた。
ああ、あの男がリーダーなんだろうな。
そしてそのリーダーに俺は処分すると言われたんだ。
片腕を掴まれて車から引きずりだされるとき俺は屠殺される直前の牛や豚の気持ちが少しだけ分かったような気がした。
道なき道を捕られたエイリアンのように引きずられ連れられて行く。
「ちょ、まっ」
ちょ、まてよ。
恐怖で声も出ないのだが同時にこの場にいたってもどこか現実味が感じられない。恐怖でおかしくなってきているのか、それともこれは人間の持つ防衛本能なのか。
それにしてもこの男たちそろいもそろってなんでこんなに屈強なんだ。
ボディビルダーの様なモリモリとした筋肉質ではないが実用的ながっしりとした体をしている。
つまり何が言いたいかというと逃げられそうにないということである。
やがて少し開けたような場所につき両膝を突かされる。
命乞いタイムの始まりである。そしてここが最後のチャンスであった。
「お願いします。俺には働けない母がいるんです。そしてもう父はいない。俺は帰らなければいけないんです」
正確には「働けない」ではなく「働かない」であるし父もどっかにはいる。どこかは知らんけど。
「そうか奇遇だな。俺はおふくろがいなくて嫁はどっか行った。だけど小さい娘がいるんだよ。あいつらには俺しかいないんだ」
そうなんですか奇遇ですね。うふふ。
しかし話して思い出した。
そう母のことを。
母にだって俺しかいないのではないだろうか。
クソ親父は8年前に母を殴って蒸発し親戚ずきあいもない。あの性格だから友達もいないかもわからない。
父に出ていかれてからショックで臥せりがちになり現在となっては家事ですら俺の仕事である。
いいとこの大学を出て小中高等学校で使える教員免許を持ち。父と結婚して引退するまで立派に働いていたのに父に出ていかれたとたん何もできなくなるような困った母である。
それでも一応息子として大事にされていると思わなくもない。
ありがとう、迷惑かけて、といつも言うし。熱を出して寝込んだときは看病らしきこともしてくれた。一時期学校にバイトに勉強にで疲れ切っていた時は最低限の家事もしてくれた。
何より父がいたころはもう少し頑張っていたような気がする。
まあ、つまり、やはり、こまった母なのだ。
そして養育費である。
養育費も入らないで母はどうするのだろう。
養育費、こいつのせいで頭が真っ白になり気づいたらこんな状況になっていたがろくでもない走馬灯から俺を現実に引き戻したのもまたこの養育費だった。
わが身の不幸を振り返っていた間にリーダーは胸ポットから折り畳み式ナイフを取りだしていた。
「悪いな坊主、まぁ許せとは……」
「助けてくれぇーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
何とも情けないことだ。
涙が出そうだ。
しかし俺はここで終われないのである。
生きて帰り養育費を、養育費を必ず払わせなければいけないのだから!
そうじゃなかったら今月どうすりゃいいんだ!
今までほぼ無抵抗だった俺がいきなり天を突かんばかりの大声で叫び出したものだから男たちは驚いていた。
「おい黙れ!殺すぞ‼」
馬鹿野郎!殺されないために叫んでるんだろうが!
かといってこちらは中学生、屈強な大人二人の拘束を抜け出せるとは思えない。
だから俺は丸まることにした。
その姿はさながらハイエナたちの攻撃から身を守らんとするアルマジロといったところか!
首を掻っ捌かれて即死しないように喉元を手で押さえうずくまる。
そして叫び続ける。
「助けてぇーーーーーーーーー!!!!ここだーーーーーーーー!!!!」
逃げられる気はしない、だからあらん限りの声で叫ぶ。助けを呼ぶ。
自分でも驚くくらいの大声が出た。山じゅうに響いているだろう。俺の情けない助けを呼ぶ声が。
正直に言ってこのとき本当は死ぬほど怖かった。
脳内でイケメン俳優になってみたりアルマジロになってみたりしていないと正気でいられないくらいには怖かった。
丸まっている間は背中をガンガン蹴られた。本気で大人に蹴られたことなんてなかったのでこれも本当に怖かった。息が詰まって上下の間隔が分からなくまる程痛かったがそれでも叫ぶのをやめなかった。
やめた時が死ぬ時だからだ。
どのくらいそうやっていただろう。
きっと実際は数分にも満たなかったんじゃないだろうか。
でもとにかく必死で、生死がかっていたから俺にはかなりの時間に思えた。
いや~、ねばったなあの時は。
そしてなかなか誰も通りかからないみたいだったから途中でほとんどあきらめたんだ、俺は。
それでも半ば意地になっていたのかもしれない。
でもまぁこのまま蹴り殺されるんだろうと思った。
でも、助けはきた。
きたんだよ。
そして来てくれた少女は天使か女神のような可憐さだったのに全身真っ黒だった。
だから一瞬俺はお迎えが来てしまったのかと思った。
死神って美少女の形してるんだって思った。
でも彼女が言ってくれたからわかった。
彼女はにっこり微笑んで言った。
「待たせたね、助けに来たよ。美しい人」
だから俺は分かったんだ。
もう助かったんだと。
そしてまた、ここでいったん俺の意識は途切れた。