クロノス騎士団:半神の魔法と治る傷
◇ ◇ ◇
翌日の早朝。
本当は昨日、ルーファスを交えて話をする予定だったらしい。
だが、ユーリからの強制ストップが入り、その話は本日へ持ち越しとなった。
今日は改めて話すために、ユーリがアリスたちの部屋までルーファスを連れてくるはずだった。
しかし、そのユーリはまだ事務処理があるらしい。
代わりに、アッシュがルーファスの様子を見てきてほしいと頼まれた。
ユーリ曰く、
「おそらく、休まずに仕事してるだろうからな。俺も仕事で行けねぇのもあるが、自分で行くと朝っぱらから怒鳴る羽目になる」
とのことだった。
もし仕事中に寝ていたら、そのまま寝かせておけとも言われている。
ただ、あの半神が素直に寝ていてくれるかどうかは不明だった。
ユーリに言われた通り、アッシュは最上階へ向かう。
一番広い部屋。
そこが、ルーファスの執務室兼私室らしい。
迷う心配はなかった。
目立つ場所だ。
目的地がはっきりしていれば、さすがのアッシュでも迷子にはならない。
部屋の前に着いたアッシュは、扉を軽くノックした。
……。
返事はない。
「ルーファス?」
もう一度ノックする。
それでも反応はなかった。
アッシュは少しだけ眉を下げる。
(そういえば、エドワードはルーファスのこと、身体が弱いっていう感じで話してた気がする。もしかしたら、中で倒れてる可能性もありそうだなぁ)
そう思い、アッシュはそっと手を伸ばす。
ドアノブに触れ、ゆっくり回した。
扉は、難なく開いた。
鍵は掛かっていない。
その先に広がっていたのは、足の踏み場もないほど書類が散らばった部屋だった。
床。
机。
椅子。
棚の前。
どこを見ても、書類、書類、書類。
まるで紙の海だった。
中央奥にある大きな机には、誰かがいる。
「おーい、ルーファス。おはよー。起きてるー?」
声をかけながら進む。
だが、返事はない。
書類の山をかき分けると、その中に、ペンを握ったまま寝落ちしているルーファスがいた。
どうやらユーリの予想通り、仕事をしていて、そのまま限界を迎えたらしい。
「……すー……」
静かな寝息が聞こえる。
よほど疲れているのだろう。
顔色もあまり良くない。
机に伏せたまま眠っている姿は、昨日の穏やかで神聖な雰囲気とは違って、少し危うく見えた。
このままでは身体に悪い。
一度起こして、寝るならベッドで寝直してもらった方がいい。
そう思い、アッシュはルーファスへ手を伸ばした。
「ルーファス、起き——」
肩に軽く触れた瞬間だった。
ルーファスの身体が、びくりと動く。
眠りの底から、反射だけで引き上げられたような動きだった。
ペンを持っていない方の手が、机の陰に滑り込む。
次の瞬間、銃口がアッシュへ向きかけた。
殺気。
アッシュは咄嗟に剣を顕現する。
銃を持つ腕を掴んで制し、同時に剣先がルーファスの首へ伸びた。
あと少し。
そのまま押し込めば、喉を裂ける距離。
けれど、アッシュはそこでハッとしたように動きを止める。
「ちょっ! ストップストップ! 僕だよ、アッシュだよ!」
「……? アッシュ、くん……?」
「そうそう。だから銃、置いてほしいかなぁ……」
アッシュは首元に当てかけていた剣を消す。
そして、両手を上げた。
敵意はない。
そう示すように。
ルーファスは青ざめた顔のまま、乱れた呼吸を整えていた。
何度か瞬きをし、目の前の相手がアッシュだと理解すると、ようやく銃を下ろす。
「すみません……。少し、変わった夢を見ていまして……」
「……僕、悪夢を見る人に巻き込まれる呪いでも受けてんのかな……」
アッシュはため息をつき、へらっと笑って頬をかいた。
ルーファスもようやく銃を机に置き、近くに置いてあった水を飲む。
喉が小さく上下した。
