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増殖(原作・江戸川乱歩)

作者: 和清(wasei)

とある名探偵の名を拝借している為、原作は江戸川乱歩先生となっていますが、内容は完全オリジナルです。

    1

 一体全体、この状況はなんだ?

 築年数はそれ程経っていない小綺麗なアパート。

 部屋数は四部屋。角隅に一部屋ずつの2DK。家賃は、都内では格安な七万六千円(共益費込み)。

 入口となるエントランスは多少薄暗い。

 階段下には、銀色の郵便ポストが四つ。

 13

 24

 と、各部屋に対応する形で連なるように設置されている。問題なのは、この2番目のポストだった。

 水道工事やら、引っ越し業者やら、何でも屋やらのマグネット広告がポストの中あちらこちらにびっしりと張り付き、その上からまた幾重にも張り付いて溢れかえっている。原色けばけばしい表側も見えれば、腹を見せるように裏返って黒いマグネット側にひっくり返っているもの。

 ポストの中は、まるで虫の大群を放り込んだかのような有様だ……

 2番目のポストだけだ。

 この状況、聞けばたった一日でなってしまうと言う。

 何日も家を空けていたというのならともかく、一日でというのは、異常だ。

 なぜ?

 どうして?

 疑問を投げかけたところで郵便ポストが答えるわけもない

 空は曇天。

 不安ばかりを煽る曇天……。

 だが、それ以上に不安を煽るのは、目の前の無数のマグネット広告……

 ――ガサガサ

 無数のマグネット広告が、蠢いた気がした――いや、確かに動いた…!

「ヒッ…!」

 俺は小さな悲鳴を上げる。

 と、さっきから郵便ポストを睨みながら頭をガリガリと掻きむしるそいつが、不意に、にこやかなニコニコ顔で言うのだった。

「では小林君、この怪異の紐解きを始めよう」

 俺は大林だ――


 こんな奇妙な状況となった原因は、二日ほど前に遡る。

    2

 四月も中頃。

 無事に進級を果たし、サークル(もっぱら読む方が主体のマンガ研究会)の新歓コンパも終えた頃、遅咲きの桜は満開を迎えていた。

 都内、某大学文学部二年生、大林モトキ。ほどほどに遊び、ほどほどに勉強し、同じ学部の学生とも、サークルのメンバーとも、にこやかな付き合いを欠かさず、事なかれに普通の大学生活を送っているのが今の俺。

 普通は大事だ。

 普通にしていれば、必ずいい事がある。

 そしてあった。彼女ができた。同じ学部の岩田早苗。

 お嬢様系の美人で、狙っている奴は何人も居たが、告白は彼女からだった。

 ほら、いい事があった。

 一年の頃から付き合い始め、もう半年近く経つが未だに彼女の絵画のように美しい顔立ちは四六時中眺めていても見飽きない。それ程の美人。

 こんないい事はない。遅咲きの桜も、こんな俺の最高のキャンパスライフを祝福してくれているようだ。

 ……だが、いついかなる時も、青天の霹靂というものはある。俺の、普通でいたい、という意思などまったく無視して、いや、だからこそ青天の霹靂なのだが、普通じゃない事というものは顔を覗かせる。

 覚悟はしていた。今までの俺のキャンパスライフ、上手く行き過ぎだ。

 ただ、それがまさか早苗からもたらされるとは、思ってもみなかったが……

「ポストの中でマグネット広告が増殖する…?」

 最初、俺は彼女、早苗の言葉の意味を把握できなかった。

「ええっとぉ……、早苗さん…?」

 いつもは早苗と呼んでいるが、この時ばかりは呆気に取られて思わず『さん』付けしてしまった。

「そうだよね……私、おかしいよね……」

 ポロポロと涙を流して泣き崩れる早苗に俺は思わず慌てる。

「ちょちょっ、とりあえず落ち着こう、なっ」

 ちなみに、今俺達が居る場所は喫茶店。それもド真ん中の席。一斉に好奇の目が注がれる。口々に聞こえてくるのは「別れ話…?」というヒソヒソ声。冗談じゃない。縁起でもない!

