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千夜十夜物語

自殺者μの怪奇

作者: 穹向 水透

19作目です。ミステリーではないです。

       1


 朝、棘沼研瑚(とげぬま けんご)は自宅付近のコンビニにいた。珈琲のためである。彼の朝はそれがないと始まらない。しかし、自宅で淹れるのは面倒臭い。少々堕落した理由で利用しているのだが、彼は、金をなるべく使った方が社会には好影響だと解釈しているので、さほどは気にしていなかった。

 腕時計をちらりと見る。時間を確認して、すぐに雑誌に眼を戻す。昔から読んでいる漫画雑誌なのだが、どうにも下火になっているように思えた。それは単に、自分が現在のニーズとは別の道を欲しているだけなのかもしれないが、それでも、自分と同じ考えの人は少なくないと考えている。

 コンビニの袋を引っ提げて店の外へ。彼は職場まで徒歩で通っている。理由は特にない。初日に歩いて向かった、それだけのことだ。

 春は近いのだが、まだコートは脱げない。

 歩く度にビニール袋が騒がしい音を鳴らす。

 彼の職場は自宅から十五分程度のところにある。毎日、コンビニから職場までタイムアタックをしているのだが、最近、それが虚しく感じるようになった。急ごうとすると、力が抜けるように思える。もう、決して若くはないのだから、歳相応に行こう、と思った。

「おはようございます」

 職場に入るなり、小柄な男が声を掛けてきた。部下の冴島友春(さえじま ともはる)だ。

「おう、おはよう」と返す。

「何だか眠そうですね?」

「うーん、昨晩、ちょっと夜更かししちまったからな」

「ゲームですか?」と冴島はジェスチャーを交えて訊ねた。

「そうそう。銃撃戦さ」

 彼はデスクに着いた。そして、煙草を咥えた。壁には禁煙の文字があるが、誰も守りはしない。彼も火を点けた。

 ゆっくりと時間が流れる。

 煙の行方を眺めると心が和やかになるように思える。煙草のお陰か、身体も温まったようだ。

 息を吐いて、腕を伸ばす。椅子が軋む。

 ビニール袋からホットドッグを取り出す。朝食である。思えば、ここ一週間、毎朝、ホットドッグを食べているような気がする。そんな指摘を昨日、受けた気がする。

 ホットドッグを食べ終え、珈琲を飲みながら、面倒極まりない書類の処理を行っているうちに、時計の針は頂点を指した。冴島が素早く寄ってきて、「お昼に行きませんか?」と言う。断る理由もないので行くことにする。時々、自分はマリオネットが天職だったりするのでは、と思う。こんな風な考え方をするのは、大抵、煙草を吸っている時である。

 昼食の店は、いつも冴島が探してくる。今日は、人気のない路地にある定食屋だった。表の静けさに反して、中は盛況であり、自分と同じようなステレオタイプの人間で溢れ返っていた。

 店員が注文を訊きに来る。

「日替わり定食」と棘沼。

「サバの味噌煮定食で」と冴島。

 煙草を吸いたかったが、飲食店で吸うのは流石に悪い気がして、箱をポケットの奥へ押し込んだ。

 注文の品は十分もしないでやって来た。日替わり定食の内容は、エビフライだった。彼は内心、子供のように嬉しく思った。

 料理は十五分ほどでなくなった。冴島が途切れることなく、取り留めもない話をしている。棘沼は爪楊枝を弄くりながら、話を聞いている振りをしていた。

「それでですね……」

「うん、はいはい」

「えっとぉ」

「うん」

「あ、はい、ちょっと……」

「そうだね」

「棘沼さん、呼び出しです」

「ふぅん」

「棘沼さん?」

「それで、どうした?」

「棘沼さん!」

「……ん?」

 このぼやけた男は、爪楊枝を煙草のように咥えてしまっていた。


       2


「あ、棘沼さん、冴島さん、お疲れ様です」

 新人の我妻響汰(あがつま きょうた)が頭を下げる。

「お疲れさん。えっと、何だっけ、死体か」

「はい」

「死因は?」

「首を絞められたことによる窒息死の可能性があります」

「身元は?」

「この部屋に住む大学生の蔦深遊意(つたみ ゆうい)、二十一歳、男性です」

「まだあるのか?」

「あります。こちらへ……」

 我妻の先導で、このアパート、「ホットハイツ」の二階、二○三号室に入った。

 玄関を見る限り、なかなかに綺麗好きであったようで、靴はスニーカーのみが外に出ていたが、どうやら、ここの住人は一足しか持っていなかったようだ。しかし、棚の上を見ると埃などはなく、定期的に掃除をしていたことがわかる。