それでも、指先はまだわずかに震えている。
「それにしても、ルーファスも夢を見るんだね」
「これでも一応、人族でもありますからね」
ルーファスはグラスを置き、少し息を吐いた。
「それに、私が見る夢は大半が予知夢……予言にも近いものです」
「へー」
アッシュは軽く返した。
すると、ルーファスはじっとアッシュの顔を見る。
何かを確かめるような視線だった。
「……そうですねぇ」
ぼそりと呟く。
(え、なんだろう。それに僕、いたのかな……)
アッシュが内心で少し不安になる。
そんな彼へ、ルーファスはにこりと笑いかけた。
「今回の夢は、実際に起こらないと祈りたいものです」
「え、待って。そんなヤバいの? なにか怖い夢?」
「ふふふ。まだ先のことでしょうから、ご安心ください。それに、そうだったかは後で確認します」
「いつか起こることに安心できることある?」
アッシュは思わず突っ込んだ。
予知夢。
エドワードもたまに視るらしい。
それを思い出すと、やはり少し不安になる。
ただ、夢を確認する手段があるところを見ると、さすがは神に近い存在というべきなのだろう。
そんなことをアッシュが考えていると、下階層の方からざわめきが聞こえた。
ただの物音ではない。
複数の怒声。
慌ただしく走る足音。
そして、遠くで響く銃声。
アッシュは窓へ近づき、下の様子を覗き込んだ。
「何かあったのかな?」
下を見ると、正門前に大勢の人影が集まっていた。
さすがにこの高さからでは、どんな相手かまでははっきり分からない。
けれど、銃声や騒ぎ方からして、穏やかな客ではないことだけは確かだった。
ルーファスも隣へ来て、目を細める。
「あー、やはり来ましたか」
その声音に、驚きはなかった。
「下に行きましょう」
「ん、りょーかい」
ルーファスに連れられ、アッシュはエントランスへ向かう。
◇
そこには、すでにアリスやエドワードたちもいた。
皆が見ている先。
正門前には、武装した男たちが集まっていた。
「おいゴラァ!! 騎士団長様よぉ!! 出てこいやぁ!!」
威勢のいい怒鳴り声。
それと同時に、発砲音が響く。
だが、正門からこちら側までは結界が張られているらしい。
放たれた弾は途中で弾かれ、こちらには届かない。
火花だけが散り、銃声の割にはまったく迫力がない。
ユーリが気だるそうに出てきて、侵入してきた者たちを見る。
その顔が、さらに面倒くさそうに歪んだ。
「うわぁ、アイツらまた来てやがる……。毎度懲りねぇなぁ」
「んだよ。ユーリたちの知り合いじゃねぇの?」
「いやいや、ノアさんよ。よく考えろよ。ここ騎士団だぜ?」
ユーリは手を横に振る。
「あんな山賊連中、知り合いなわけねぇよ」
アリスは子どもたちを一歩後ろへ下がらせながら、ユーリへ尋ねた。
「どうすんの?」
「俺らの大将待ち」
ユーリは階段に腰を下ろす。
表情は気だるそうだったが、視線は正門から外していない。
(多分、この騒ぎを聞きつけたルーファスが来るだろうけど、正直、徹夜続きだったからあまり無理はさせたくねぇ……。つっても、俺が単体で行ったとしても、向こうを見る限り二十人以上いるし、あれは面倒だなぁ)
そう考えていると、子どもの一人がユーリの背中に飛びつくようにしがみついた。
それに続いて、数人の子どもたちが近寄ってくる。
「ねぇ、ゆーり。たおしてこないのぉ?」
「さすがに俺一人は無理っての。十人くらいならいいけど、あの人数は袋叩きだっての」
「ゆーり、ださぁい」
「んだと、このチビ助ー!」
ユーリは小馬鹿にしてきた子どもの鼻をつまみ、軽くデコピンした。
子どもたちは、ユーリに構ってもらえて嬉しいのか、きゃっきゃとはしゃいでいる。
しかし、ユーリの表情は変わらない。
