春の夜
「さあっ、別れ話を始めましょうかっ」と切り出した私に「…美希さん、なんでそんなに楽しそうなの…?」と啓司〈けいし〉は言った
「それはねっ、しんみり話すと自分が惨めになるからっ」
「下積み時代を支えてきた男が、なんとか収入を得られるようになった矢先に浮気が発覚して、しかも相手は妊娠してるってっ」
「私はあなたがオートロックじゃなきゃ嫌だとか駅近じゃなきゃ嫌だって言うから無理してここの家賃9万8千円を払い続けて来たわけ」
「手取り二十万程度の給料でここの家賃とあなたの食費まで賄ってきたから貯金もないのっ」
「そして三十女がそこそこ持っているであろうブランド品も皆無」
「そもそもどれだけの期間自分の物買ってないんだ?って感じ」
「この長い髪もオシャレじゃなくて美容院に行けないから伸ばしてるだけ」
「会社の飲み会も会費惜しくて補助の出る新入社員の歓迎会と忘年会しか出てこなかった」
「だから女子会あったとしても誘われなくなった」
「社内ではすごくケチな女に見られている」
「親にはあんな男とは別れろって言われ続けて来たのに言うこと聞かないから最近では実家からの仕送りも連絡もない」
「そんな思いまでしてて面倒見てきた男にこんな煮え湯を飲まされるとは」
「昭和の演歌かっつーの!」
「あー面白っ」
「ハハハ」
「実は浮気相手が妊娠しちゃいました〜って告られた私に別れる以外の選択肢があると思う?」
「お前に使った金返せとは言わないから、今すぐ出てって!」
「両手に持てるだけの荷物持って」
「今すぐ!」
「私の前から消えて!」
啓司は何か言いたげだったけど黙って部屋を出ていった
コンビニ行くときみたいに薄いパーカーを引っ掛けてポケットにスマホだけ突っ込んで、ただ部屋の鍵を廊下に置いてある冷蔵庫の上にポンと置いて、まだ寒い3月の名ばかりの春の夜に静かに消えて行った
…消えはしないな
新しい女のところか、実家に行ったんだな
それにしてもあのふてくされた態度はなんだ?
啓司に怒りをぶつけた私を責めるような…
まるで自分が被害者のような…
怒りが体中を駆け巡る
頭に昇った熱い血が猛スピードで今度は首や肩を伝わり、胴を螺旋に回り足の小指にまで届いた
そしてそれがまた頭に昇ってきた
「バーカバーカ、浮気してたあんたは私にとってそんなに惜しい男じゃないよっ」
一人になった部屋で叫ぶ
ハァハァ
大声出したものだから息切れした
ヤバイ、隣の部屋に聞こえちゃったかな
…逆上…しちゃった…
けど、この状況下で逆上しない女なんてこの世にいるんだろうか?
もういい
あんなやつうんと遠くに投げ捨ててやる
さよなら…昨日まで大事だった年下の男よ
私…
これからどうしよう
とりあえず引っ越したい
この高い家賃の部屋に住む理由はなくなった
しかし、引っ越し代が払えない
恥ずかしいけど十数万のお金も持っていない
ほんとにカツカツで暮らしてきたから
あと新しい部屋を借りる敷金礼金も必要だ
頼れるのは…実家しかない
私は詳しい事情は話さず、ただ啓司と別れたので部屋を引っ越したい、お金貸して下さいと母親に電話で頼んだ
「せめてもう一年前に別れて欲しかった」
「あんたが二十代のうちに」
「…いいわ、お金、出してあげる」
「返さなくていいわよ」
「お母さん、退職金が入ったから」
「その代わり…」
「その代わり?」
「結婚相談所に登録して」
結婚相談所?
正常な精神状態だったらこんな条件絶対飲まなかった
けれど、私はこの時傷つき弱って思考能力も低下していた
とにかく啓司と一緒に暮らしたこの部屋を一刻も早く引き払いたい
そんな思いから「登録しますんでお金よろしくお願いします」と即答してしまった
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