春の分身
春の朝に目が覚めると、もう一人の自分が目の前で寝ていた。もう一人の俺は女だった。外見はあまり似ていなかったが、「俺を女にしたらこんなだろうな」がそのままそこにいた。特別かわいいではなく、冴えないわけでもない。普通とか一般人というのに少しだけ色がついた人物。つまりは女性であるだけの、ただの俺だった。
突然の出来事だが、俺は不思議なほど事態をすんなり受け入れた。もう一人の女の自分がいることは日常の中で何の違和感も無い普通のことだった。そういえば他の人も俺と同じように、彼女の登場に疑問を抱かなかった。なんだかまるで魔法みたいだ。飼犬のハナのみ異変を異変と捉えていた。同じ人間がふたりいることは分かるのだろう、先程から俺と女の俺を行き来して不思議そうな目を俺に向ける。俺はハナの頭をなでてやり、あいつもお前の主人だから挨拶して来いと声をかけてやった。
俺はとりあえず目玉焼きをふたつ作った。自分が今朝一番食べたいものが目玉焼きだったからだ。俺が食べたいなら彼女もきっと食べたいだろう。焼き加減は半熟にしておく。俺の好きな焼き加減にすればそれが正解だろう。女性の自分が登場してくれたのだから、初対面の今日くらいもてなしてあげようと思った。自分なのだから気を使わなくても良いのだが、まあ気まぐれの私利私欲だ。目玉焼きはいつも通り不格好だった。女の自分ならもっと綺麗に焼けるのだろうか。
「ん…おはよ」
「あ、おはよ」
彼女が起きた。俺も朝が弱い。初対面なのに挨拶だけしてすぐに顔を洗いに行ってしまうのは、彼女もまた俺という自分自身に気を遣っていないからだろう。あくびをしながら再登場するが、寝癖がついた髪はまだ直りきっていない。彼女の右側も昼まで頑固なのだろう。もう二杯分の紅茶は出来ていたが、ためしに紅茶とコーヒーのどちらがいいか訊いてみた。返事はちゃんと紅茶だったので、知ってたよと笑いながら彼女の紅茶にも豆乳を入れた。少しこぼした。こっちを彼女の分にしよう。
「パン焼けたよ。食べよ。」
「ああ、ありがとう。」
いただきますをして朝ごはんを口の中に入れながら、俺は目の前の人間をまじまじと見つめてみた。彼女は俺より背が低く、俺より声が高い。自分の目で自分を見るのは自分自身を鏡で見るのと同じ感覚であって、俺は彼女から何の印象も受けなかった。赤い目で赤を見たら何色の赤に見えるのだろう。とりあえず俺の目から見た彼女は普通の女性であり、見つめてみても第一印象が第二に進むことはなかった。俺を女にしたのならこれ位が妥当だろう。むしろ女にした自分ならもっと格好悪いかと思っていた。もてそうではないが、恋愛できなさそうでもない。俺も他の人からそんな風に見られているのだろうか。
「あ、分かってると思うけど俺、お前なんだ。男の常磐春。よろしくな。」
「うん、分かるよ。私も常磐春。よろしくね。」
変な自己紹介だなあと口元が同時に緩み、そんなお互いの動作がぴったり重なっていることに同時に気が付いて、顔を見合わせて同時に笑った。「真似すんなよ」と「真似しないでよ」の声まで重なって、朝からふたりでお腹を抱えた。ハナが俺たちの隣に来ると女の俺がハナおはようと抱きしめた。しっぽを振って嬉しそうにしているハナの喜び方は、俺が構った時と同じ反応だった。
「さっき同じ人間が何でふたりもいるのかハナが不思議がってたよ。」
「私が男になってもハナは飼ってたのね。」
「俺も同じことお前に思ったよ。やっぱりハナは賢いな。俺達が二人いるってこと、ちゃんと不思議がってた。」
「さすがハナね。じゃあ私達、ハナも認める同一人物の分身なのね。」
「分かれたかどうかは分からないけど。まぁお前は女の俺ってことで間違い無いだろ。」
「ねぇ、男の私も大学行ってる?」
「行ってるよ。お前とは違うとこだけど」
「えっどこどこ?なんで私とおんなじ大学じゃないの?」
「ああ、俺勉強できねぇんだよ。中学も高校もずっと野球ばっかやってた。」
「私って男だったら野球部だったんだ。私は演劇部。」
「何だよ、女なら図書委員とか華道部とかやれよ。」
「いいじゃない。毎日充実してるし楽しいし。」
