第1話 魔眼
気が付けば空にいた。
「な・・・・・・っ!?」
言葉が出ない。
落ちている。凄まじい速度で落ちている。
「な・・・え・・・ちょっ・・・!!」
地面が迫る。
死が迫る。
どうすればいい? どうすれ・・・
木村一郎ができたのは手を伸ばす、ただそれだけだった。
大地に指先が触れる。受け流す。
「がっ!? かはっ!」
どうなったのか? どうしたのか? とにかく一郎は地面を転がっていた。
「くっ!?」
そして、掌と片膝をつく格好で地面に着地。
「・・・・・・助かった・・・んですかねぇ・・・?」
いまいち状況は把握できないが、どうやら怪我はないらしい。怪我はないらしい?
思わず自分の体をペタペタと触る。怪我はない。本当に怪我がない。
相当な高さだった。にも拘らず掠り傷一つない。
「いやいや、一体全体何がどうなってるんでしょうかねぇ・・・」
天を仰ぐ。青い空、白い雲、いい天気だ。
太陽は燦々と照り付け、その横には赤紫色の月がうっすらと・・・
「・・・月?」
月である。いや正確には月かどうかは分からないが、月らしきものが見えていた。
拳一つ分くらいなのでそう大きくもない。
まぶしい太陽の横で確かに見える存在感。
真昼の月というだけなら、そこまで珍しくはない。
しかし、あんな色は初めて見た。
――――生き返ってもらうだけです! 別世界で!
脳裏に蘇るのはそんな能天気な声だ。
「ここが・・・」
辺りを見回す。
生い茂る木々。
今いるところはちょっとした広場のようになっているがその周りはどうやら森のようだ。
足元は芝生のような草が茂っており、視界にはいくつか大きな岩も見える。
「別世界・・・ですか・・・」
無意識にポケットを探る。
と、右のポケットに硬い感触。
煙草だ。取り出して見る。
「・・・・・・? え、り・・・く??」
見たことのない銘柄だ。真っ黒な箱に白字で何か書いてある。英語だろうか?
普通のフォントではないので非常に読みにくい。
中指で眼鏡を・・・直そうとして思い出す。
「そういえば目を良くしてくれる、とか言ってましたよねぇ・・・」
恐る恐る眼鏡をはずす。
見える。
眼鏡をかける。
見える。
「・・・・・・ふむ」
確かに視力は上がっているようだ。
どうやらこの眼鏡、度は入っていないらしい。
そんなこと思いながら他のポケットも探っていく。
どうやら自分はコートを着ているらしい。これまた真っ黒のコート。
黒色に特別な思い入れでもあるのだろうか?
まあ、今はどうでもいい。
「これは・・・ジッポですかねぇ・・・」
これまた黒い。こちらは装飾はなく鈍く光る妙な金属で出来ている。
カチャ・・・シュボッ
小気味のいい音とともに火が点る。
慣れた動作で煙草に火を付け一服。
「ふぅぅぅ・・・・・・」
煙を吐きながらちょうど良い岩の上に腰を下ろす。
左手でパチンと蓋をしたジッポライターをポケットに戻し、右手で待つ煙草を再び銜える。
「手持ちはジッポと煙草のみ・・・眼鏡ケースもなし・・・」
コートの下は布製のシャツに長ズボン。イメージとしてはTシャツにチノパンが1番近い。
足元はブーツらしい。頑丈な作りで底も厚い。
当然のように色は全て黒。
眼も髪も黒の筈なので全身黒づくめである。
「いや、髪や眼の色はまだ確認していませんでしたね・・・」
もしかしたら変わっている可能性もある。
ぼさぼさの黒髪をかきながら、一郎は息をつく。
ガサ・・・ガサ・・・
草が擦れるような音。
距離としてはかなり近い。だいたい木を一本挟んですぐ向こう、
そのくらいの位置に、
「グルゥゥゥゥ」
熊がいた。
大きい。まだ頭しか見えていないが、大きい。
その首がこちらに向く。目が合った。
紅い瞳が三つ。側頭部からは角。
やたらと長い牙。毛の色は黒。
「いやぁ、お揃いですねぇ・・・」
黒づくめどうし見逃してくれたりはしないだろうか?
見つめあうオッサンと熊。
そういえば野生動物は目を逸らすと襲ってくると聞いた事がある。
ならば目を逸らさない限りは襲ってこないのだろうか?
「グルアァッ!!」
そんな事はなかった。
転げるように、いや文字通り岩から転がり落ちて熊の突進を躱す。口元からこぼれた煙草が地面に落ち、跳ねる。が、今はそれどころではない。
ゴッという音とともに座っていた岩が砕けた。
「岩をも砕く、っていうのは比喩じゃあなかったんですねぇ・・・」
冷や汗が頬を伝う。心臓はバクバクと音を鳴らす。
逃げなければと思うものの、身体は動かない。
熊はゆっくりとこちらを向いた。
前足で先程落ちた煙草を踏み潰し、少し頭を下げるようにして低い体勢をとる。
「これは・・・・・・死にますかねぇ・・・やっぱり・・・」
余裕があるわけではない。それでも出たのはそんな言葉だった。
「ガァアァァアァァ!!」
反動を利用するようにして熊が跳ぶ。
その動きのひとつひとつが、やけにハッキリと見える。
目を良くしてもらったおかげだ、と皮肉気に考え、ふと気づく。
「・・・?」
躱せる。これは躱せる。遅いわけではない。
だが見える。
なんならちょっとこの辺を押してやれば・・・
ドゴンッ
鈍い音をたて、熊が地面に刺さる。
いや、実際に刺さったわけではない。頭から地面に落ちただけだ。
とはいえ、地面にはクレ-ターのような跡が出来ているので、相当の勢いがついたようだが。
どさり、と逆さになったその巨体が倒れる。
首があらぬ方向に曲がっている。折れたらしい。
「・・・ほう? 眼が良くなるというのはとても便利ですねぇ・・・」
そう言った一郎の瞳は金色に輝いていた。