(こうしてチビたちが怖がらずにいられるのも、ルーファスが張ってくれた結界のおかげだ。ただ、追い返すまでの力はない。退けるなら、どうしても力づくでやらないといけねぇ。あー、マジで面倒だわ……)
そこへ、騎士団の一人がユーリに声をかける。
「ユーリ様、我々で追い返してきましょうか?」
「やめとけやめとけ。近々忙しくなるのに、あれの相手して怪我したら、それこそダルいわ」
ユーリは手をひらひらと振る。
「ほれ、チビ助どもは向こうでボール遊びしてこい」
「はぁーい」
子どもたちを見送る。
その入れ違いで、ルーファスとアッシュが姿を現した。
「げっ、やっぱ降りてきちまった」
「あれだけの騒ぎだと来ますよ」
ルーファスは正門前の山賊たちを見て、思わずため息をついた。
次の瞬間、彼の纏う空気が変わる。
先ほどまでの疲労や柔らかさが消えた。
背筋が伸び、瞳の奥に静かな光が宿る。
半神。
その言葉が、よく似合う気配だった。
ルーファスは喉元に手を当てる。
音響魔法で声を拡張したのだろう。
柔らかな声が、正門前まで澄んで響いた。
「さて。大勢でお越しいただいて誠に残念ですが、ここはあなたたちが来る場所ではございません」
ルーファスは階段を降りながら、淡々と言う。
「どうぞ、お早めのお引き取りを」
結界内であれば、彼らは入ってこられない。
銃や剣でいくら結界を傷つけようとしても、山賊程度の力ではびくともしない。
ルーファスは騒ぐ山賊たちのすぐ目の前まで歩いていった。
「もし、相手の力量の差も判断できず、引かないのであれば」
静かな声だった。
「私が始末いたしましょう」
ルーファスはパチンと指を鳴らした。
山賊たちの足元に、魔法陣が広がる。
逃げ場を塞ぐように、光の線が範囲を囲った。
だが、山賊たちは余裕そうな顔を崩さない。
むしろ、嫌なほどにニヤリと笑った。
「けっけっけ! 俺様たちが、化け物相手になんの策も持たずに来ると思ったか?!」
「っ!」
山賊たちが引きずり出したのは、三人の子どもだった。
この騎士団の子どもたちではない。
見覚えのない、痩せた子どもたち。
その首には、隷属の鎖。
奴隷用の首輪が嵌められていた。
それを見た瞬間、ルーファスの動きがぴたりと止まる。
「せんせーは、いたくガキどもを大事にされてるよなぁ! 例え、よそのガキでもよ!!」
ルーファスの表情に、曇りが差す。
焦りが滲んだ。
(彼らは、子どもを人質に取るつもりですか。よその子とはいえ、子どもに危害が加わるのは……)
発動しかけていた魔法陣が消える。
その様子を遠くで見ていたアリスたちは、ルーファスの魔法陣が消えたことに気づいた。
ざわめきが広がる。
心配そうに見ていたアリスは、嫌な予感に手を握りしめた。
「ルーファス、どうしたのかしら……」
「……どうやら、子どもを人質に取っているようですよ」
「え、見えてるの?」
「目はいい方なので」
ユキが目を細めながら、アリスへ状況を説明する。
ピンチであることに変わりはなかった。
どうしようかと慌て始めるアリスたちをよそに、アッシュは黙ってその光景を見ていた。
(……あのままだと、多分、ルーファスは怪我をする。というか、良くない方向に行きそうだなぁ)
アッシュはちらりとアリスたちへ視線を向ける。
皆、明らかに心配している。
助けたい。
なんとかしたい。
そんな表情だった。
アッシュは少し考えたあと、『はぁ』と息を落とした。
そして、エドワードへ声をかける。
「ねぇ、エドワード」
「なんだ?」
「これは僕が口出ししてもいいものかな?」
「……ッ!」
エドワードの表情が変わった。
「その言い方だと、お前、どうにかできるのか?」
期待の眼差しが向けられる。
アッシュはいつものように、にこりと笑った。
「へへ。君たちが望むなら、任せてよ」
