第十三話(二)「心がくしゃくしゃになりそうだ」
郊外に向かって、のんびりと歩くこと小一時間。
「ついた──!」
両手を挙げ、ハム子が嬉々として叫んだ。ちなみに、彼女のご機嫌は途中のコンビニでアメリカンドッグをおごったらあっさり直ったことを申し上げておく。
ここ「ドッグラン呉武」は、県下最大級の五千平方メートルの広さを持つ施設だ。
広いだけでなく、ワンちゃんサイズのアスレチックなど遊具も充実。しかも再入場可で、一日中遊んでも税込六百円という良心価格。休日には多くの愛犬家が訪れる名スポットである。
特に今日は快晴、暑さのゆるんだ秋の心地よい風もそよぎ、ワンコと戯れるには絶好の日だった。それ故、入場チケット売場にも長蛇の列ができている。
「ハム子とマルはそこでモグタンを見ててくれ。ぼくが買ってくる」
「ありがとね、ハヤ君」
二人と一匹を入場門の脇に待たせて、ぼくはチケットを求める列の最後尾に並ぶ。
「……あれ? 白河か?」
不意に後ろから声をかけられて振り返ると、Vネックセーターにチノパン、NとYの文字を重ねたロゴマークの野球帽をかぶった下関がいた。
恰幅のよい身体に妙に似合っている私服だ──奴が高校生ではなく、「休日のお父さん」だったら、の話だが。
左手にリードを持ち、その先には実に賢そうな顔つきのゴールデン・レトリーバーがきちんとお座りをしている。下関ごときにはもったいない、器量のよいワンちゃんだ。
「下関。こんな所で会うなんて、奇遇だな……この子が君の手を噛んだのか? 大人しそうな子じゃないか」
「うん。いつもはいい子なんだよ。でも最近、時々機嫌の悪い時があってね……」
下関は愛犬のうなじをなでながら、悲しそうに言った。
「ストレスがたまってるのかもと思って、久しぶりにここに来てみたんだ。思い切り走らせたら機嫌もよくなるかなって。白河は何でここに? 犬飼ってたっけ?」
「いや、ハム子の飼ってる犬を遊ばせに来た。ぼくはただのつき添いだ」
「えっ。小牧さんが来てるの?」
急に下関が目を輝かせた。なんて分かりやすい反応だ……まぁ、大変素直でよろしい。
それから程なくしてぼくと下関は無事に入場券を買い、門の前の小牧姉弟と合流した。
「おー、可愛いワンコなのだ! 君、お名前は?」
ハム子はしゃがみ込んで、下関の犬と目線を合わせながら訊いた。
本人、いや本犬? に訊いたところで自分で答えないのは分かっているけど、普通にやっちゃうよねアレ。
「ジュリエットです。ほらジュリ、ごあいさつして」
下関がジュリエットの頭にポンと手を置くと、彼女はかくかくと首を上下させた。
「にゃ──っ! ジュリちゃん、超カワイイ~~っ☆」
ハム子が、摩擦で火がつかないかと心配なほどの勢いでジュリエットの首元をかきなでると、彼女は心地よさそうに目を細める。
いつも水精霊に愛されている下関の顔の周りで、珍しく風精霊が舞っていた。
「こ、ここ、小牧さんの方が、可愛いです……よ?」
「ん?」
「い、いえ! 小牧さんの犬の方が、ね?」
肝心なところでヘタレましたよ、この野郎。
まぁ、下関の緊張も分からんことはない。ぼくも中身が四十路のオッサンじゃなくて、彼女が幼なじみでなかったなら、話そうとするだけでドキマギしてしまっただろう。
大抵の少年少女が一度は通る道だ。生温かく見守ってあげよう。
「姉ちゃん、とりあえず中に入ろうよ」
まだその道を通るには早いマルが、じれた風に言った。いいところで邪魔が入るのも、また青春か。
先にモグタンとジュリエットを連れたマルと下関が門をくぐり、そのあとをぼくとハム子がついて行く。
「ジュリちゃんって、きれいな子だね。ゴールデン・レトリーバーっていえばさ、ハヤ君憶えてるかな?」
「何を?」
「昔、よく一緒にここに来てた時に、ゴールデン・レトリーバーを飼ってた、私と同じ歳ぐらいの髪の長い子と時々ここで会って遊んだよね」
「……あー、いたなぁ。いつもオーバーオールを着てたあの子だよな」
「そうそう、その子。結局名前も分からないままだったけど、あの頃は誰とでもすぐに仲良くなれて、楽しかったのだ」
「小学生の頃は空気を読むとか、そういうこと考えなくてもよかったからな……というか、ハム子の場合は今でも、すぐ仲良くなれてるだろ」
逆にぼくは、ハム子を通さないと友だちもろくに作れないことに、四年生でハム子とクラスが離れてから気づいたのだが、それは黙っておこう。
「うー。女子の場合は割とそうなんだけど。男子とは……」
ハム子は後半で言い澱んだ。彼女はいつも人との距離感が近いから、男子にはいろいろ勘違いをさせてしまうんだろう……天然故の、罪深さか。
だだっ広い芝生のフィールドに入り、モグタンとジュリエットはリードを外された。
