第3話 その名は誰かの愛のカタチ
その言葉を聞いた刹那、私の中にズキリと響く、軽い頭痛のようなものが生じた。それで私は確信した。
誰かにはじめて呼ばれた名前、その「琴音」こそが本当の私自身なんだと。
今までふわりとしていて掴もうと思っても掴めなかった過去の断片、その小さな取っ掛かりは向こうからやってきた。めまぐるしい過去の記憶が蘇ったと錯覚したのか、全ての細胞が熱く沸騰をはじめ、興奮なんて言葉では表せない内側の高鳴りにゾクゾクとするものが止まらなかった。
言葉に出来ない電流に揉まれ、どれくらい時間が経っただろう。外側への止まらぬ好奇心は、「琴音」という自我によってやっと落ち着きを見せていた。次いでやってきたのは「琴音」への強い好奇心だ。我ながら子供みたいだと思うけれど、今は全力で自分のことが知りたい。全てを取り戻せば、彼女を抱擁することにも迷うことなんてなくなるから。誰かを本気で愛するために、自分を本気で愛せなければ――。
「琴音……それが私の名前なんだね。やっと一つ、ハッキリしたよ」
はじめて口に出した自分の名前は、どこかおぼつかなくて、それでいて温かい響きを帯びていた。一番最初に生まれたとき、誰かが愛を以って付けてくれた名前だからだった。理由の分からない記憶喪失に巻き込まれ、一度失ったものにも過去の温もりを想像することは出来る。そうやって少しずつ自分を取り戻していける、そんな自信が胸の中に生まれていたが。
その時、彼女が重い表情を浮かべていることに気付いた。
恐る恐るか細い声で、彼女は尋ねる。
「……琴音さん、もしかして記憶が混乱してるんですか? 自分の名前は、私の名前は、人里を救ったあの活躍は、その前の記憶や、その後の記憶も……う、嘘ですよね? 悪い冗談か何かですよね? 全て忘れてしまったなんて、そんなこと――!」
やっと事態の大きさに気付き始めた。
記憶喪失になって一番困るのは自分じゃない。本当に私のことを大事に思ってくれている彼女には、もっと耐え切れない何かがあるに違いなかった。どうしてそのことに気付かないで、あろうことか誤魔化せないかと一瞬でも考えていたんだろう。
きっと、さっきの甘い香りに気が緩んでいたのかもしれない。
何故なら、彼女の名前を聞きそびれて居るのだから。
「ごめん。黙っててごめん。……あなたの名前すら、本当は思い出せないんだ」
「パフェ……それが私の名前です。どうして早く言ってくれなかったんですか?」
涙をボロボロとこぼしながら、彼女――パフェはそれだけ言うと、もう限界といわんばかりに泣き崩れ、その表情を隠すように私の胸元に飛び込んできた。
パフェの複雑な心境を全て理解ことは出来なかったが、せめてもの罪の償いとしてこれからは彼女を大切にしよう。そんな精一杯の申し訳無さと母性本能を胸に、ゆっくりと背中をさすってあげた。
胸元に顔をうずめ、しばらく離してくれそうにない大切な人を。
「もう、琴音さんなんて大嫌いです! 何も覚えてないのにあんなことしたんですね! 最低です!」
「ごめん、それは本当にごめんってば。パフェもあの時察してくれたのかなって思ってたんだよ」
「分かるわけないじゃないですか! 私はエスパーでも何でもないんですよ!」
目元を真っ赤に腫らし、すっかり元気を取り戻したパフェは、容赦無い言葉をぶつけながら笑っていた。怒られているはずなのに、なんだかくすぐったい気分になってくる。なんだか仲の良い双子か姉妹の喧嘩みたいだと思ってしまった。