安心させるような笑顔だった。
(僕からしたら、あの神様がどうなろうと、正直、興味はないんだけど……)
ただ、アリスやエドワードたちの表情を見る限り、助けたいという気持ちは本物だ。
それは、彼女たちの優しさだ。
なら、アッシュはそれに応えるだけだった。
その言葉に、アリスはすぐにアッシュの元へ駆け寄る。
そして、彼の手を握った。
「アッシュ! どうにかできるなら、ルーファスを助けてあげて!」
「ん、いいよ」
アッシュは軽く頷く。
「ただ、その代わり、多分向こうは何人か死んじゃうかもだけど大丈夫かな?」
そう言って、剣を顕現した。
簡単に言えば、山賊たちの首を切り落としてしまえば済む話だ。
けれど、やはりと言うべきか。
アリスは首を横に振った。
「なるべくそれもダメ! 子どもたちがトラウマになったら困るから」
「……わかった。できるだけ善処するよ」
アッシュは困ったように笑う。
そして、顕現した剣をその場に突き刺した。
剣を置いたまま、階段へ向かう。
そのまま高く跳び、階段を一気に降りる。
着地と同時に地面を蹴り、山賊たちのいる正門前へ飛んだ。
山賊たちは、ルーファスに結界の外へ出るよう要求しているようだった。
(結界外に出られるのは面倒だな)
けれど、その前に、子どもとルーファスを助ければいい。
アッシュはルーファスの服を掴み、後ろへ引いた。
「っ?!」
突然のことに、ルーファスが目を見開く。
同時に、山賊たちにも隙が生まれた。
その一瞬で、アッシュは動いた。
スパンッ。
魔力を纏わせた手刀が走る。
山賊数人のアキレス腱が断たれた。
「ぎ、ぎゃああああ?!」
切られた山賊たちは立っていられず、その場に崩れ落ちる。
動揺と困惑が広がる。
その隙に、アッシュは人質にされていた奴隷の子ども三人を抱えた。
そして、そのまま結界内へと跳ぶ。
ルーファスの隣へ、ストッと着地した。
子どもたちを抱えたまま、アッシュは軽く振り向く。
「ルーファス、もういいよ」
「っ! 【転移魔法:瞬間移動】!!」
ルーファスの声が響く。
再び山賊たちの足元に魔法陣が現れた。
今度こそ、山賊たちをどこかへ飛ばすつもりだったのだろう。
だが、魔法陣が展開される直前。
「クソガキども!! ソイツを殺せぇ!!」
山賊の叫びが放たれた。
向こうは魔法で飛ばされた。
しかし、命令だけは残った。
アッシュが抱えていた三人の子どもたちは、いつの間にかナイフを握っていた。
どこから取り出したのか分からない。
その刃には、嫌な気配が纏わりついていた。
子どもたちは戸惑っている。
泣きそうな顔をしている。
嫌がっている。
それでも、隷属の命令には逆らえない。
アッシュは子どもたちを抱えている状態だった。
密着している。
回避も、防御も間に合わない。
ドスッ。
嫌な音が響いた。
首。
腹。
そして、胸元。
紅い血が流れる。
ごぽ、と液体と気泡の混ざったような音が聞こえた。
ルーファスの顔から血の気が引いた。
「アッシュ君!」
慌てて駆け寄ろうとする。
だが、アッシュは首に深々とナイフが刺さっているにもかかわらず、変わらず優しい笑顔を浮かべていた。
子どもたちの頭を、そっと撫でる。
「大丈夫」
声は穏やかだった。
「君たちは自由だよ」
パチンッ、と指を鳴らす。
解除の魔法が走り、三人の子どもたちの首についていた鎖が、ゴトリと音を立てて外れた。
アッシュは子どもたちをゆっくり降ろす。
そして、泣きそうな顔をした三人と同じ目線までしゃがんだ。
「ほら、お兄さんはこう見えて丈夫だから大丈夫だよ」
「ご、ごめ、なさ……! めいれいで、止められなくて……!」
「うん。大丈夫、大丈夫」
アッシュは微笑む。
「ほら見て。怪我してないよ」
そう言って、刺されたはずの場所を見せる。
