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孫八郎はキヨを家に連れて帰った。キヨは孫八郎のに連れられ銭湯へ行き体を洗った。そして孫八郎が持って来た着物に着替え髪を結った。
「俺の見立てに間違いは無かったようだな。」
彼は満足そうに言った。
孫八郎はキヨを馴染みの飯屋に預けた。キヨはそこでしばらく働く事になった。
キヨは見ず知らずの自分に、何故この男はこんなに良くしてくれのだろう…きっとそのうち遊郭にでも売り飛ばされるんじゃないか…と疑っていた。
しかしいつまでたってもキヨは遊郭には売り飛ばされなかった。
飯屋で働いた給金は、下宿代こそ抜かれるものの、孫八郎が取り上げるでもなく、残りはちゃんとキヨの元に残った。
店で働いていると、孫八郎は毎日のようにキヨに会いに来た。
店キヨを見つけると、「キヨ~!」と満面の笑みで呼びかけた。その度、客たちは一斉にキヨを見るので、キヨは恥ずかしくて堪らなかったが、次第にまんざらでもない気もしていた。
そんな日々がしばらく続き、ある時から孫八郎はキヨの店にパッタリ現れなくなった。
一日、二日、三日目が過ぎても全く顔を見せない。
どうしたんだろう…何かあったのだろうか…キヨは孫八郎の姿を思い浮かべた。
キヨの頭の中で孫八郎は満面の笑みで「キヨ~!」と名を呼んだ。
その時、キヨの心臓は大きな音を立た。
…ドクン…ドクン…ドクン…
心臓の疼きは痛みを伴った。それは両親に暴力を振るわれたときよりも、弟の同級生に暴行されたときよりも、もっと激しい痛みだった。
キヨはその時、やっと気づいた。
―私は孫八郎を愛している!
一週間後、孫八郎はひょっこり現れた。
一週間もご無沙汰だったくせに、孫八郎はいつもと全く変わらぬ態度で「キヨ~!」と手を振っている。
キヨは思わず駆け寄って孫八郎の胸を叩いた。泣きながら叩いた。
孫八郎はそんなキヨの手を取って自分の胸に引き寄せた。そして自分の着物の袂から女物のつげの櫛を取り出してキヨの手のひらに乗せた。
「…これ…。」
キヨは生まれてこのかた、人から物を貰ったことなど無かったので、それが贈り物だという事が分からなかった。
「そこの店で見つけたんだ。お前に似合いそうだと思ってよ!」
孫八郎は横を向いて恥ずかしそうに鼻の頭を人差し指で掻いた。
「これ…アタシがもらってもいいの…?」
キヨは驚いた。嬉しくて堪らなかった。
手のひらの櫛をつまみ上げてまじまじと見た。櫛には美しい鶴が彫られていた。キヨはハッとした。
―鶴…。お母ちゃんだ! お母ちゃんがあの世からアタシを助けてくれたんだ! 孫八郎…この人は…お母ちゃんが話してくれた鶴のつがいのような夫婦になる為に使わしてくれたアタシの運命の相手に違いない!
キヨは櫛を抱きしめた。
「貸してごらん。」
孫八郎はキヨから櫛をもらうと、キヨの結い上げた頭の上にさしてやった。
「良く似合う。」
孫八郎は満足そうに見た。
キヨは「うわぁ~ん」と、まるで子供の様に泣いた。
「キヨ…夫婦になろう。」
孫八郎はキヨをギュっと強い力で抱きしめた。
孫八郎の三番目の妻・キヨは、こんな過酷な人生を生きてきたのだった。
辛い事しか起こらなかった彼女の人生で、唯一差し込んだ光は孫八郎の存在だけだったのだ。
結婚後、孫八郎のクズさを嫌というほど思い知ったが、それでも唯一自分の事を認めてくれ、きっとあの世の母が使わしてくれたであろう孫八郎から離れることだけは考えられなかった。
そしてその妻という座を誰の物にも渡すものかと思っていた。
孫八郎の妻、それがキヨにとって生きているという事、自分の存在の証だったのだ。