話していたらつけっ放しのテレビが午前十時を告げた。それを聞いて女の自分は慌てて目玉焼きを口に押し込んだ。今日デートなのとむせながら言った。
「えっ嘘だろ、お前付き合ってる奴いるの?」
「いるわよ。ねえ、この服どうかな、変じゃない?」
「変ではないけど…。」
「そうよね。えっと、今日はどの仮面にしようかなあ。あなたが来てくれてなんだか分身の術みたいだから、忍者の仮面で行こうかな。」
彼女はニンニン言いながら手早くお化粧をした。今日の私はくノ一女忍者、得意は忍法色仕掛け、なんて適当な鼻歌が居間まで聞こえる。自分相手とはいえ恥ずかしくないのか。俺といても一人暮らしと変わらないということだろうか。
「あ、洗濯機回しといたから洗濯物干しておいてくれる?ごめんお願いね。いってきます!どろん!」
ちょっと待てよお前と言ってみたものの彼女の耳には聞こえていないだろう。ハナが俺を置きざりにもう一人の飼主を見送りに行ってしまうと、折角俺だけになついていたのにと思って何だか少し淋しくなった。しかし仮面とは何だ。忍者って。もう一人の自分は変な奴だと思った。俺はそんなに変人じゃないはずだ。洗濯物を干しながら、それにしても彼女は自分勝手だなと思った。自分相手だからって許されると思うなよ。今日は洗濯日和だからデート日和でもあるのだろう。女の自分と話しているのは面白い。早く帰ってくればいいのに。女性ものの下着には条件反射で驚いてしまったが、自分のものかと思うと驚き以外の感情は芽生えなかった。 さて俺は今日何をして過ごそう。こんなに天気の良い休日には、何に変身しようかな。
*2
「ごめん遅れちゃった!忍び足で走ってきたんだけど」
私はそう言って彼氏に遅刻を詫びた。彼は私がちゃんとここに来れば後はもうどうでもいいようで、二言三言の挨拶をして歩き出したので私もついていった。最近どうかと訊かれたので、演劇部の舞台発表の稽古などが大変だと返した。
「そっか。俺は最近、夜眠れなくて睡眠不足なんだよね。昨日なんて気付いたら空が明るくて余計眠れなくて、身体重いし辛い。」
「大丈夫?私、今日はくノ一忍者で来てみたんだけど看護婦さんの方が良かったかな?」「…別に何でもいいよ。」
何でも良いよと言われても困る。どうしよう、お色気の術なんかも考えてきたのにな。
「じゃあ今から看護婦さんをするね。どこか痛いところはありますか?」
「…痛いっていうか辛いんだって。さっき言っただろ。」
「どこが一番辛いですかー?」
「…全部」
彼は私と一緒にいることで和やかな心になる訳でもないようで、せっかく恋愛関係を結んでいるのに私は彼に何もしてあげられなかった。彼は一人になりたくないだけで、傍にいてくれるなら基本的に誰だって良い。相槌を打つだけなら私じゃなくったって良いんだ。要するに彼は自分の不平不満を聞いてくれる相手がそこにいればいい。その相手に一番都合が良い人間が私で、私という存在を自分に縛り付けておきたいから恋愛感情を結んでいるだけだ。彼が愛だと思っているものは私にとっては愛ではない。つまり私は彼から愛されていない。ずっと前からそうだった。
「体調が優れないなら無理しない方が良いですね。今日は早く帰ってゆっくり寝ましょう。」
「何?春、帰りたいの?」
「えっ違う違う!今の私、看護婦さんしてるだけだから。」
「なら良いけど。帰ってもたぶん寝れないから、春が良ければ一緒にいてほしい。」
「うん!じゃあ、今日は何をしますか?」
「別に、いつも通りで良いんじゃない?」
いつも通り。つまりいつも通り今日も、喫茶店とレストランに居座り、実りの無い話をしながら時間をつぶすだけだ。お店だって代わり映えが無い。今だってふたりで歩くことを楽しんでいるわけではなく、自分達にとって都合がいい安くて適当なお店を探しているだけだ。
「あ、うどんとか食べたら?消化に良いじゃない」
私は母親の仮面をかぶってそう言ってみた。
「いい。食欲無いから飲み物だけで。春が食べたいなら良いけど。」
「そんなこと言ってるから元気にならないんでしょ?食べなきゃ駄目よお。食べなさい!」
「だから春、そんなにうどんが食べたいならうどんで良いって。」
そう言って彼は私の手を引いてうどん屋さんに入った。どちらかというと洋食が食べたい気分だったなと思いながら私はうどんを食べた。彼はやはりお茶しか飲まなかった。