 部屋は1LDK。

 リビングの散らかりは見られない。カーペットも綺麗だ。

「遺体は?」

「こっちの部屋です」

 我妻はリビング横の部屋を示した。扉には流行りの女優のポスターが貼ってあった。

 蔦深遊意はベッドの上に横たわっていた。

 きちんとした姿勢で、布団が掛かっている。顔も穏やかで、口元には笑みさえ浮かんでいる。唯一、穏やかならないのは、首にくっきりと残った惨たらしい線である。

「絞殺か……」

 棘沼はそう呟いた。

 遺体を確認し、今度は部屋のあちこちを観察する。この様子が、一番、それらしいように思える。時々、自分はコスプレでもしてるのではないのだろうか、という疑念に襲われることがある。それは大抵、煙草を吸うことで、煙と一緒に消えてしまうのだが、やはり、時にはこういった臨場感を摂取しないといけないのだ。

 リビングには薄型テレビ、ベージュのソファ、薄いカーペット、本棚、ガラスのテーブルがある。どれもこれも、綺麗に整えられていて、生活感が感じられなかった。蔦深はどんな人間だったのだろうか。少なくとも、この部屋において、それを知る手掛かりは本棚にあると思った。本棚は、漫画や小説、様々なジャンルの本が並んでおり、綺麗に整頓されていた。本は作者別、順番に並び、色彩も意識されているように思えた。

 本棚を眺めていると、空きがあることに気付いた。漫画数刊分のスペースだ。現場にいた紺色の服の職員に訊ねると、その空きにあったと思われる数冊は、ソファの上に散らばっていたと言う。

 読んでいるところを襲われたのだろうか。しかし、玄関はソファから見える位置にある。だとしたら、犯人は家に上がり込んでいた、つまり、親しい人物である可能性が高い。

 キッチンも綺麗に片付けられていた。冷蔵庫には多少の食材が残っていたが、それらも整頓されていた。ゴミ箱を覗くと、卵の殻と数枚のキッチンペーパーが捨ててあるだけだった。

 次は風呂場。ユニットバス形式だ。既に職員が探し終えた後だろうが、それにしても、綺麗である。浴槽に水垢などはなく、洗面台のガラスも透き通っている。トイレットペーパーが、きちんと三角に折り畳まれている辺りが、蔦深という人間を表しているように思えた。

 リビングに戻ると、遺体の搬出の準備がされていた。

「あ、棘沼さん、遺体、出しちゃいますよ」

「おーけー」

 冴島が合図し、我妻たちが担架を運んでいく。

「棘沼さん、何かわかりました?」

「おいおい。おれを名探偵と勘違いでもしてるのか? ただ、綺麗な部屋だなって思っただけだよ」

「そうですね。偏見かもしれませんが、ひとり暮らしの男子大学生の部屋だとは思えませんよね。特にキッチンの様子とか……」

「そういえば、第一発見者は?」

「ええ、通報を受けた我妻たちだそうです」

「誰からの通報だ?」

「何でも、友人だとか」

「そいつはいないのか?」

「今は海外にいるらしいんですよ」

「海外……か」

「明日には帰国するそうですよ」

「そうか……」

 彼は煙草を吸おうと胸ポケットを漁った。


       3


 翌日、棘沼は司法解剖の結果を訊くために、形原湧慈(かたはら わくじ)のもとを訪れた。形原は有名大学で教鞭も振るう、解剖学の権威である。歳を取る毎に若くなるという噂があるほど、活動的な人物である。