「まずは、落ち着いて話してくれないか…?」

 言いながら俺は早苗にハンカチを渡す。早苗はそれで涙を拭いながら、コクリと頷いた。

 事件のあらましはこうだった。

 以前から早苗の住むアパートのポストには、マグネットシート型の販促チラシ、いわゆるマグネット広告がよく投函されていた。しかし、その時点では早苗も、捨てるのが面倒だなと思う程度で大して気には止めていなかったそうだ。

 だが、マグネット広告は日を追う毎にその数を増し、とうとうポストの中はマグネット広告で溢れかえってしまった。片付けても片付けても増え続けるそれは、まるでポストの中で湧いて出てきて増殖し続けているかのようだと、怯えた目で早苗はそう語るのだった。

「う~ん……確かに数は異常だと思うけど、それって単に投函が異常なだけなんじゃ……」

「私もそう思ったけど……」

「けど…?」

「動いたの……」

「動いたって……」

「だからね、ポストを開けたら、マグネット広告が動いていたの…!」

「いや、まさか……」

「それだけじゃないの……大量のマグネット広告を片づけていたら、噛みつかれたの……」

 言いながら、早苗は右の人差し指に貼った絆創膏を俺に見せた。おいおい、マジかよ……

「私も信じられなかったけど、それからはもう、ポストを開けるのも嫌で、あの黒い塊がポスト中に張り付いているのが、もう怖くって……」

 と、早苗はまたポロポロと涙を流し始めた。

 どうしたものかと、俺は思わず頭を掻いたが、どう考えたって俺が早苗にしてやれる事は一つしか無かった。

「わかった。したらさ、明日一日、俺が早苗のアパートのポストを見張っておくよ」

「でも、モトキ君、大学は……」

「一日休んだくらいで影響なんて無いよ。それより、このままじゃ早苗が参っちゃうだろ?」

「ごめんねモトキ君、心配かけて……でも私、モトキ君と付き合っていて本当に良かった……」

「ハハ、そんな大げさだよ」

 と、笑ったものの、内心俺は飛び跳ねそうになるくらい嬉しかった。大好きな早苗に「付き合っていて良かった」なんて言ってもらえるなんて!

「とにかくさ、その異常事態の原因は必ず俺が突き止めてやるから早苗は安心してていいよ」

 俺は早苗にガッツポーズをしてみせた。

 だが……

    3

「で、結局アニキは犯人捕まえるどころかストーカーに間違えられたってわけ?」

 目にも眩しい金髪を振り乱し、目の前のJKギャルは、納豆ごはんをかき込みつつニヤけた顔を俺に向け、そしてバカ笑いした。

「バッカじゃないの! 超ウケるんですけど!」

「うるせーなー……」

 仕事で遅くなる両親に代わり、夕食をせっせと作って四歳下の妹の美香と共にダイニングで食べている時だ。なんとなく話のネタにと今日の張り込みの顛末を話したのが失敗だった。

 まったく、中学生の頃はおとなしくて可愛げもあっのに、高校生になった今では見る影も無い……

「でも、早苗さんが誤解といてくれたなら良かったじゃん」

「まあな……」

 意気込んで早苗のアパートの前で張り込みを始めたまでは良かったのだが、昼になって腹が減り、近くのコンビニで買っておいたパンと牛乳を刑事ドラマの気分で食べていると、背後から本物の警官に声を掛けられた。

 どうやら『ストーカーっぽい不審人物が居る』という通報があったらしい。

 で、交番まで引っ張られてストーカーの誤解を解くのに早苗に迎えに来てもらった。もう恥ずかしいやら情けないやら……

 大学から迎えに来てくれた早苗は笑ってくれたから良かったのだが――問題はここからだった。

「そのあと、一緒に早苗さん家のポストを覗いたら、増殖していたと」

 それは尋常な量ではなかったのだ。午前中、投函する者の姿は無かった。つまり、投函されたとしたら午後、俺が警察に引っ張られている間という事になるが、それにしても普通じゃない。朝、カラだったポストの中は、マグネット広告で埋め尽くされていたのだ。

たかがマグネット広告とタカをくくっていた俺だったが、ポストの中の有様に俺は恐怖を覚えた。そして、不意に早苗が俺の背中に隠れ、震えながらポストのある一点を指差した事により、それは本物の恐怖へと変わった……

