第1話 いつか見た幻想
目を開くと頭のてっぺんからつま先まで、息を呑むほどに青空だった。
ぼんやりと覚醒しかけていた脳内が飛び起きる衝撃。次いで鮮やかな烈風が木々を反復する音が両耳をくすぐる。運ばれてきた草木の爽やかな香りを嗅いだ。背中には柔らかい土の感触。おもむろに投げ出され大きく開かれた手足。心地いい多幸感に身を任せ、もう一眠りしたい気分とよく相談しながら、私は蒼穹を見つめる。
いつか味わったことのある幻想を――――私は全身で感じていた。
私は誰で、ここは何処だろう。昨日までの記憶が思い出せなかった。必死になって思い出そうとすると、二日酔いのような鈍痛が頭をえぐっていくだけで、誰の脳内にもあるはずの“今まで生きた証拠”みたいなものがすっぽりと抜け落ちていた。
風任せに流されている大きな雲を目で追いながら、私は全身が空っぽになったような虚無感に身を任せてしばらくぼーっとしていた。
つま先から頭に向かってつむじ風のようなものが吹き抜けたとき、初めて私は自分の体つきに興味が湧いた。多幸感と虚無感を同時に味わえる二度と無い貴重な時間を手放すのは惜しいが、ここで誰かが話しかけてくるまでじっと雲の動きを観察しているわけにもいかない。
手足がぴくりともしなかったらどうしよう、なんて不安に反して上半身は存外スムーズに起き上がった。勢いをつけすぎて立ちくらみのような眩暈に襲われた以外は特に大丈夫そうだ。
五体満足の健康体であることが分かると、それまで抑制していた様々な好奇心がぷちぷちと音を立ててせり上がってくる。
とりわけ大きな好奇心は私に周囲を見渡すよう命じた。
頑強に育った大木が左右にどこまでも立ち並び、伸びっぱなしだが綺麗に色づいた新緑の葉っぱが周囲の視界を狭いものにしている。今まで仰向けに寝転がっていたのはよく整地された林道のド真ん中だった。
ここはなだらかな斜面になっているようで、前方に進むと高いところに着いてしまいそうだ。ここでは鳥の声ひとつ聞こえず、目を閉じると妖精でも現れそう。
その圧倒的な疎外感を背にしても、恐ろしいほど魅力的な自然環境が私の好奇心をぐいぐい掴んで離さなかった。
一通り新鮮な風景を目に焼き付けて満足した好奇心が、次は視線を下におろして自分の身なりを確認しろと命じてきた。その好奇心こそが今の私の過半数を占めているのだから、従うしかないに決まっている。
その時、突如勢いを増した風の塊が背中を押してきて、私は慌ててよろめいた。頭を屈めた拍子に長い後ろ髪が視界を真っ暗にしてしまう。不意に自分の髪からラベンダーの匂いがただよい、そこで自分が女だということに初めて気付いた。細長い五本の指で髪をかぎわけ、ついでに顔面をぺたぺたと触ると僅かに弾力を持っていてモチモチしている。紛れようもなく、女のそれだ。
何気なく顔を上げると、見知らぬ少女が至近距離で私を見つめていた。