 薄暗い廊下を進み、冷たいドアを叩く。中から「はいよ」と聞こえたら、入っていい合図だ。

 静かにドアを開け、常識的な挨拶を述べる。

「おう、久し振りだね、棘沼くん」

 形原はメロンソーダを片手に棘沼を迎えた。このような様子が噂の源なのだろうと思った。

「先生、結果は……」

「うんうん、わかってるけど、まぁ、待ちな。どうせ、内容はシンプルなんだ。そんなに急ぐことじゃない」

「いや、こちらとしては忙しいんですよ」

「煙草だろう?」

 形原は鷹のような鋭い眼光で棘沼を睨む。

「図星だな。君は煙草を吸っていないと、人間が荒む傾向にあるようだぞ。心配するな、ここなら吸っても構わないさ」

 形原は笑ってそう言ったが、棘沼の視線は奥の壁の「禁煙」の二文字に向かっていた。

「お、棘沼くん、そんなの気にしなくていいんだよ。禁煙って言葉は、吸うのを助長するためにあるんだよ。私も吸うしね」

 形原が煙草を取り出したので、棘沼も取り出した。棘沼が火を点けた後、形原が煙草を突き出した。

「一応、禁煙しようって意識はあるんだよ。ルールではなく、健康的な面でね。それで、火は持たないことにしてるんだ。すまないが、ひとつ貸してくれやしないか」

「ええ、もちろん」

 お互い、煙草の味を確かめ、勢いよく息を吐く。途端に部屋の中を煙が充満する。スプリンクラーらしきものが天井にあるが、起動はしなかった。「あれなら封印してあるのさ」と形原はにこやかに答えた。

「そろそろ、お話を」

「ああ、そうだね。えぇと、まず、蔦深遊意の死因だが、見ての通り窒息死だ。まぁ、これはいいよな。で、こっちなんだが、変な話なんだが、遺体は自殺であることを示してるんだ」

「自殺?」

「ああ。私も報告書は読んだからね、奇妙な話だよ。だが、自殺だ。殺されたんじゃない。首の痕や、その他諸々の証拠が物語っている」

「では、誰かが首を吊っていた蔦深を降ろして、それをベッドに寝かせた、と?」

「まぁ、そうなるだろうな。そんで、その誰かが部屋を丁寧に片付けたってわけだ」

「あぁ、しかし、そこはまだわかりません。物凄い綺麗好きだったのかもしれませんし」

「そうかそうか、そうだな。偏見かもしれんが、男のひとり暮らしってのは汚くなるもんだと思っていてね」

「部下と同じ事を言いますね」

「ははは、君の部屋も充分、汚いと思うぞ?」

「ええ、そうです。だから、何も言えません」

 形原はメロンソーダを飲み干して、部屋にあるミニ冷蔵庫からペットボトル入りのメロンソーダを取り出して、グラスに注いだ。

「通報してきた友人には会ったのかね?」

「いえ、まだですね。今晩、会う予定になっています」

「また、話は聞かせてくれよ」

「ええ」

「あ、次、来るときは、何でもいいから炭酸飲料を頼むよ」

「わかりました」

 棘沼は部屋を静かに出た。

 廊下は無臭に近かったが、却って居心地が悪かった。禁煙しないと、と思った矢先に胸ポケットに手が伸びていた。


       4


 棘沼は寂れた喫茶店で珈琲を味わっていた。ここは相手、蔦深の友人の指定した場所である。時刻は午後六時を回ったところである。

「美味しいですねぇ」と呑気にカフェオレを楽しんでいるのは冴島である。昼行灯のような雰囲気を持ち、見た目通り、沸点は異常に高い。ただ、頭の回転はそれなりに速いように思う。

