第6話 最悪の妹
ハッとして目が覚めると、そこには見慣れた景色が広がっていた。
今更説明する必要もない。澄んだ青空、草木の爽やかな香り、靴越しに感じるでこぼことした砂利の感触――。私は幻想郷に帰ってきたのだ。
「だから……その……って琴音さん、聞いてますか?」
「えっ……あ、うん」
ふと隣を見やると、相変わらず清楚で儚げな印象を与える美少女特有のオーラを放している、愛らしいパフェの姿があった。身長は頭一つ分私のほうが高く、並んでみると若緑色の髪が自然と目に入る。ダメージを感じさせない、まるで現実離れした発色の髪質。これこそ、パフェがただの人間ではないことの証なのだろう。
「もう、琴音さん。今なんだか意識が上の空でしたよ? せっかく大事な話をしてたのに……」
「ごめん……何の話してたっけ」
必死にパフェとの会話を思い出す。死ぬ直前、空が飛べるか質問していたこと。それより更に遡り、少女が空を飛んだことに驚いたこと、パフェも飛べるかと聞き、肯定されてびっくりしたこと。――それより前、パフェと口喧嘩したこと。怒りながら笑っている彼女を見て、魅力的な女の子だと思った。きっと私達が相思相愛だった頃もあったはずだ。けれど、今は……。
ふとパフェの顔を覗き込む。私の不審な態度に呆れることもせず、優しく気丈に微笑み、サッと表情が切り替わる。言おうとしていたことが何だったのか、あまり素面で言える台詞ではなかったらしい。
「琴音さん。記憶が戻っても、私と仲良くしてくれますか?」
急に真面目な視線を向けられ、問われた。その質問の意味はよく分からないけれど、質問されるだけの理由はあるように感じた。それはパフェの立場になって考えてみれば何となく分かることで、私達は記憶を失う前から別離していた時期があったからだ。なぜこのタイミングで再会したのかは分からないが、私がパフェを避けるだけの何らかの理由がある。それを思い出したとき、パフェのことをどう思うのだろう。
「それは……真剣な質問?」
「はい、割と真面目な」
「じゃあ、今すぐに答えは出せないよ。まだ記憶が戻ったわけじゃないんだから」
「そう……ですよね。ズルしようとしちゃいました」
「でも、どんな理由があっても。パフェが離れたくないって言うなら、私はパフェから離れたりしないよ」
「…………」
そこまで言って、ニユリウスが言っていたことを思い出した。今の私は空飛ぶ少女のツララ弾に当たる前の私で、モニターに映っていたように未来は確定している。いずれ、かの少女が現れ、弾幕を飛ばしてくるのだ。
……予知している未来の変え方は簡単だ。そのツララを全力で避ければいい。歴史の強制力でどこかに命中する可能性は否定できないが、急所に当たらなければどうということはないだろう。
遠くの空を見上げる。あの時と同じ角度を。
けれど、待てども待てども例の少女は現れない。冷気すら感じない。
まさかあの少女はニユリウスが一度私を殺すためだけに配置し、用が済んだから退場させたーーということだろうか。流石にバカバカしい。
あるいは私が空を見上げるタイミングがズレたことにより、少女の中で何らかの心境の変化があって方向を変えたということだろうか。……かなり強引な説だ。
と、その時だった――。
「お姉ちゃーーーーーーーーん!!」
その声に振り向くよりも早く、誰かに突き飛ばされて地面を転げまわる。
否、突き飛ばされたというより、勢い良く抱きつかれたといったほうが正確だ。パフェではない誰かと一緒に地面を転げまわる。世界が何度も何度も天地をひっくり返す。咄嗟に目を閉じることもできず、視界がぐるぐるぐるぐると暗転を続ける。
少女の両手は的確に私の両胸を揉んでいた。遠心力に引っ張られて体が思うように動かせず、かつ戸惑っている私の一瞬の隙を、彼女は見逃したりしなかった。
やっと回転が終わって三半規管がヘトヘトになっているのに構わず、最後の気力をふりしぼって貞操の危機からの脱出を試みる。彼女は本気でヤバイと、第六感が告げている。
運良く抜け出しやすい態勢で回転は止まっていたので、脇目もふらず必死に立ち上がろうとした。
しかし両腕を強引に弦のようなもので絡め取られ、あっという間に体の自由を奪われた。仰向けの状態で乱暴に叩きつけられ、痛みに呻く。酸素を求めて呼吸が荒くなる。静かに試されていたようなパフェの時とは違い、これは冗談じゃないと体中のあちこちで危険シグナルが発せられていた。