モグタンは自由になった途端に走り出して、その後をハム子とマルが追いかけていったが、ジュリエットは座ったまま、じっと下関を見つめていた。
「おいジュリ、おまえは行かないのか?」
「下関に従うようにしつけたんなら、君が走らなきゃどこにも行かないんじゃないかな」
「いやー、昔はともかく、今は走るのはちょっと苦手で……」
まぁ、そうだろうな。
ぼくは下関の丸いお腹を見て十二分に納得した。
「しかし、ジュリはわき目もふらず、ずっと君を見ているな。愛されてるね」
「それは嬉しいけど、同じくらい小牧さんに見つめてもらえたらもっと嬉しいなぁ」
下関はそう言って、あっという間に遠くへ走り去ってしまった白い犬と、必死に追う姉弟を、デレっとした表情で眺めている。
「ふーん。さっきは見事にヘタレたくせにな」
あ。さっき生温かく見守ると言ったのに、つい口を出してしまった。まぁいいか。
「う、うるさいなぁ。俺だって、君のカノジョに本気でちょっかいをかけようとか思ってないさ」
「カノジョじゃないよ。君まで朝倉先輩みたいなことを──」
言いかけて、胸がズキっと痛んだ。
確か今日は、公園の清掃ボランティアをしているんだっけ。
公園に行ってみたら、会えるのかな。
……いや、会ったところで、彼女に何を言えばいいのだろう。むしろ、ぼくが何か言える立場ではないように思う。
彼女と同様、ぼくにも、ぼく自身にさえ分からない彼女への、何かが相反する二つの気持ちがある──
何となしに、ぼくは下関のように、遠くで綿帽子のような犬を追いかけるジャージ姿の女をぼうっと眺めた。
ぼくは、彼女と約束した責任を果たしにここにいる。
それが一番大事なのは間違いないはずだ……が、ぼく自身にとっての優先順位を、ぼくは間違えているように思えてならず、心がくしゃくしゃになりそうだ。
「……白河? どうした、ボーッとして」
「あ。いや、何でもない。じゃあジュリ、ぼくと遊ばないか」
ぼくがジュリエットの正面に回って声をかけると、彼女は、ぷいとぼくから目線を逸らした。
「ハハハ。ふられたな」
「しょうがないよ。もともと犬にも人にも好かれないタチなんだ」
ぼくが肩をすくめると、下関は、ジュリエットの顔をこちらに向き直させた。
「ジュリ~、そんな態度じゃもったいないぞ。この男は何かにつけこうやって予防線を張るけどさ、一旦距離を詰めれば仲良くなりたいと思える、いい奴なんだぜ」
「バカ、よせよ。持ち上げたってアメ玉ひとつ出てこないぞ」
「お世辞を言ったつもりはないぜ。これでも人を見る眼はあると自負してるんだ……何だ白河、耳が赤くなってるじゃないか」
「やっ、やめろ下関。さっきの意趣返しにしちゃタチが悪いぞ」
ぼくがあわてて耳を両手で隠すと、下関はカラカラと快活に笑った。
「はー、やっとつかまえたのだ。下関君、置いてっちゃってゴメンねー」
ちょうどその時、モグタンを抱えたハム子とマルが戻ってきた。下関は全力で首を横に振った。
「いっいえ、全然! ジュリの奴が遊びたがらないせいで、小牧さんにお気を遣わせたら申し訳ないです」
「あっ、そうだ。これなら遊ぶかも」
マルは背負ったザックを開くと、中から白いプラスチックの円盤を取り出した。
「お、フリスビーか」
日本では広く普通名称化しているものの、フリスビーは本来商標であり、正しくはフライングディスクと呼ぶべきだが、マルが持っているのは正真正銘、ワムオー社の本物のフリスビーだ。
しかも競技用のガチな奴で、以前に大会にでも出るのかと訊いたら、単にペットショップで「フリスビーください」と言ったら出てきたものをそのまま買っただけだとハム子が言っていたのを、ふと思い出す。
「フリスビーで遊んだことはないけど、どうかな。やってみようか」
「うん。ジュリ~、これを取ってくるんだよ」
マルがジュリエットの前でそれをゆらゆらと振ってみせる。と、ジュリエットはバウとひと声吠えて、フリスビーに噛みついた。
「わっ……ジュリ、投げてからだよ。一旦放して」
マルはフリスビーを軽く揺するが、ジュリエットは何か癪に触ったのか、低くうなって歯を離そうとしない。
後ろから下関がジュリエットを抱え、綱引きをするように両側から引っ張ると、ようやく両者が離れ、マルと下関とジュリエットが芝生の上にごろんと転がった。
ぼくは苦笑いを浮かべたが、ジュリエットが低く構え、うなり声を上げ続けていることに異様な気配を感じた。
その目に、殺気めいたものを漂わせている。
何かおかしい。ぼくは目を細めて、視ることに集中した。
ジュリエットの垂れた耳の隙間から、黒くもやもやしたそれがゆっくりと溢れ出すのが視え──
「マル、危ない!」




