五〇〇年後の幻想郷へ
「私は五〇〇年後に消滅します。どうかそれまでに、この世界を整えてください」
かつて、この言葉とともにホワイト・クリエイターは幻想郷の基盤を創った。
幻想郷――――それは人間と妖怪が共存できる、理想の世界だった。
これは幻想郷が出来る前の話。文明的に進んだ人間は、やがて妖怪を悪の権化として位置づけてしまった。これが一つの過ちとなり、妖怪と人間は決別してしまう。彼らを和解させるためにはどうしたら良いのか、誰もが幸せになれる世界は無いのか、ホワイト・クリエイターは考えた。
妖怪は人間を食らってしまう。だから妖怪は人間の天敵になる他無かった。
されど妖怪は人間よりも賢い。この賢さに学ぶことがあれば、人間にだって得があるのではないだろうか。つまり長いものには巻かれろ。亀の甲より年の功。妖怪は長寿ゆえに、人間とは違う世界を見ているのだ。
全てがそうであるように、人間と妖怪だって共存できるかもしれないのに。
これを読んでいる貴方も、そう思わないだろうか。世界は違えど、そこから学ぶのが人間のアイデンティティではないだろうか。
もし人間と妖怪を野放しにしたら、確実に人間は絶滅してしまう。これは食物連鎖の基本だ。
ではどうすればいいのか。今でこそ彼らの均衡は保たれているが、ゼロからイチを作るのはとても大変だったのだ。
まず、人間と妖怪のリーダーを決めた。人間のリーダーには私が選ばれた。
妖怪のリーダーは複数決められた。天狗、大狼、蟲、妖精、悪霊、これらのリーダーに加え、その他の妖怪はヤクモが担当することになった。
ヤクモについての説明は必要ないだろう。八雲 紫と八雲 藍のコンビのことだ。
特に紫の方についてはホワイトが創生したと言われる唯一の妖怪、そして愛弟子と言える。研鑽された慈愛を引き継ぎ、妖怪の過ちを少しでも減らそうとしている大賢者だ。
藍については賛否両論があると思う。藍は紫の式神であり、実力としては幻想郷でホワイトの次に強いと言われている。ただし他人を見下しすぎる性格ゆえに、あまり近寄りたくない妖怪である。……かくいう私もあまり好ましく思っていない。
何はともあれ、妖怪のリーダーは主にヤクモが勤め、人間の長には私――――上白沢 慧音が任命された。
既に知れ渡っている事実だが、私は人間と妖怪のハーフだ。ワーハクタクという妖怪に属する。本質はオオカミ男みたいな姿を想像してもらって構わない。
ホワイトはそこに注目したのだろう。人間であり、妖怪でもある。だからこそ和解への最善策を見つけてくれるのではないかと、ホワイトは期待してくださった。(本来ならばホワイトには敬称を付けるべきなのだが、ここでは諸事情により省略させてもらう)
私はその期待に応えるべく、全力を尽くしたつもりだ。しかし人間は依然として妖怪と厚い壁で隔てられている。
私は妖怪よりは弱いが、人間よりも恐ろしい力を持ち余している。
だから苦しかったのだ。私が妖怪だとバレて、居場所を失ってしまうことが怖かった。ずっと里の者には素性を隠しながら生きていた。これは何回謝っても許されないことだと思っている。
五年前に起きた人里の火災事件を覚えているだろうか。
初めて私が素性を皆に明かしたのはあの後だった。
どれほどの者が知っているかは分からないが、あの事件では陰で活躍していた一人の女性が居た。私はその女性に励まされ、勇気づけて貰ったのだ。
そして彼女が去った後、私は勇気を振り絞って公に告白した。私が妖怪であることを。そしてそれを隠していたことを。
初めは殺されても構わないと思った。許されないことだと思った。……けれど、誰も私を責めなかった。それどころか、頼もしい味方とまで言ってくれた。もしも妖怪が里を襲うことがあれば私は全力で君たちを守ろうと、私はあのとき心に決めた。
人間は妖怪を許せるのだろうか。それ感じたのは幻想だろうか。