「あっ、そのマグネット広告、動いたんだ」

「えっ…?」

「もしかしたら早苗さん、噛みつかれたりとかしていない?」

「お前、何か知ってんのか!」

 俺は思わず立ち上がって声を上げた。

 と、美香がそんな俺を睨んだ。

「アニキ、怖いよ」

「ああ、ゴメン……」

 俺は慌てるように椅子に座り直す。

「……で、何か知っているなら教えてくれ」

「別に知ってるってわけじゃないけど、何となくそんな気がしたの。それさ、いわゆる『怪異』でしょ?」

「まさか……」

 そう答えながらも、俺は背筋に冷たい物を感じた。

 と、美香は真剣な顔をして言うのだった。

「じゃあさ、アニキにイイ子紹介してあげるよ。この手の事に詳しい友達でさ、あたしもその子のおかげで、こういった事にやたらと勘が良くなったんだよね」

 ――ったく、高校生の怪談遊びじゃないんだぞ…… そう思わずにはいられなかったが、しかし、不意に俺は、こんな時にピッタリの言葉を思い出した。

 藁にもすがる思い……

 俺は、藁にすがる事にした。

    4

「やあ、はじめまして。美香くんのお兄さん」

 明くる日の土曜日、曇天の下、美香が紹介してくれた友達は、にこやかな笑顔を浮かべて俺にそう挨拶した。

 白いブラウスにピンクのスカートを履いた女の子。身なりも顔立ちも綺麗だったが、髪はロングヘアと言うよりは、伸ばしっぱなしの長い髪。それもボサボサ。そんな特徴に変わり者の匂いを感じる。

 だが、そんな事よりも、もっとも問題だったのは、その身長。110センチ程度。美香が連れてきた友達というのは、どこからどう見ても小学生だったのだ。

「まさか、本当に藁だったとは……」

 俺は思わずその場に崩れ落ちた。そもそも、こんな小学生を友達と呼ぶ俺の妹はいったい……

「ふむ、美香くん。やはり君のお兄さんは、ボクのような小学五年生が現れてショックを受けているようだ」

「大丈夫だよ。アニキ、ロリコンだから」

「美香、お前ッ…!」

「なるほど。だったらボクは、ランドセルを背負ってリコーダーでも吹きながら現れた方が喜ばれたかな?」

「なにそれ? 超ウケる!」

 バカ笑いを見せる美香に、俺は怒鳴らずにはいられなかった。

「美香ッ! お前いい加減にしろよ! なんだコイツは! もう少し普通の奴を紹介しろよ! 普通の奴を!」

 俺に怒鳴られた美香は、ピタリと笑うのをやめる。だが小学生の方は、にこやかな笑顔のまま俺を見据え、静かに言った。

「随分と普通にこだわるね? そして、ロリコンという言葉に過剰反応していたようにも思われる――さてはキミ、中学か高校の時にロリコンに纏わる事で酷い目に遭ったね? だから必死に普通でいようとしている。違うか?」

 俺は思わず後退った。なんだコイツは……

「どうやら図星のようだね」

「アニキさ、高校の時に道で迷子になってた三歳の女の子を保護したんだけど、交番に連れて行く途中で同級生に見られて、それ以来ロリコン扱いされた経験があるんだよね。連れ回しと勘違いされたの。もう立ち直ったと思ってたんだけどねぇ」