 約束の時間から四分後、「すいません、遅れてしまって」と言いながら、茶髪の青年が席に着いた。彼はマスターに向かって手を挙げ、指先を数回動かした。

紙雁真人(しがん まひと)さんですか?」

「はい」

 マスターが珈琲を運んでくる。先程の指先の動作が合図だったのだろう。彼は美味しそうに珈琲を啜った。

「亡くなった蔦深さんとはどのような関係ですか?」

「大学からの友人で、ゲーム仲間です。まぁ、友人の中だとよく会ってた方だと思いますね」

「ゲーム仲間?」

「はい。パソコンでの銃撃戦のゲームです。最近、流行りの」

「ああ、わかりました。私もやっているんですよ、それ」

「そうなんですね、何だか親近感が湧きます」

 彼は表情を少し崩した。しかし、元からコンクリートのように固かったわけではない。

「パソコン、中身を見ましたか?」

「現在、解析中のようです。何か、中身に特筆すべきものが?」

「まぁ、特筆すべき、うん、そうですね」

「教えて頂けますか?」

「ええ、取り敢えずは順序を追って説明します」

 紙雁は珈琲を啜る。見たところ、猫舌のようだ。

「まず、一週間ほど前、僕と友人の柿田(かきた)ってやつと、(いおり)ってやつで、ドイツのミュンヘンに行ってました」

「ミュンヘンですか、何をしに?」

「共通の友人に会いに行きました」

「蔦深さんは?」

「誘ったんですけど、数日前から熱っぽいって行って来なかったんですよね。よく体調を崩すやつだったので、不思議には思いませんでしたが」

「通報した経緯を説明して頂きたいのですが」

「あぁ、凄くシンプルなんですけど、あっちにいる時に携帯にメールが届いたんです。送り主は蔦深のやつで、パソコンからでした」

「内容は?」

「えっと、待って下さい」

 紙雁はポケットを漁り、携帯を取り出した。そして、「えっと、これです」と言って、画面を見せてきた。送り主の名はμ(ミュー)とある。

「『死にます、グッバイ、アディオス』……?」

「えーっと、これをどう受け取ったんです?」

「まぁ、いつもの冗談だろうと、流してたんですけど、こちらからの返信に一切反応がないんで、不安になって通報しました」

「救急車ではなく、我々に?」

「ええ。文面に『死にます』ってあったんで」

 もう一度、画面を見る。送られたのは四日前である。

「あのぉ」と冴島。

「このμとは?」

「ギリシャ文字ですが」と紙雁。どうしてそんなことを訊くのか、という顔をしている。

「ええと、どういう意味でしょう?」

「あぁ、そういうことですか。それ、ゲーム内で名乗る名前ですよ。僕はγ(ガンマ)を、柿田はτ(タウ)を、庵はι(イオタ)を名乗っています」

「由来は?」

「各々の名前ですよ。シガン・マヒトの間には、ガンマの単語が見つかるでしょう?」

「そうですね、では、蔦深さんは?」

「彼は、ツタミ・ユウイですので、名前の中にミューがありますよね」

 彼は珈琲に口を付ける。やっと飲める温度になったようだ。

「蔦深さんの部屋に行ったことは?」

「えっと、『ホットハイツ』でしたっけ? それなら、五回程度は行きましたね。柿田と庵は行ったことがない筈です」

「彼は整頓好きだったんですか?」

「え?」

 紙雁はわかりやすく驚いた顔をする。

「そんなわけ。散らかっていても場所がわかれば問題ないって主義ですし、それに、九日前、ミュンヘンへ行くか誘いに行った時、部屋はゴミ溜めのようでしたよ」

「そうなんですか……」

「片付けられていたってことですか?」

「ええ」

 棘沼は部屋の様子を細かに説明した。紙雁が疑うような眼をする。蔦深という人間が窺えるようだ。

「俄には信じ難いですね。死ぬ前に片付けたんですかね? いや、信じ難いと言うなら、蔦深が自殺したこと自体か。死ぬようなやつには見えませんでしたからね。良くも悪くも、裏表がないやつでしたし」

「でも、そういう人に限って、ってこともありますよね」

「まぁ、そうなんですけど、それでも、信じられないなぁ。それに、死ぬ前の人間がカーペットを変える必要なんてあるんですかね?」

「カーペット?」

「少なくとも、九日前には冬用の厚いふわふわのカーペットでしたよ」

 紙雁は珈琲を一気に喉へ流し込んで、呆れたように笑った。


       5


 煙が天井に消えていく。ここ数日の働きも同じように思える。柿田初悟(ういご)も庵巧実(たくみ)も、状況に変化を齎す情報は持ち合わせていなかった。「ホットハイツ」の大家の阿宜野(あぎの)も蔦深との関わりは全くなかった。知ることが出来たのは「ハイツ」と「ハイム」の違いだけである。

 解剖学的、科学的な面から見ても、目新しいものはない。

 紙雁の言うカーペットの所在もわからないままだ。部屋を片付けた人物が捨ててしまったに違いない。何か不都合なことがあったから、犯人に繋がり得る何かがあったから、そんなことを考える。

「……うーん」

 いつの間にか唸っている。いつもなら誰かどうかが窘めるのだが、冴島も我妻も不在である。

 蔦深遊意の自殺は、ただの自殺として処理されそうになっている。現場を荒らした人物の特定は、優先事項ではない。実際のところ、片付けただけであって、それにより迷惑を被るのは調べる側だけなのだ。蔦深本人が頼んだのかもしれないし、それも今となっては何もわからない。遺書と呼べるものもなく、ダイイングメッセージ擬きのメールが残されているのみだ。そこからわかるのは、蔦深が死のうとしていたこと、しかし、確定ではない。証明など出来ない。