パフェは二つ以上の感情を同時に見せることが多いようだ。戸惑いながら受け入れて、泣きじゃくりながら激怒して、でも怒りながら笑っている。その小さな体躯に似合う、よく整った繊細な顔から生まれる表情より、更に複雑なその心の内の根本に広がる大海原に満ち満ちている、子供っぽく見えて大人っぽくも見える優しさに、心惹かれて虜にされそうだった。
愛されているって、こういうことなんだ……。
「パフェ、また涙こぼれてるって」
「あ……」
不意にまた涙をこぼす彼女の目元を、不意に手を伸ばして拭っていた。
指先に温かなパフェの水滴を感じる。じきに乾いてしまうだろう。
「ふふっ……琴音さんは記憶を失っても琴音さんなんですね」
「やめてよ。恥ずかしいじゃん」
「その優しさに免じて、今までのことは許してあげます。よく確認もせずバカみたいに舞い上がっていた私の責任ですしね」
そう言われると何だか良心が傷んでしまう。私の軽はずみな行動で、結局パフェに恥ずかしい思いをさせてしまったようだ。本気で怒るのも当然だと思った。
「でも……少しだけ」
「ん? 少しだけ……何?」
「琴音さんに抱かれ返されたとき、期待してたんです。急に押し倒したことは反省してますよ。自分でも何が何だか分からなくなって、気付けば琴音さんを襲わずにはいられなかった。大胆な自分を知って欲しかった。人里で一緒に暮らしていた頃に、琴音さんの優しさに応えてあげられなかったから。――それがすんなりと受け入れられて一つになったとき、何かがおかしいとは思っていても、拒むことは出来ませんでした。……本当に嬉しかった」
泣き腫らした目をもう隠そうともせずに、必死で言葉を吐き出していた。確かに最初押し倒されたときは何事かと思ったが、彼女もまさか私が記憶喪失になったなんて考えはしなかったのだ。互いが互いを誤解していた。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
「もしも本当に記憶を失っていたとして、私の知っている琴音さんと今目の前に居る琴音さんが別人じゃないなら、心のどこかで私を覚えているんじゃないかって、そう思ってます。記憶を失っても琴音さんは琴音さんだったから。あの時抱いたのも、決して場の流れに任せた適当な行為じゃないって、そう思うことにしますから」
「うん……私も、なんだかパフェに出会ったとき、初対面じゃないような感じがしてた。良い匂いがして、抱いたことは今も後悔してないよ」
「もう、相変わらず琴音さんは琴音さんですね。そんなところが好きですけど」
最後の一言は流石に照れ臭かったようで目を逸らされた。けれどその気持ちは確かに届いて、さっきまで不安で揺らいでいた胸を温かくしてくれる。耳まで紅潮しているその横顔を見つめながら、幸せを感じた。
「もし琴音さんが記憶喪失で困っているなら、私が全力で支えてあげます」
「ありがとう。心強いよ」
「だから……その……」
と、その時だった。
不意に太陽に陰りが射し、まるで夏場に冷蔵庫を開けたような冷気を肌に感じた。気になって空を見上げると、何かが滑空してこちらに近づいているようだった。
まだ遠くて姿がハッキリしない。鳥――にしては少し大きいような気がする。飛行機の類ではないだろう。まるで人間のように手足が生えているようにも見えるし、人間に例えるなら背中の部分に何やら飛び出しているものは妙だ。あれが羽で間違いないだろう。そのシルエットはやや奇妙で、速度はゆっくりだが確実に近づいてくる。というかここらを着地点にしているかのように高度を落としている。
しばらくその飛行物体に釘付けになっていたが、やがて頭部に水色のショートヘアと顔の輪郭がぼんやりと見えてきた。――あれ、人間じゃない!?