「ねえ、お母さんお腹一杯になっちゃった。残ったもので悪いけど食べてくれない?」
「いい。いらない。」
ああ、この後どうしよう。どれが正解の仮面なんだろう。
*3
俺が遅い夕飯でうどんを食べていたら、女の自分が帰って来た。ハナが一目散に玄関に彼女を迎えに行った。彼女のただいまという声がとても疲れているように聞こえた。おかえりと返すと、そっか今日からもう一人暮らしじゃないのねと彼女は言った。
「え、あなたもうどん食べてるの?」
「そうだけど。一応二人分つくってとっておいたやつ食べ始めた瞬間に何だお前」
「うどんは私はもういいの。うわあ、やっぱり男の人って沢山食べるのね」
「ああ、今日はハナと一緒にマラソンランナーに変身してたんだ。一日中走ってたらやっぱり疲れるもんだな、足のこの部分が真面目に辛い。ただ走るだけだけどマラソンって深いよ。でもまあ今日は眠いから風呂入ったらただちに寝たい」
「それ!それでこそ男よね!ねえ、お色気の術かけてあげようか?」
「えっ何?お色気の術?そういえば忍者の仮面とか色々言ってたよな。あれどういうことだ?」
「あ、私も気になってたんだけど、変身って何?」
その二つの質問で俺は彼女をなんとなく理解できたような気がした。俺が変身するのはもっと偉大な人物になりたいからで、つまり自分に自信がない。きっと彼女も同じなんだ。俺は自分の見え方だけ装うなんて器用なことはできないし、自分の要素なんて少しも残さず自分ではない誰かになりたい。見られ方を工夫したところで部分的に俺が残ってしまっているなら意味がない。要するに自己防衛であり、俺にとっての変身が彼女には仮面なんだ。さすが同じ人間だなと俺はため息をついた。
俺は野球が好きだった。ポジションはキャッチャー。大学に入ってからも良いチームに恵まれ、自分の野球欲を丁度良く満たしてくれていた。バッテリーを組むピッチャーのあいつともうまく関係を築けていた。俺の体格は捕手に向いているらしく、エースのあいつの全力投球を受けられるのは俺だけだった。試合に出る選手にも毎回選ばれてチームの柱になれていた。 キャッチャーはやりがいのあるポジションだった。俺は捕手をしている時の自分が好きだった。みんなも俺を頼りにしてくれていたし、期待にもある程度応えられていた。しかし俺はもともと打者になりたくて野球を始めた人間だった。バットを握り投手と一騎打ちの勝負をして、会場の端まで届くホームランを打つ選手になりたかった。幼い頃からフルスイングで球をかっとばす選手に憧れていた。四番は俺の夢だった。
捕手には変身しようと思わなくても、グローブを手にはめてピッチャーの前に座れば自然と俺は捕手になれた。グローブをはめると人が変わったようだとよく人に言われたが、俺は捕手の自分が本当の自分だと思っていた。しかしチームの正捕手になれても打ち込み練習は密かに熱を入れた。四番になりたいのに俺は打者にはどうしても変身できない。どんなに練習しても素振りをしても打率はちっとも上がらない中、四番の夢を諦めきれずあがいたものの、中学時代には自分には打者の才能が無いのだろうと自分自身に見切りをつけた。だがやはり目の前で相手チームの四番がホームランなんて飛ばしてしまうと、俺はどうしても四番になりたくなってしまう。キャッチャーとしてあいつの球を受けていても、この球で試合に勝とう、ではなく、この球を打ちたいと考え始める俺もいる。そんな時はピッチャーのあいつに恥ずかしくて顔向けできない。あいつは本当に楽しそうに野球をしている。良い肩を持っているし才能もあるし努力だって惜しまない。何より全力投球をして三振を取った後の、屈託のないあの笑顔。俺もいつかあんな風に野球ができるだろうか。
『八番、捕手、常磐春くん』
会場に俺の名前がエコーで響く。俺の打順だ。相手チームのホームランにより試合は厳しい状況にあり、俺が後につなげられなかったらこの勝負に勝ちは見えない。監督からバントのサインも出た。ここは堅実に次に回して打線を繋ぐ場面だ。そうは分かっていてもバッターボックスに立ってバットを構えると、先程相手チームの四番が打ったホームランが頭にちらつく。四番になりたくなってしまう。やめろ、集中しろ、バントだ、俺がつながなきゃだめだ、できることをすればいい、何も考えるな、しっかり塁に出ろ、バントだ、欲張るな、バントだ。俺には、ホームランなんて、打てない。