「なるほど。それ以来、美香くんのお兄さんは普通という事にこだわっているわけか……」

 そいつは、相変わらずにこやかな笑顔のまま俺をジッと見つめた。が――

「まあいい。早速本題に移ろう。確か、増殖するマグネット広告の怪異に困っていると聞いたが?」

「あ、ああ……」

 ただの小学生だ。そうだ、藁だ。そう思いながらも、俺は事のあらましを説明した。

 いや、説明させられた。そのにこやかな顔に。決して俺から視線を外さないその目に……

「なるほどね。では、早速現場に案内したまえ」

 俺から説明を聞き終わると、そいつは早速のように俺の腕を掴み、「お、、おい……」と、戸惑う俺など無視して俺を引っ張った。

 が、不意に立ち止まり、振り返った。

「――と、その前に、ボクはキミを何て呼べばいいかな? 美香くんのお兄さんでは長いし……あっ、そう言えばボクは、美香くんの苗字を聞いた事がなかったね」

「大林だよ」

「おっ、いいな。それでは今から美香くんのお兄さんは小林君と呼ぶ事にしよう」

「なんでそうなる! 普通に――」

「あっ、そうだ。ボクはまだ自己紹介をしていなかったね。ボクの名前は明智小五郎。怪異専門の探偵だ」

「はあ?」

 訳が分からない。明智小五郎って……

「おい美香! コイツちょっとどうにかしろよ!」

 だが、美香は笑顔で言うのだった。

「大丈夫だよ、アニキ。小五郎ちゃんって、アニキが思っている以上に普通じゃないから」

「それでは行くぞ、小林君」

 俺は、明智小五郎を名乗る謎の女子小学生に引っ張られ、無理やり早苗のアパートまで案内させられた。

    5

「あれ? モトキ君って、妹さん、もう一人居たっけ?」

「いや、コイツは……」

 別に行くという連絡はしていなかったが、早苗のアパートを訪ねると、早苗はすぐに出てきた。

「あのぉ、早苗、すごく言いにくいんだけど……」

 と、口ごもっていると、小五郎(とは、あまり呼びたくはないが……)は、相変わらずのにこやかな笑顔と口調で早苗に挨拶した。

「はじめまして、岩田早苗さん。ボクは明智小五郎。キミの彼氏の依頼でやってきて探偵だ」

 当然のように早苗は呆気に取られたが、すぐに気を取り直すようにクスッと、小さな笑みを零し、しゃがんで小五郎と視線を合わせた。

「なんだかアニメみたいなこと言うのね」

 続けて俺は、早苗に申し訳ない顔を作った。

「すまないな早苗。美香にポストの事を話したら、詳しい人間紹介するって言われて……でも、まさか小学生を連れてくるとは思わなくって……」

「気にしてないから大丈夫。私、子供好きだし。それに、ああいう事って子供の方が詳しかったりするしね。ねっ、小五郎ちゃん」

 そう笑顔を浮かべる早苗に、小五郎も相変わらずのにこやかな笑顔で返す。

「まあ、とりあえず現場を見てみないとわからないけどね――ただ、その前に一つ気になる事があるのだが、いいかな、早苗さん」

「ん? なに……」

 と、早苗が返したその瞬間だった。まるでその隙を突くように、不意に小五郎は早苗にキスをした……

「な、な、な……」

 余りに突然の事に俺は言葉にならず、小五郎が早苗の唇から離れた瞬間、俺は怒鳴った。

「なにやってんだお前ッ!」

 だが、振り返った小五郎は涼しい顔で言う。

「そう目くじらを立てるなよ、小林君。女子小学生の可愛いイタズラだ」

「お前なあッ!」

「モトキ君、怒らないで。私は大丈夫だから。ちょっと驚いただけ。子供のイタズラだし、女の子だし……」

「だからって!」

「さて、それじゃあ早速現場を見せてもらおう」

 怒り狂っている俺をよそに、小五郎はさっさとアパートのエントランスへと向かっていってしまった。

    6

 早苗が上着を羽織り、サンダルを履く頃には、小五郎はすでに居なかった。エントランスのポストを調べでもしているのだろうが――

「――まったく、アイツいったいどういう教育受けてんだ。言葉遣いだっておかしいし、あんな人をからかうようなイタズラまで…!」

「まあまあ、モトキ君……」