どちらにせよ、私は人間と妖怪がいつか同じ場所で暮らせると確信した。
弾幕について記そう。
弾幕ごっこの起源について、今は誰も気に留めていないだろうか。
それは幻想郷が出来てから間もない時だった。幻想郷のリーダーが一同に集められた総会が開かれたのだ。
そこで議論された人間と妖怪の共存策の一つに、共通の遊び事を設けるというのがあった。
これを提案したのは八雲藍だ。
そんなことで何が変わるのかと誰もが反論したが、これが結果だとするなら名案中の名案だっただろう。ヤクモの名に恥じない活躍をしたと言える。
幻想要という石が設けられたのはそれから数ヶ月後だった。
この幻想要には想兼という精霊が宿っている。ホワイトが最後に創ったのはこの石だった。
この想兼には2つの性質が備わっているという。一つは「幻想を引き寄せる程度の性質」、もう一つは「想像を形にする程度の性質」と呼ばれている。
「幻想を引き寄せる~」の方には諸説あるが、一般的に「居場所を失ったものを蒐集する」という意味に取られている。
こちらの能力はあまり役に立ってないと不評だが、幻想郷が外界と交信する唯一の手段とする見方もある。……私もあまり役に立っているとは思えないが。
そして「想像を形にする~」の方、こちらが重要だ。ただ想像通りに表現するならば誰にだって出来るし、妖怪ならばお茶の子さいさいだろう。
想兼はそこに特化している。誰かがキーワードを想像することによって、想兼を経由して表現されるのだ。
それが弾幕ごっこの基盤として思わぬ力を発揮する。使い方次第では人間も妖怪も同等の土俵に立つことが可能なのだ。
これに気づいたヤクモの二人は、それから共通遊戯の制作に取り掛かる。そして出来上がったのが「弾幕ごっこ」というわけだ。
ルールとしてはサバイバルゲーム等に近い。お互いに弾丸を撃ちあい、先に被弾した方が負けという実にシンプルな遊びだ。
しかしその弾丸を凝ったものにすること、妖怪と人間の力が同等に発揮されること、そしてなおかつ勝ち負けは実力次第とすることが課題だった。
命を賭ける遊びではなく、普段から気楽に遊べて、けど勝負の後には互いに仲良く出来るようなスポーツ。それが弾幕ごっこの理念だ。
弾丸を凝ったものにすること、その課題についてはヤクモが考えた。想兼の性質を踏まえながらスポーツとして機能するように知恵を振り絞ったようだ。
妖怪と人間の力が同等に発揮されること、しかし勝ち負けは実力次第にすること――――これらのバランスについては今も試行錯誤している途中である。
しかし弾幕ごっこというのは知識のぶつけ合いとも言える。賢いほうに軍配が上がりやすいというのが弾幕ごっこのお約束になっているのも事実だ。だからこそ試行錯誤の甲斐があると考えているが、どうだろう。
何はともあれ、弾幕ごっこは人間と妖怪が共存するためのゲームとして一役買っている。これは何よりも喜ばしいことだ。
さて、ここからが本題になる。
どうして私がここに来てこんな文書を書き始めたのか。それには深い理由がある。
それは――――幻想郷が創立となり、今年が丁度五○○年目ということだ。
「私は五〇〇年後に消滅します。どうかそれまでに、この世界を整えてください」
そう最初に記した通り、ホワイトは今年で消えてしまう。
だからこそ、これまでの幻想郷を見つめなおし、本当に世界が整ったのか、改めて考えようということだ。
これを読んだ貴方はどう思っただろうか。果たして人間と妖怪は共存しているだろうか。
それでも弱肉強食を正すことは出来ない。だから人間は妖怪に食われるという事実があっても、人間と妖怪は手を取り合って暮らしているだろうか。
そして今年、すべての中心だったホワイトが消える。
――その時、幻想郷は平和だろうか。
『新たな幻想の始まり(著:上白沢慧音)』より抜粋。