ナイフが刺さっていたはずなのに、傷口がなかった。
子どもたちは唖然としていた。
それでも、怪我をしていない。
大丈夫。
そう言われたことで、緊張の糸が切れたのだろう。
三人はさらに泣き出してしまった。
対処に困り果てたアッシュは、後ろで呆然としているルーファスを見る。
「あー、ルーファス。申し訳ないけど、後はこの子たちをお願いしてもいいかな?」
「え、あ、は、はい! ユーリ! 保護をお願いします!」
同じように唖然としていたルーファスも、アッシュに言われて我に返る。
急ぎ、三人の子どもたちを保護するよう指示を出した。
ユーリが駆け寄り、子どもたちを受け取る。
アッシュはそれを確認してから、軽く息を吐いた。
しかし、ルーファスはアッシュから目を離せなかった。
先ほど刺された箇所を、もう一度確認する。
首。
腹。
胸元。
見間違いではない。
確かに刺さっていた。
かなり深かったはずだ。
ルーファスは半ば無意識のまま、アッシュの服を掴む。
了承を取る余裕もなく、首元に触れた。
「ほ、本当に大丈夫なんですか?」
「大げさだな。ほんとに大丈夫だよ」
アッシュは落ち着いた様子で答える。
「ほら、思ったよりもナイフが刺さらなかったようで、怪我してないからさ」
アッシュは服を掴むルーファスの手を、そっと引き剥がした。
確かに傷はない。
けれど、嫌な気配は残っていた。
「え、でも、首のナイフは刺さっていた気が……」
「あはは。気のせい気のせい」
本人はそう笑う。
けれど、ルーファスは見ていた。
絶対に刺さっていた。
服をよく見ると、刺されたであろう箇所に血がついている。
首。
腹。
そして、心臓の上。
「……アッシュ君、君は……」
問いかけようとした瞬間。
アッシュの口元から、一瞬だけ笑みが消えた。
ほんのわずか。
だが確かに、口角が下がった。
「……ルーファス」
その声は、柔らかい。
けれど、冷たいものが混じっていた。
「いくら神様でも、触らぬ神に祟りなしって言葉、知ってる?」
取り繕うように、アッシュはにこりと笑う。
しかし、その目は笑っていなかった。
触れるな。
それ以上踏み込むな。
そう告げているようだった。
アッシュは自分の服を軽く払う。
すると、血がついていたはずの場所が、綺麗な状態へ変わっていった。
しかも、血の匂いまで薄れていく。
まるで最初から、刺されてなどいなかったかのように。
アッシュはアリスたちの元へ戻っていく。
その後ろ姿を見ながら、ルーファスは背筋に冷たいものを感じていた。
子どもたちは泣きながら保護され、騎士たちが慌ただしく動いている。
ユーリの怒号も、誰かの指示も、どこか遠くに聞こえた。
ルーファスは、ただアッシュを見ていた。
彼の首元。
胸元。
服に残っていた、血の跡。
確かに見た。
確かに刺さっていた。
それなのに。
傷が、存在しない。
(……ありえない。いや、守護者の能力だったとしても、あの傷の治りの速さは異常です)
ルーファスは半神だ。
神の理も、人の肉体も、どちらも知っている。
治癒魔法ではない。
少なくとも、彼の知るそれとは違う。
アッシュが軽く服を払った瞬間、血の痕すら消えた。
(……触れてはいけないところでしょうか。いえ、それとも——)
神としての感覚が、静かに警鐘を鳴らしている。
彼は敵ではない。
けれど今は、味方だと断言することもできなかった。
ルーファスは無意識に、一歩、距離を取る。
その動きに気づいたのだろう。
アッシュは振り返った。
そして、いつものように笑う。
優しく。
穏やかで。
何もなかったかのように。
その笑顔が、何よりも恐ろしかった。
(……アリス君)
どうか、彼を信じすぎないでほしい。
元の彼を知っているからこそ。
諸刃の剣とならないように。