 怒り覚めやらぬ俺を、早苗は苦笑しながら宥める。だが、やはりああいう子供は、一度叱らないといけないと思う。

 俺と早苗がエントランスに行くと、思っていた通り小五郎はポストの前に居た。とにかく俺は一言叱ってやろうと小五郎のそばまで行く。

「おい、小五郎。お前なぁ――」

 だが、そこで俺は言葉を止めてしまった。一種異様な雰囲気が小五郎からは立ち上っていた。

 相変わらずのにこやかな笑顔は消えていた。

 伸ばしっぱなしの長い髪をガリガリと掻きむしり、ポストのフタを開けて溢れかえったマグネット広告を睨んでいる。

 小五郎の周りにだけ、何か近寄りがたい雰囲気が漂っていた……

    7

 そして、今に至っているわけだが……


「では小林君、この怪異の紐解きを始めよう」

 俺は大林だ――     

――と、言い返したいところだったが、それどころではなかった。動いた。マグネット広告は、たった今、確かに動いたのだ。

 俺は思わず後退り、見れば、早苗などは追い詰められたような恐怖の表情で壁に背中を預けていた。

 俺はすぐに早苗を守るように肩を抱く。早苗は肩をガタガタと震わせ、今にも泣き出しそうだ。

「早苗、落ち着いて……」

「う、うん……」

 早苗は力なく頷く。

 だが、小五郎はそんな俺達を気にする様子も無く、相変わらずのにこやかな笑顔で振り返り、早苗に口を開いた。

「早苗さん、キミは小林君にマグネット広告が動いた、噛みつかれた、と説明したそうだが、実際には逆だったんじゃないか?」

「逆……?」

「つまり、実際には、噛みつかれて、よく見たら動いていた、というのが正しいんじゃないかな?」

 と、早苗は小さく頷いた。

「では次に、これを見てどう思う?」

 小五郎は、スカートのポケットからスマホを取り出す。その機種は、なんとiPhone11Pro。

「おいおい、小学生がiPhone11Proかよ……」

 と、思わず俺は呆れたが、その途端、早苗はビクンと肩を大きく震わせた。

「早苗…?」

 小五郎が見せていたのは、iPhone11Proの特徴である背面の三つのカメラレンズ。

「やはりね――今回の怪異の原因は、早苗さん、すべてあなたが原因だ」

「私が……?」

「おい小五郎、ちゃんと説明しろよ」

「いいだろう……」

 そう言って小五郎は、相変わらずのにこやかな笑顔のまま語り出した。

「まず、早苗さんは極度の集合体恐怖症(トライポファビア)だ。蓮の断面や蜂の巣に不快感を感じるアレだよ。早苗さんは、この三つのカメラレンズを見ただけでビクついたくらいだから余程だろう。似たような物が集合しているというだけで恐怖を感じてしまうのではないかな? そして、このマグネット広告の怪異が始まってから、早苗さんはかなり強いストレスを感じていたはずだ。下唇が常に震えている」

 早苗は思わずのように自分の唇を触る。

「人間は恐怖の対象に対して強いストレスを感じると、下唇が震えるんだ。長く続けば、それは常に起こる。さっきボクが早苗さんにキスをしたのは、それを確かめる為だよ。多少、趣味もあったがね――」

 おい、今コイツ変なこと言わなかったか……

「――それでだ、そんな極度の集合体恐怖症(トライポファビア)の早苗さんだが、無数に集まったマグネット広告に不快感を感じながらも、片づけなければ郵便物が入らなくなると思い、意を決して――まあ、目でも瞑って思い切り大量のマグネット広告の中に手を突っ込んだんじゃないかな。中には角が鋭くなっている物もあるからね。そして手を切った」

 早苗はハッとしたような顔を見せた。

「噛みつかれたという真相はそれだ。そこから恐怖感は爆発的に増し、とうとう動いているように見えた。枯れ尾花の幽霊というやつだよ」

「でも俺は、今だって確かに動いたのを見たぞ……」

「キミは巻き込まれたんだよ、小林君。キミは随分と深く早苗さんを愛しているようだからね。小さな子供が親に言われた事を何でも信じてしまうように、愛する人から、そうだ、と言われれば、そんな気にもなるものさ」