「せっかくなんだし、楽しもうよ。ね、お姉ちゃん?」
甘ったるい声が、耳元で反響する。全身に恐怖が回り、冷や汗が止まらない。
こういうときに口を閉ざしてしまうのは、私の悪い癖だった。
心の何処かで何かを期待している自分が居なかったわけじゃない。その手足はとても華奢で、濡羽色の帽子に隠れて顔立ちや表情はよく見えなかったが、パフェやニユリウスとはまた違ったタイプの美少女だ。同性愛者ではないが、小さな女の子に押し倒されるというシチュエーションに少し興奮している自分が居る。パフェのことがあったから条件反射で反応しているだけかもしれないが。
マウントポイントを取って物理的に圧力をかけたパフェとは違い、私の両手と両足を何かにくくりつけることで、少女はその様子を不自由なく見下ろしている。
どんなに必死に抵抗してもその拘束が緩むことはなかった。
「くんくん……ちょっと汗臭いね。そんなんだから、お姉ちゃんは悪い女の子に食べられそうになったのよ。手足、とても細くて羨ましいよ。その手の平、汗でビショビショになって気持ち悪いでしょ。触られると少し気持ちいい? せっかくお姉ちゃんは足が長くて綺麗なのに、紺のジーパンじゃ勿体無いよ。もっと女の子らしい格好すればいいのに。トップスは薄着で動きやすそう。乳房がツンと張ってるのがよく見えて、可愛いよお姉ちゃん。うんうん、発汗してもその水滴が丸みを帯びて染みないのは健康な印だよ。あはっ、耳まで真っ赤にしちゃって可愛い。暑くて脱いじゃいたい? ダメだよ、他の女の子が見てるもん。うふふ、ちょっと触るだけでビクビクって反応しちゃってるよ。もう、別にいやらしいことしてるわけじゃないのに」
動けないことを良いように、少女はねぶるように私の体を隅から隅まで眺め回し、好き放題に言いのけた。もう恥ずかしくて堪らない。
けれど意図的に顔を隠しているのか、その視線はずっと私から見て下を向いたままだった。無限にも続くかのような言葉責めにも一区切りが付いたのか、パッと顔を上げてこちらを向く。やっと目があった。
その目は緑白で、瞳孔が開いている状態では虫の複眼を思わせるように燦々と発光していた。明らかに人間のものとは思えない、呪われた瞳。驚いたのは一瞬で、すぐにそれは顔のパーツとして認識された。輪郭としてはニユリウスとはまた違った童顔で、鼻が低く唇が薄いことが特徴に上げられる素朴なアイドル顔だった。ただ一つ、パッチリしすぎている眼ばかりが目立ってしまうが、ツバの大きな帽子から漏れる透明感の強い緑髪に交わり、異形感は一瞬で愛すべきものと変わる。
少女が顔をぐいっと近づけたので、今にも唇が触れそうだ。
「お姉ちゃんは知ってるよね。私が人と目を合わせることが苦手なこと。だからいつもお姉ちゃんから貰ったこの帽子でこの顔を隠してるの。それに、お姉ちゃんに見られるの、すごく恥ずかしい。今の私、上手に笑えてるかな。この気持ち、ちゃんと届いてる? それにお姉ちゃんと目を合わせると……その、抑えきれなくなっちゃうの。今すぐ襲って食べちゃいたい。その整った綺麗な顔を、変な汗と涙でグチャグチャにして犯してやりたいの。――いい、よね?」
「い――――」
私が反論して口を開こうとした一瞬を、彼女は待ち構えていた。
下唇に指があてがわれ、やや強引に開かれた唇の中に少女の舌が挿し込まれる。
そして――。
「じゅるっ、じゅるるっ、んむっ、ぐぢゅぢゅっ、じゅるるるる」
「ひゃ、ひゃううううう!?」
キス、なんて生易しいものではなかった。
舌を絡み取られ、口内の水分という水分を吸い上げられる。クチャクチャと大きな音を立てて行われるその行為は、確かに私の顔を変な汗と涙でグチャグチャにしてしまいそうなほど、辱めを与えるには十分だった。
何度も何度も、舌がくっついたり離れたり。その度に唾液が物欲しそうに糸を引き、口周りはベチャベチャに汚れていく。
遠くで、呆然と立ち尽くすパフェの姿が見えた。
「み、みるにゃあ……!」
酸素欠乏でろれつが回らず、上手く言葉にならない。
やがて恥ずかしさで死ぬよりも辛いめにあったころ、相手も十分と判断したのか、最後に長く押し当てるようなキスをしたあと、何事もなかったかのように離れていく。両手足の拘束もいつの間にか解けていた。
「分かったかな、そこにいるあなた。妖精風情がお姉ちゃんに手を出さないで。
私は古明地こいし。地霊殿の生まれにして、お姉ちゃんの妹なんだから」