第4話 神の国、あなたの幻想
はるか遠くの空の下、真っ赤な煙が立っていた。
夜の帳が下りているのか、あたり一面は闇に覆われている。
しかし、煙が立ち込めている場所だけ昼間のように明るい。
誰かの泣き声や怒鳴るような声がひっきりなしに聞こえてくる。
私は理由も分からず走り続けていた。
足場の不安定な森林の中を、脱げた靴さえ気に留めず。
ずっと誰かの名前を呼ぶ声が響いている。
それは私の知らない名前だった。少なくともパフェではない。
どこまで走り抜けても、その声は自分に付き纏っていた。
――それが自分の声だと気付くまで、そう時間はかからなかった。
それは悪夢のような光景だった。目の前で大きな火災が起こり、私は何処かを目指して走っている。呼んでいるのは家族の名前だろうか。
あぁ……そうか、この光景は。
この意志で足を止めることは出来ない。何故なら、これは過去の想起なのだから。
人里で大きな火災があり、私はそれに間に合わなかった。
前後のことは未だに思い出せないが、この状況だけは忘れていないようだ。
やがて何かに足を引っ掛け、前から派手に転倒した。
鼻を打ち、血がボタボタと垂れ始める。
また立ち上がって走りだそうとして、背後を振り返った。
私は何かを蹴り飛ばしていた。まるで生身のような柔らかさを感じたとき、身の毛もよだつ思いだった。
それは横たわった少女の姿だった。急いで駆け寄り、意識があるか確認する。
ゴロンと生首が外れる。
首を切り落とされ、二つに分離したその身体。
変わり果てた妹の姿に、頭が真っ白になった。
首筋に大粒の涙が刺さった。
空を見上げると、黒い雨がポツポツと降り始めているところだった。
それは瞬く間に勢いを増して、台風のような激しさを思わせた。
地面は真っ赤に滲んでいる。断面から絶えず血が溢れていた所為だ。
私は思わず目を背けてしまい、その場に何度も嘔吐した。
やがて朦朧とする意識の中、帰らぬ人となった妹を抱き寄せる。
もう体温は感じられない。何度も彼女の名前を叫んだ。
泣き腫らした涙も、獣のように叫んだ声も、雨音に紛れて届かない。
私まで冷たくなりはじめ、死んでしまいたくなったとき、誰かの足音を聞いた。
――もう放っておいてくれよ。お願いだから。
黄昏が頭上いっぱいに広がっている。
白い雲に夕焼けの橙色がかかり、金色の空模様を映していた。
けれど奇妙なことに、この景色から一切の匂いを感じない。ハリボテのように。
雲はゆっくりと流れている。不思議な立体感を帯びていて、しばし見惚れていた。
やがて手足が自分の意志で動かせることに気付く。死に損なったらしい。
「おはようございます、琴音。どうですか? 目覚めの気分は」
「最悪以外の何でもないね。ろくでもない過去を見たせいで」
そこに居たのはパフェではなかった。起き上がり、真正面から対峙してみる。
それは真っ白な印象の女性だった。身長は私と同じぐらいだが、目つきは冷たく何の表情も読み取れない。顔立ちにはどこかあどけなさが残っている一方、生きてきた年月の長さを感じさせる。髪は白く、衣装も白いロングドレス。頭上には唯一、赤いティアラがアクセントカラーになっていた。計算された容姿、そんな印象を受ける。
そういえば私は空飛ぶ少女の攻撃によって死んだのではなかったか。
だとすれば、ここは死後の世界――?