 た、確かに……

「じゃ、じゃあ、増殖していたのは…!」

 と、小五郎は途端にフフフと、笑い出した。

「これは笑うぞ。まあ、見ていたまえ」

 13

 24

 小五郎は、2番目の位置にある早苗のポストを開けると、1番目のポストにマグネット広告を投函する。

 なんと、1番目のポストに投函したはずのマグネット広告が、2番目の早苗のポストに落ちたのだった。

「これね、1番目は底に、2番目は上にと、両方のポストには穴が開いているんだよ。手前の方にね。要するに1番目に投函された物は2番目に落ちる仕組みになっているんだ。1番目のポストは、中を開けるとチラシがだいぶ溜まっていたから、今は空き部屋なのだろう。だから以前の住人が開けたのだろうね。さっき中を調べたが、どちらも糸ノコで切られたように綺麗に穴が開いていたから人為的に開けられた事は確実だ」

「わけわかんねぇ。なんでそんな事を……」

「自分のポストにマグネット広告を溜めない為さ。恐らく、この辺りは以前からマグネット広告の投函が頻繁に行われているのだろう。毎日のように溜まるマグネット広告。処理をするのも面倒だ。そこで前の住人は考えたわけだ。手前に穴を開けてしまえば、適当に投函されるマグネット広告は、そのまま下に落ちる。郵便物は奥まで押し込まれるから落ちる事は無い。そして、ポストはそのままに前の住人は引っ越した。その引っ越しに気付いたのが、マグネット広告の投函のバイトしている連中だ。いいゴミ箱が出来たと、投函しきれなかったマグネット広告をまとめて入れるようになった。アレは余らして帰るとウルサイらしいからね。だが、空き部屋のポストであれば大量に入れたって苦情が来る事は無い。そして、早苗さんのポストに大量に溜まるようになってしまったというわけだ。何十個も同じマグネット広告があるのが証拠だよ」

 よく見れば、確かに早苗のポストの中には同じマグネット広告が束になっていくつもあった。動き始めた事に恐怖を覚え、そんな観察すらしていなかった……

 と、小五郎はマグネット広告の一つを手に取ると、早苗の方へと行き、早苗の手を取ってマグネット広告をその手の上に乗せた。

「まだ、マグネット広告は動いているかい?」

「私、なんでこんな物、怖がっていたんだろう……」

「よし、事件解決だ」

 俺は、ただただ呆気に取られていた。こんな小学生なのに……こんな小さいのに……小さいのに……

「さてと、じゃあボクは帰るよ」

「ありがとう、小五郎ちゃん。今度、必ずお礼するね」

「礼には及ばないよ。それより早苗さんには、早めに管理会社に連絡してポストを取り替えてもらう事を勧めるよ」

 そして小五郎は俺に振り返る。

「では小林君、行こうか」

「えっ?」

「まさかキミは、こんな夕暮れ時に、こんなか弱い女子小学生を一人で帰らせる気かい?」

「はいはい、わかったよ――早苗、俺、コイツ送ってくるから家で待っててくれ」

「じゃあ、私も一緒に……」

「いや、早苗は家で食事の支度を頼むよ。俺は飲み物でも買ってくるから、事件解決の乾杯をしよう」

 早苗は嬉しそうに満面の笑みで頷いた。

    8

 夜のとばりが落ち始めた夕暮れ時。土曜日のせいか、すでに人の気配も少ない住宅街。

 後ろを歩く俺に振り返る事もなく、小五郎は俺の前を歩いている。

 と、小五郎は背中を向けたまま俺に話しかけた。

「実を言うとね、小林君、ボクは最初、今回の怪異はあまり乗り気じゃなかったんだ。美香くんから事のあらましを聞いた時に、おおよその検討がついていたからね。紐解きをしたのは、まあ一応確認の為だ」

 背にした夕焼けが、小五郎の長い髪を赤く染めている。

「そんなボクが、どうして今回の怪異を引き受けたのか? 答えは簡単だ。以前から気になっていた美香くんのお兄さん、キミからの依頼だったからだよ」

 小五郎は足を止め、俺も同時に止めた。

「キミは知らないだろうが、ボクは美香くんが中学生の頃からの知り合いでね、高校に上がった途端の彼女の変わり様には強い疑問に感じていた……」

「何が言いたいんだよ、小五郎……」

「とりあえず、だ。ボクの背後で振り上げているその両腕は、どうするつもりだい?」

「あっ……いや……」

「気持ちは嬉しいが、生憎とボクは男性に興味は無いんだ」

 なんだ……俺は何やってんだ……

「フフ、わざわざ早苗さんを家に置いてきたまでは良かったけどね。相手の背後に立つ時は、人の気配だけじゃなく、自分の影にも気を配った方がいい」

 前へと伸びる俺の影。小五郎の背後で両腕を振り上げる俺のその影は、まるで鬼のように見えた……

「美香くんからキミの事は以前から聞いていた。美香くんは随分とキミを慕っているようだよ。その慕い方は異常だと言ってもいい。まるで、そう自分に言い聞かせるかのような慕い方だ」