 蔦深遊意という人物について調べたが、それも意味はないように思えた。母子家庭で育ち、その母親も高校三年の秋に亡くしている。親戚などもいない。大学は近場のC大の経済学部に所属していたが、学費滞納で、二年からは通っていなかった。高校の頃の担任にも話を聞いたが、別段、特徴のある生徒ではなかったと述べていた。

 高校時代の友人、府西(ふさい)にも話を聞いた。彼が言うには、蔦深は生きることに無頓着な人間だったそうだ。帰宅時に、三階にある教室から昇降口までの道のりをショートカットするために、教室の窓から飛び降りた、という話からもわかることだ。母親の死後に、その傾向は強まったと言うが、あまり関連はないだろうと思った。

 表裏一体の人格だと紙雁は言ったが、府西の言う内容は真逆だ。常に生と死の意義の間でメトロノームのように揺れていて、本当の自分は誰にも曝け出せない、そんな人格だそうだ。

 恐らく、関係のないことだが、蔦深と府西は高校時代、「精神研究部」なる怪しい部活に属していたらしい。

 視界が点滅する。疲れているのだ。

 ここ数日、健康でも文化的でもなく、最低限度すら達していない生活を送っているように思える。昔、まだ、さらさらとした血液が身体を巡っていたころは、そんなハードな人生に憧れていたが、実際になるものじゃない。理想を無理に現実にするべきではないのだ。

「あ、棘沼さん」

 ドアが開き、冴島と我妻が現れる。ふたりはまだ若く、青々としている。今はブロードピークの如く広い山頂に立っているのだろう。そこを過ぎれば、人間は下るだけで、多少の隆起はあるが、再び上がることはない。