「き、記憶が混乱してるのかな。私が知らない間に人間って飛べるようになったんだ!」
「あー……そういえば」
パニックに陥ってパフェに助けを求めると、すごく面倒くさそうな表情を浮かべていた。あれれ、おかしいな。過去の記憶云々以前に、この世界の常識すら思い出せじにいる。こんなことは今まで初めてだった。
忘れているのは昨日までのことと、知り合いの名前や顔だけだと思っていたが、どうやら思い違いをしていたようだ。まるで鳥人間のように、複雑な機械装置も無しに人が空をスイスイと飛んでいる。それは彼だけの特権なのか、あるいは――。
「はい、飛びますよ。私も飛べます」
「えええーっ!?」
驚愕せずには居られなかった。やはり私の頭に残っている常識と今の一般常識に、大きな誤解が生じているようだった。もしかして私、時代に取り残されているのかな……。
今後パフェに助けてもらうことがまた一つ増えてしまった。情けなさで、穴があったら入りたい気分だ。
「わ、私もひょっとして飛べるかな!?」
少し期待に胸を膨らませて聞いてみた。サイクリング感覚で空が飛べるなら活用しない手は無いと思ったからだった。きっと空が飛べるって気持ちいい。
「あー、どうでしょう。あの時の琴音さんはしっかり飛んでましたけど、あれにも水泳ぎみたいに慣れが必要なんで、この調子だと今すぐには飛べないかもしれませんね」
「うぅ……そっかぁ」
言われてみればその通りだった。今の私は自転車の乗り方すら忘れているに違いない。プールをスイスイと泳げるかどうかも怪しい。技術的な慣れは皆無に等しい状況だろう。たかが記憶喪失だと甘く見ていたが、これはかなりの重症だった。
とか何とかやってるうちに、謎の人影はみるみる速度を上げてこっちに向かってくる。ここをめがけて勢い良く滑降していることは明らかだった。
「パフェから離れろーーーーーーーー!!」
それは女の子の声だった。びっくりして空飛ぶ少女の顔を直視する。輪郭がハッキリしてきたので直撃は目前だと察した。
その表情は怒りから目尻が吊っているが、まだ年端もいかない少女のそれだった。背丈はパフェよりも小さめ。髪も服も水色で統一されていることから色の好みが分かりやすいが、パフェに負けず劣らずの可愛らしさが滲み出ていた。ショートヘアはよく見るとワックスで固めたようなふわモコのカールが付いている。くせっ毛なのだろうか。
不意に太陽の光を反射させながら勢い良く向かってくる何かがあった。それは少女から放たれた何かで、冷静に避けようとする前に好奇心が働いて動けなくなっていた。
それは彼女の背中の羽に見えたものと同じもので、季節外れのツララのようなものだということに気付いた頃には、避けることも忘れていた。
明確に私を狙ったものとは、少し考えれば分かることだったのに。
「え。嘘――」
それは少女の声でなく、パフェの声でもなく、間抜けな私のつぶやきだった。
真っ直ぐ飛んできたツララは刺さってはいけない部分を見事に深く突き刺さり、痺れるような激痛が全身を襲った。顔の筋肉まで引きつって、笑っているように見えるだろう。足腰はガクガクと震え、まともに関節を動かすことさえままならない。記憶喪失がなんて比じゃない、思いがけない一撃は私の命を削り切ってもおかしくない一撃だった。
ぼやけていく視界の先に、空中で静止する少女の姿を捉えた。その目は驚愕で見開かれていて、彼女自身もまさか当たるとは思っていなかったみたいだ。
そっか、私を本気で殺そうとしていたわけじゃなかったんだ。それは怒りに任せた威嚇射撃のつもりで、当然避けられるものだと思っていた。けれど私は避けるのを忘れ、取り返しの付かない事態になってしまった。
全身の感覚が抜けていく。抗えない眠気のような気持ちよさに促され、私はゆっくりと後ろに転倒した。背中に柔らかい土の感触が懐かしい。
目を閉じる前に、少女を目に焼き付けておこうと思った。水色のくせっ毛が特徴的な女の子。水玉色のワンピースが可愛らしくて、その表情は今にも泣きそうで、こんな娘に殺されるなら案外悪くないかもな、って思ってみたり。
「こ、こ――琴音さぁぁぁぁぁぁぁあああん!!」
泣き叫ぶようなパフェの悲鳴を最後に聞いて、私はゆっくりと目を閉じる。
ありがとう、パフェ――。短い間だったけど、あなたに会えて幸せになれたよ。