「まずは自己紹介から始めないといけませんね。私はニユリウス・ストレージ。あなたの過去を知る者……とだけ言っておきましょうか」
「どうも、ニユリウスさん。琴音です」
「よろしくお願いします、琴音。まずは聞きたいことがあるのではありませんか?」
そんなものは最初から決まっている。何だか誘導されているような気持ち悪さをぐっと堪え、私はありのまま浮かんだ質問をぶつけてみた。
「私は確かに死んだはず。なのに傷一つ受けずここに居ることに、どんな意味が?」
「えぇ、お答えしましょう。まずは正面のモニターをご覧なさい」
ニユリウスの背後に目を向けると、巨大な液晶パネルが幾つも設置されていた。
その一つ一つに何処かの風景が映し出されている。――それがさっきまで私が居た世界の風景だと気付いたとき、薄気味悪さを感じた。
「これは一体……何?」
「あなた達の世界――幻想郷のあらゆる側面、その過去や未来を写しだしたもの……と言ったらどうしますか?」
私は思わずモニターに駆け寄り、その映像の一つ一つを凝視した。そこにパフェの姿を探したかったからだ。数が多すぎてすぐには見つけられなかったが、その一つに血まみれの私を抱え、泣きじゃくるパフェと、その傍で呆然としている水色の少女を見つけた。
赤黒く染色している自分の死体を見るなんて、本来なら胃がひっくり返っても足りない体験だが、さっき追体験した過去のインパクトが強すぎたせいか何の感慨も起きない。パネル越しに世界を見ていることに対する罪悪感のほうがよほど強い。
「あぁ……やっぱり、私は死んでたんだ」
「えぇ、死にましたよ。けれどあなたは生きている。……あなたがツララを真正面から受け止め、幸せそうな顔で息絶えた――その少し前まで時間を遡り、あなたを呼び出しましたから」
その説明にはどこか違和感を覚えたが、言わんとしていることは十分伝わった。
しかし――あまりにもSFじみた設定だ。そんなことが出来るなんて、あなたは万能神か何かだろうか。
「なるほど、理屈は分かった。でも、どうしてこのタイミングで呼び出したの?」
「意識を一度手放してくれたほうが呼び出しやすいからですよ。特に意味はありませんでした。この世界では常に些細な事で死が付き纏います。あなたはまだ、もしかして人間だけの世界だと思っているかもしれませんが、幻想郷には妖怪だって神様だって大勢居ます。圧倒的な力に対抗する手段が無ければ、早かれ遅かれこのように死んでいたことでしょう」
単調な声で、ニユリウスは説明を続ける。どこかこの世界にも違和感を覚えはじめていたので、今更驚く必要はない。妖怪だの神様だのといったものは実際に見てみれば分かるだろう。空飛ぶ少女もその一種だったのかもしれない。
記憶を失った弾みで色々知識が抜け落ちているようだ。
「じゃあ、何で私を呼び出したの? 記憶を失っていることと関係してる?」
「えぇ、その通りです。あなたは選ばれし特別な人間ですから、簡単に死んでもらっては困るからです。今こうして呼び出しているのは、一つにゲームの説明を。もう一つ、身を守るための能力を授けるためです」
「……ゲームの説明?」
「先ず、そちらのほうの話から始めましょうか」
そう言ってから、ニユリウスはゆっくりと瞼を閉じた。すると天井に描かれていた夕焼けの景色が綺麗な星空に変わり、神秘的な空間へと変貌した。
けれどその星空には現実の夜空と明らかに異なる部分があった。全ての星が一等星の煌めきを放ち、星と星の間が星座になぞらえて白い線が引いてある部分だ。
「この演出には何か意味が?」
「いえ、特に」
何もないのかよ。
「夕焼けから夜に変わって、話が進んだものと解釈するのが模範解答です。それと、もう気付かれたかと思いますが、この景色は実際の空ではなく幻影を用いた架空の空模様です。……っとそれはさておき、改めて自己紹介しましょう」
不意に人間臭さを覗かせながらも、彼女が人ならざる存在であることには薄々気付いていた。ただの妖怪とは思えない反面、神を名乗るには中途半端な身なりだ。
けれどその答えは、私の甘い推理に反したものだった。
「私は創造神ニユリウス・ストレージ。
幻想郷の追加と管理を務める、この世界の女神です」