「………………」

「小林君、キミ、美香くんを襲った事があるね」

「……ッ!」

「いつも上目遣いで、人と話す時もモジモジとしていた彼女のあの変わり様は、キミから身を守る為だろう。実の兄を憎みたくない、ならば自分の身は自分で守ろうと気の強い女性を演じる事で彼女はキミから身を守っているんだ。なんとも優しい妹さんじゃないか」

「お……俺は……」

「ついでに言うとね、キミが高校生の時に迷子の案内を連れ回しと勘違いされたと言うアレ、実は本当に連れ回しだったのだろう?」

「俺はッ…!」

「迷子を案内していただけで連れ回しと勘違いされるなんて、いくらなんでも行き過ぎだ。冗談でからかわれたのならともかく、話を聞く限りでは、本気でそう思われていたようだしね。だったらキミにその要因があったとしか思えない。例えば、迷子を案内していたと言いつつ、誰もが知っているはずの交番の位置とは逆の方向に幼女を連れて行っていたとかね? そこを同級生に目撃された。違うか?」

 そして、小五郎は初めて俺に振り返った。相変わらずのにこやかな、ニコニコ顔で。

「キミの本質は悪だ。キミに普通など訪れやしない」

 それはもう、ニコニコ顔なんかじゃない。ただの不気味な笑いにしか俺には見えなかった……

「美香くんがキミをボクに紹介したのは、彼女なりのSOSだったのかもしれないね。ボクなら兄の中にある悪を、黒い衝動をどうにかしてもらえるかもしれないと――ならば、ボクも勘違いされたものだ。探偵と猟奇者は紙一重だという事を彼女は知らないのだろう。ボクは、小林君のような人間を弄ぶ方が好きなんだから」

 再び、小五郎は俺に背を向けた。

「まあ、キミがロリコンじゃない事だけは認めよう。それは自分が一番よくわかっているだろう?――にしてもまったく、キミのような者が、早苗さんのような、おとなしくか弱い女性と付き合い、あたかも出来た彼氏を演じているのだから、マグネット広告の怪異などより、小林君、キミの方が余程の怪異だよ。実に愉快な存在だ」

 そこまで言い終えて、小五郎は一人歩き出した。

「ありがとう、ここまで送ってくれれば大丈夫だ。では、また会いたいね、悪の小林君」

 小五郎は背中を向けたまま手を振り、路地の角を曲がり、消えていった。

 同時に俺は、体中の力が抜けたかのように近くの電信柱にもたれ掛かった。

 小五郎の語った事は、すべて当たっていた……

 俺の中には、常に黒い衝動が鎌首をもたげている。

 俺は過去二回、美香が小学生と中学生の時に襲っている。俺が寸前で踏み留まり、それは今、俺と美香だけの過去になっている。

 連れ回しの件にしてもそうだ。俺は迷子を見つけ、人気の無い場所を捜して連れ回していたのだ。あの時、もしクラスの奴に声を掛けられなかったら――

 ――俺はきっとあの幼女を殺していた……

 しかし、幼女に興味があるわけじゃない。俺は、自分より小さく弱い者を見ると、狂おしいくらいに愛してしまい――無性に握り潰したくなる。

 それは年を追う毎に肥大化し、その真っ黒い悪意は今も増殖を続けている。

 俺が未だにこの衝動を表さずに早苗と付き合えているのは奇跡に近い。いや、アイツの言っていた通り、それこそが怪異と呼ぶべきか……

「だから、普通でいたい、いようと決めたのに……」

 たった今も小五郎が、あのニコニコとした薄ら笑いを浮かべ何処かで俺を見張っているような気がした…… 

                      〈了〉


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