「棘沼さん、ちょっと、変な話を聞いたんですよ」

「変な話?」

「ええ。蔦深のキッチンのゴミ箱に卵の殻とキッチンペーパーが入っていたじゃないですか?」

「ああ」

「そのどちらからも指紋が検出されていないんですよ」

「はぁ? 蔦深のやつもか?」

「はい。誰の指紋も」

「……」

 棘沼は携帯を取り出し、電話を掛けた。

「はい?」と返事が聞こえた。

「棘沼です。ひとつ訊きたいことがありまして」

「何かね」

「えっと、蔦深遊意の胃の中身はわかりますか?」

「あぁ、えっとね、確か、えっと……」

「卵はありましたか?」

「……卵? 多分、なかったと思うけれど」

「わかりました。ありがとうございます」

 携帯をポケットにしまった。

「どうしたんですか?」

「蔦深は卵を消費してはいない。……だが、これだけことだ。何も進展はない」

「何だか、変ですよね。人がやったんじゃないみたいだ」

「幽霊が、って?」

「まぁ、ええ」

「そんなわけないだろう」

 棘沼は微笑んだ。

 時には冗談も必要なのだ。それは人間にのみ存在する高等テクニック。人間の中でも、出来ないやつは存在する。

「なぁ、ハイツとハイムの違いって知ってるか?」


       6


 蔦深遊意の葬儀はひっそりと行われた。近親者のいない蔦深の喪主は、紙雁が代理で行った。

 参列者は棘沼たち三人、柿田、庵、府西など、十人程度だった。大家や大学関係者は顔を見せていない。

 蔦深は荼毘に付され、その身体は灰となった。

 葬儀後、紙雁から声を掛けられ、ファミレスで昼食をともにした。

「喪主、お疲れ様です」

「ありがとうございます」

「お墓はどうするつもりですか?」

「まだ決めていないけど、多分、作りません」

「そうなんですか?」

「柿田や庵と考えているのは、ゲーム仲間からカンパして、海に散骨する形式でも選ぼうかなって」

「ああ、それはいいですね。無縁墓よりも私はいいと思います」

「その後はどうですか、進展などは?」

「ないですね。ゴミ箱の卵殻は指紋が検出されなかった、ってことぐらいですかね」

「卵? あぁ、あれか」

「どうしました?」

「冷蔵庫の卵、何か近所の人から貰ったそうなんですけど、あいつ、卵は嫌いだから嬉しくないって愚痴ってたんですよね」

「卵、食べないんですか?」

「ええ。少なくとも、一度も見たことがない」

「そうなんですね……。アレルギー的な話ではなく?」

「本人はアレルギーだからみたいなことを言ってましたけど、実際は知りません。食べると頭痛と吐き気がするとは言ってましたね」

「なるほどなぁ」

 料理が運ばれてきた。

 棘沼はペペロンチーノ。紙雁は目玉焼き乗せハンバーグだった。

 紙雁はフォークで目玉焼きを突き刺して、口に運んだ。

「僕は好きですけどね」

「ええ。私も卵は好物です」

 葬儀というイベントを経て、落ち着いたのだろう。どうでもいい話をしたくなってきた棘沼であった。


       7


 蔦深の遺品の整理は葬儀から二日後に行われた。紙雁、柿田、庵、それに加えて、ゲーム仲間だと言う、ξ(クシー)こと櫛森唯人(くしもり いひと)も一緒だった。

「そういえば、ゲームのチャットで、死ぬ時は樹海でひっそり死ぬ、とか言ってたなぁ」

 櫛森が棘沼に言う。

「あいつ、ξに色々、相談してたよね」

「おれが自殺を試みたことがあるからじゃない? でも、あいつの訊く内容は、死にたい、とかじゃなくて、単純にオカルト方面の興味からだったような気がする。幽体離脱したことあるの、みたいなさ」

「へぇ」

「あ、何か、一回だけ真面目っぽい質問があったんだよな、何だったっけなぁ……」

「おい、ξ、本はどうする?」

 紙雁が言う。

「ノンフィクションは欲しい。漫画は庵が欲しがるだろ」

 櫛森が答える。

 蔦深の所有する衣服は極端に少なく、上着が三着、ズボンは二本のみであった。装飾具はチョーカーというタイプのネックレスひとつのみがあり、それは櫛森が貰っていった。

「あいつ、こういうの持ってたんだ。意外」

「いつも、だらしない皺々のTシャツだったもんな」

「そうは言っても、みんな同じだろ」

 柿田が言う。柿田は襟足の長い小太りの青年だ。ちなみに、庵は短髪で痩せ型である。

「『死にます、グッバイ、アディオス』ねぇ」と紙雁が呟く。「アディオスっている?」

「物足りなかったんだろうな」と柿田が苦笑する。

 遺品整理は半日で終わり、部屋は綺麗に片付いた。

 紙雁によると、散骨の資金の大体は集まったらしくで、全員の都合がいい日に行うそうだ。

 棘沼は感心した。散骨にではなく、それを行う気力にである。みんな、まだ、若く、バイタイリティも自分とは比べ物にならない。自分は閉塞感のある部屋で、禁煙の文字に抗って煙草を吸うくらいの気力しか持ち合わせていない。

「お昼に行きませんか?」

 冴島が言う。

「ああ」とやる気なく答える。これがデフォルトになってしまっている。これでは、バイタイリティが上昇することはない。

 冴島が案内したのは見知らぬラーメン屋で、棘沼は塩ラーメンを頼んだ。可もなく不可もなく、といったところで、店内喫煙オーケーなのが評価ポイントだった。

 しかし、喫煙オーケーの場所で煙草を吸うことは指示に流されているのと同じなのでは、と思い、吸わなかった。こうした小さな反抗心が自我を安定させる、と思わないといけない。



 棘沼はゲームをしている。

 いつもはソロプレイで、一匹狼を気取っているが、今日は違う。

 紙雁たち四人との共同戦線である。ひとりでやるよりも生存率が高く、従って勝率も高い。ゲームの技術も、棘沼より遥かに高い。ゲーム内で棘沼は「ニコチンさん」と呼ばれている。自身のプレイヤー名が「中年ニコチン」だからである。不思議なことに、こちらの方が生き生きとする。棘沼と呼ばれるよりも刺激がある。今の仕事を辞めて、ゲーマーになろうと思った瞬間もある。

「棘沼さん」

 ξこと櫛森。「棘沼さん」と呼ぶのは、ゲーム終了後のチャットなどでの場合である。

「何だい?」

「蔦深の真面目っぽい相談のスクショ画像を送りますね」

「ああ、はいよ」

 すぐにメール欄に通知があり、棘沼はそこを開く。雑多なメールたちの中に、from:ksmrというものを見つける。そして、それを開いた。

 文面はなく、画像がひとつのみ。

「死んだ後って迷惑掛けるんかな?」

「そうだと思うけど、何で?」

「いや、何でもない」

 それだけが表示されていた。

蔦深青年目線は後日投稿される「自殺者μの喜劇」にて綴られます。

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