第2話 鍵をにぎる少女
「――――うわぁ!?」
咄嗟に反応が遅れ、変な声が漏れてしまった。思わず尻もちをついて彼女を見上げる形になってしまう。今のさっきまで誰も居なかったはずだ。
考えられるとすれば、視界が真っ暗になった一瞬の隙に現れたとか。
しかも彼女はとんでもない美少女だった。目鼻立ちが整っているなんてレベルじゃない。あまりにも清楚で儚げな印象を与える美少女特有のオーラ、太陽の光を浴びて自然な反射を見せる若緑色のセミロングヘア、さりげなく束ねられたサイドテール、白いリボン。青いドレスを細い身体に纏い、足元は艶やかなローファーで飾っている、まるで一寸の隙も与えない等身大の可愛らしい美少女だ。
その顔にはあどけない笑顔が浮かんでいる。その笑顔がどこからやってきたものかは皆目見当もつかないが、昨日まで多かれ少なかれ親しい間柄だったかもしれない。
なぜなら私は一時的な記憶喪失者であり、自分の記憶が全くアテにならない。配慮の足りない言葉で相手を傷つけてしまうかもしれないが――こう聞かずにはいられない。
ぎゅっと口を引き締め、努めて友好的な風を装いながら私は少女に問いかけた。
「えっと……どちら様でしょうか?」
「…………」
その声は小さすぎて少女には届かなかったのかもしれない。問いに答える様子は無く、彼女は微笑みを崩さないまま頬にかかった横髪を掻き上げる。
白く透き通ったうなじが剥き出しの状態になり、私は思わず息を呑んだ。
一筋の冷たい汗が私の頬を伝わっていくのを感じた。そういえばやけに気温が高い。きっと今の季節は夏なのだろう。それに加えて今の私は極度の緊張状態にあるみたいだ。彼女の素性がまるで掴めない。私の中にある本能みたいなものが危険を知らせるサイレンをさっきからずっと鳴らし続けている。
見た目こそ年端も行かない少女のそれだが、彼女から生身の人間ぐらいペロリと食べてしまいそうな気迫が徐々に見え隠れしていた。
「…………」
気が付くと彼女の顔がくっついてしまいそうなぐらい、距離がぐっと近づいていた。視界を赤色の差した透明でキメ細やかな肌に占領され、嫌な予感がしたときにはもう遅く、そっと肩を押された私は再び仰向けに倒される。
有無を言わさぬ彼女の迫力に圧倒され、私は抵抗もできずにいた。
気が付けば彼女にマウントポジションを許している。彼女はまるで羽のように軽く、抵抗しようと思えばとても簡単だが、私はそれをしなかった。頭の中にはずっと一つの疑問点が駐屯しつづけ、それが現状の判断力を鈍らせていたのかもしれない。考え事をしていると眼球の焦点がまったく定まらなくなる。
記憶を失う前、私は彼女とどんな間柄だったのだろうか?
まずは冷静に状況を一から整理しよう。私は林道の真ん中で寝転がっていたこと。昨日までの記憶を一時的に失っていること。名前や地理すらすっかり忘れていること。いきなり彼女が目の前に現れたこと。彼女はとんでもない美少女であること。その表情から少なくとも一方的な好意を抱えていること――。
無理やり身体を押し倒されて今に至る。
確定しているわけではないが私は女性である。そして彼女も紛れも無く女性である。お互いの年齢はハッキリしないが相手からは成熟した女性の雰囲気は感じられず、“少女”と形容するのが適切である。考えられる関係は親子、姉妹、親友――そのうち、親子のスキンシップとして今の状態はどうみてもおかしい。姉妹のスキンシップ……それもいまいちしっくりこない。親友の可能性は捨てきれないが、ここまで冷静に考えると恋人という可能性にも気付いた。
――たとえば記憶を失う前の私は、同性愛者だったとか。
首筋に生身の感触を感じて、一瞬別の星に飛びかけていた私の中身が現実に引き戻される。彼女の体温は私よりもずっと高く、まるで干したての布団のように心地よい匂いがした。
女と女。本来ならあり得るはずのない性的な間柄。今の私はそこまでの感情は持ちあわせて無いが、目の前の美少女は女性である私から見ても十分魅力的だった。何かの拍子に駆け落ちしていても不思議ではない。そしてその関係は既に行くところまで到達していた――そうなれば、互いが互いの身体を求めるようになるのは当然の成り行きだろう。
「……そっかぁ。そういうことか」
言葉は自然と口をついて出ていた。ようやく記憶のピースが収まるべき場所に収まったのだ。私はフリーになっていた両手を動かし、少女を抱きすくめる。彼女は一瞬ビクッと身体を強張らせたが、すぐ従順に応じた。私がこうすることをずっと待っていたように。
そしてようやくまともに彼女と目を合わせることが出来た。その瞳は潤みを帯びていて今にも泣き出しそうで、私は励まそうとして微笑みかける。身体の芯がじんわりと熱を出しはじめていた。背中に回していた左手を使い、お互いの緊張をほぐすために彼女の髪の毛を丹念に撫でる。
最初こそくすぐったそうに身をよじっていたが、やがて静謐で濃厚な沈黙が降りてくると、彼女の不規則性を帯びた荒い息遣いが耳にまで届いた。“そういうムード”が出来上がったのが素人の私にも分かる。こういった経験が今までの人生に何度あったのだろうか。
顔を合わせ、見つめ合い、これから何をするかは誰でも予想がつくこと。耳まで真っ赤になっているのは互いに誤魔化しの利かない事実だった。
先に目を閉じたのは彼女で、リードするのは私の役目らしい。今まで再三覚悟してきたはずなのに、半ば懐疑的に行ってきたスキンシップのゴールが目の前にあって、そのゴールこそが大切な一歩のはじまりだということの重さに直面していた。
改めて彼女のパーツを見つめていると、本当に可憐で儚げだ。肌は透き通るように白く、興奮から赤みが差して照れたような表情を浮かべている。キスすることに慣れていないのかまつ毛がピクピクと動いているのが特に可愛い。思わず衝動的に唇を奪いたくなる気持ちを抑え、代わりに頬をぷにっと突っついた。
――きっとこのまま一線を超えたら、取り返しの付かないことになりそうだから。
「……ごめん、これ以上は出来そうにないや。本当にごめんね」
「あはは、そうじゃないかって思ってました」
素直な気持ちで謝ると、意外にも素直な彼女の言葉が聞けた。初めて耳にする彼女の言葉遣いは、想像していたよりもずっと落ち着いていて大人びている。
少女は急に活力を取り戻したように立ち上がり、手を差し伸べた。その手を取って私も短い夢から目を覚ます。少女は屈託のない笑顔を浮かべると、すっかり湿りきって収集の付かなくなった重い空気を吹き飛ばすほどの明るさを見せ、こう言った。
「やっと会えましたね、琴音さん♪」