一歩踏み出すためには
ほんとは望の言っていたことにとっくに気づいていた
私は会っているときはたいして気に留めていなかった布津さんのいろいろな面が断られてからはっきり見えるようになった
あの人、初めて私と会うときにスーツを着てきてくれた
ちゃんと敬語が使えた
資格持ってた
測量士の
白いシャツにベージュの綿パンって普通の格好だったけど、きちんとアイロンがかけられていた
襟の先までパリッと
いいですね、心配してくれる親がいてと素直に自分の気持ちを口にするとができた
人の気持ちを察し、さり気なく対応してた
それに汎用範囲を広く取れば、充分イケメンだった
何よりちゃんと自分の稼いだお金で少年ジャ○プを買って、亀を養っていた
布津さんは、普通に素敵な人だった
私はただあの人が結婚相談所でお金を払って紹介された人だということが嫌だった
啓司のときみたいに自然な出会いじゃないことが嫌だった
ひと目あの人を見たとき、この人と結婚すると直感した後にイヤだなと思ったのはあの人が嫌だったわけじゃなく、結婚相談所で紹介された人と結婚することになるのがイヤだって思ったんだ…
一体何に対してかわからない後悔に襲われ、その夜私は眠れず苦しんだ
お盆明け、会社に向う朝、私は自転車に乗りながらほんの少し季節が進んだのを感じた
お盆前とは風が違う
ほんのちょっびりだけど、秋の気配がする
その風の中で思った
私、これからは恋愛や結婚に幸せを求めずに生きていこう
多分私は恋愛にも結婚にも向いていない人間だ
男の人に好かれる可愛げと言うものがない気がする
その代わり、社会の中で一人で生きていく能力は与えられていると思う
カルチャースクールで色彩心理学を学んでいる望が言っていた
自分を色に例えたとき、自分が思う色と他人が自分を見て感じる色とが一致する人が生きやすいらしい
私は自分のイメージは茶色やベージュのような気がする
でも友達は外見からはラベンダーや紫のように感じると言われる
きっと中身と外見が違うから、今まで男の人に言い寄られては振られてきたんだ
あれ、なんか違うと思われて
…いい、去るものは去れ
無理して男と縁をつなぐ必要はない
もう男には何も求めない
そう決めたら逆に躊躇なく自分を磨ける
新しい服も買う
コラーゲンも飲む
自分自身のために明日から
マリッジゲートで紹介される人にももちろん会わない、もう二度と
24万はスッパリ捨てる
その年の冬のボーナスでお母さんに出してもらった残りの25万を返した
これでお母さんからの借りはなくなった
なにかひと区切りがついたような気がする
それからはもう、啓司のことも布津さんのことも思い出すことはない
…と言いたいところだけど、二人ともちょいちょい私の夢に登場した
今も目覚めて私は布団の中に蹴り出したはずの啓司を探したりして
ハハハ
なんだかな…
カッコ悪いな、私
あんなに啖呵を切ったのに
なんでこんなに執着しているんだろう?
啓司のことを忘れていられたのは、布津さんからの連絡を待っている間だけだったな…
休日の朝5時
真っ暗な部屋の中で少し考え込む
んー、寒いけど、起きちゃおう
布団の中でうだうだ考え事をするのは不健全だ
部屋の電気をつけ、エアコンを入れる
台所に行きお湯を沸かす
廊下の台所はまた一段と寒い
面倒くさいからコーヒーカップに水を入れてレンジでチン
電子レンジが回っている間に部屋に戻って布団をたたみ台所に戻って、沸いたお湯の中にインスタントコーヒーの粉を入れる
その途端お湯がぐつぐつっと踊り勢い良く湯気が上がる
いつも思うんだけど湯気ってちょっと悩んでる感じがするよね
上に行こうか、横に行こうか迷ってグルグルと
悩む湯気を見ていてふと思いついたことがある
私ってまだ啓司と別れていない
どんなに物理的に距離をとっても、岩ほどの決意をしても、時間が粛々と過ぎ去って行っても、心の一部がまだ啓司に張り付いているのを感じる
それは恋しい気持だけじゃなく、恨みと混ざってるからじゃないだろうか?
裏切られて傷ついた私の心が啓司を許そうとしない
許さないということは、裏を返せばずっと憶えているということだ
布津さんのことはなんとなくモヤモヤするものがあるけど、どうにもならない
けど啓司のことは…
啓司には心を返してもらいたい
一歩前に進んでは振り返り一歩進んでは振り返る
こんなことをしていては私はこの先も、前にある大切なものを見逃し続ける
啓司と本当の意味で決別して前進するためには、冷静に本当の別れ話をしなければならない気がする
連絡…してみようか?
啓司に