夏
一・ウミ
海を見たいと、その人はつぶやいた。
純白の部屋のベッドの上で、ポツリと。
病的なまでにクーラーの効いた冷蔵庫のような部屋の中、僕は、緑茶の入ったあの緑色のペットボトルから、水滴が一つ伝って落ちるのをただ目で追うだけで、何も言えなかった。
ベッドからたったの一メートル離れたところには、大きな窓があって、そこから、快晴の夏空が、自由に、雄大に、広がっているのが見える。
「空を見たい」
と、その人はまたポツリと。
近くには僕しかいない筈なのに、僕に言っているとは思えないほど、窓の奥、ずっと遠くの外の世界に語り掛けるかのような、静かな声。
「窓から見えてるじゃん」
去年までの僕であったなら、そんなことをおちゃらけた風に言っていられたのに……。
気分が悪いのは何時もの事だけれど、どうしてか僕には、窓の外の世界がひどく眩しく見えた。
「ごめんね」
唐突に、また。
今度は、その真っ白な顔を僕の方へ向けて、さっきよりもはっきりと。
どうしてそんなこと言うんだい――なんて、気の利いたことは言えなかった。
ただ、沈黙。
僕はただ、これ以上ここには居られない気がして、
「ごめん、そろそろ時間だから。 帰るね」
と、作り笑いを張り付けて、逃げる様にその場から立ち去ることしかできなかった。
自己防衛だ、と心の中で決めつけ、後ろを振り返ることなどせずに、現実から目を逸らした。
鉄筋コンクリート製の、僕らの地域では珍しい大きな建物から外に出ると、現実から逃げてきた僕を、蝉たちが一斉に嘲笑った。
首筋を伝った汗が、体だけじゃなく、心も冷やしていく。
こんなんだから僕は――なんて分かり切ったことを、自己嫌悪と言う言葉を都合よく使って心の中で割り切った。
つらいとも思わない。 苦しいとも思わない。
ただ、何故か、無性に悲しくて、この空虚な心の置き所を探し彷徨うように、家路を歩く。
快晴の夏空が、蝉たちに嗤われている僕を、品定めするように覗き込んでいたことなど気が付かずに、ただ足元の一点を見つめながら、トボトボと。
去年の夏、あの人と一緒に空を見上げた思い出が、まるで映画を見ているかの様に、輝き、そして、ひどく他人事のように思えて仕方が無かった。
二・クモ
今日も又、いつもの部屋に訪れる。
スライド式の扉を開くと、いつものベッドの上でその人は、いつもの様にただ窓の外を眺めていた。
ベッドの近くの窓からは、やはり夏空が広がっているものの、入道雲がモクモクと、ずっと遠くにある筈なのに、轟が聞こえるかのような迫力をもって聳えているのが見えていた。
それは、さながら夏の風景を描写したよくできた水彩画の様で、それにしてもどこか、僕には出来すぎている感が否めなかった。
「――あの雲の上に……」
その人は、木の枝のような細い腕をゆっくり持ち上げて窓の外を指さして言った。
その人の目が、潤んでいた。
よく見れば、伸ばした腕も、少し、震えている。
そうだというのに、僕は、どこか安心した気持ちになってしまった。
やっぱり、怖がっているんだ――なんて、ずっと気にしていない風を装っていたその人の本心を、無言の気持ちを目の当たりにしたから。
「――あの雲よりずっと遠くに、行けるのかな」
震えた儚げな声で、かすかに言った。
視線の先には、あの真っ青なキャンパスに描かれた純白の入道雲。
あの、モクモクとした感じが、さながら万人を受け入れる包容力の塊の様に見える。
今、入道雲の近くを、飛行機が白い尾を引いて通り過ぎていった。
飛行機ですら、あの雲を超えることはできなかったから――。
だから、そんなの無理に決まってるでしょ――なんて、その人の言葉を一蹴できる訳が無かった。
「――うん」
だから、僕にはその言葉を最大限気にしていない風を装って答えるしかなかった。
いつの間にか止まりかけていたクーラーが、再び全力を出し始めた音が聞こえ、それとほぼ同時に、その人は、ベッドの上で口を押えて、静かに泣いていた。
気の利いたことは言えないなんてことは、最初から分かっていた筈なのに、必死に体を縮こませて涙を抑えようとして肩が震えてしまっているその人を見ると、僕の無力さを思い知らされた。
――知っていた筈だろ?
――分かっていた筈だろ?
――慰めの言葉一つ欠けられないのか?
窓の外の入道雲が、そう、僕に語り掛けた。
三・シュウエン
終わってみれば、何も、ただの一歩も、僕は進むことが出来ていなかった。
物語のおしまい。
これが一連のストーリーであるとするのならば、起承転結も、何もかもが無かった。
最初から決まっていたことだし、夏が過ぎる時にすべてが終わるなんて言う事は、最初から分かり切っていた筈だ。
その人も、僕も、周りの人たちも、誰一人喜びを感じることなどなかったし、前進して得られることもなかった。
夏の終わり、あの日聳えていた入道雲のずっと先。 遠い果ての地に征ったその人は、一体今年の夏をどう思っていたのだろう。
あの、澄み渡った青空は、少し薄くなり、夏が過ぎ去ったことを教えてくれる。
僕らにとって、夏は、あまりにも短すぎて、あまりにも身勝手だった。
ランショウ
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