頭でごちゃごちゃ考えていたら、前に飛ばしたはずのバントが大きく空に打ちあがった。バントミスの球が会場の端に届くはずもなく、俺のホームランまがいは相手チームのグローブの中にすっぽりと収まった。みんなの落胆する声が耳に届いた。
攻守交替のためベンチに戻ると、チームのみんなが励ましてくれた。申し訳なくて涙が出そうになったが、これ以上空気を沈ませまいと必死に我慢した。バントも打てない四番のなりそこないが泣く資格もないだろう。打順が俺じゃなければ良かった。もしも二番バッターの彼なら、彼の正確なバントで確実に打線がつながった。もしも一番の彼なら、守備の間をすり抜けていくようなヒットで走者の塁は二つ進んだ。もしも四番の彼なら、相手チームにホームランを打ち返してくれた。うちの四番はこういう時に本当に打ってくれる四番だ。だから本物の四番なんだ。俺が苦い顔で防具をつけているとキャッチャーのあいつが、切り替えろ、頑張ろうと言って俺にグローブ渡した。勝利に向かう張りのある空気を淀ませたのは俺だ。俺が余計なことを考えて試合に集中できなかったからだ。俺じゃなければ繋がった。
みんな、俺でごめん。
*4
男の自分と一緒にいるのは心地良かった。お互いのことを自分のことのように分かっているから、絶妙の瞬間に絶妙の心遣いを受けられる。何より気を遣わない。趣味も同じだから異常に話も合う。しかし完全に同調するわけではなく、性別の違いによって差が生じるのがまたおもしろかった。同じ人間で性別だけが違うのだから、男女の差が完璧な純度で浮かび上がる。時には男の春が私に買い物の時間が長すぎると文句を言い、またある時には私が彼に肉ばかりの夕食の文句を言ったりした。自分と相手の考えが食い違うことはほとんど無く、たまに意見が衝突することは珍しく新鮮で、のんきに仲良く喧嘩した。同じ人間とはいえ完全に同じというのもつまらないし、完全に見透かされるというのもきっと疲れるものなんだろう。性別の違いはふたりの間をつなぐ最適な糸だった。
今日の夕飯は私が作ろうと思った。彼の好きなものをつくってあげようと思うのだが、それは私の好物でもあって一石二鳥だ。自分が今夜一番食べたいものは何だろう。今日はご飯を炊こうかな。いや、そういえばもう一人の自分も今日家で夕飯を食べるのだろうか。辛いものを食べたい気分であろうことは確実なのだが。まあとりあえずご飯は二人分炊いておくことにしよう。
私が仮面をかぶるのはありのままの自分を露呈させたくないからで、つまり自分に自信がない。きっと男の自分も同じだ。私は自分ごと何かに変身するなんていちいち体力のいることはできず、他人が自分をどう見るかを装うしかない。何かに変身したって私は私でしかないだろうと思う。要するに自己防衛であり、私にとっての仮面が彼には変身なんだ。さすが同じ人間だなと私はため息をついた。
私は常に何らかの仮面をかぶっているが、本来それは不自然でも偽りでもなんでもない。私だけじゃなくてみんなも、人間なら誰だって、いつも何かの仮面をかぶっている。仕事をするときに自分の意識を切り替えたり、電話に出るときに声を変えたりするのは分かりやすいその例だ。自分をその場の状況に溶け込ませるために、自分自身を作り変える。人の世は人に芝居を強要する。それがうまくできないと周囲から空気が読めないなんて言われるものだから、私たちは毎日必死にその場に応じた仮面をかぶっている。人生は大概が芝居だと気付き、ならば今立っている舞台で演じたい役になりきろうと思ってからは人生が円滑に流れていくようになった気がする。自己主張をしたくなる時だって、要領よくそのための仮面をかぶらなければ世の中は私の言葉を聞いてもくれない。
仮面をかぶることを偽りではなく装いだと割り切ってしまってから人生がいつもより楽しくなった。いつもより少しお洒落をしてヘップバーンの仮面をかぶれば、その日の私はヘップバーンだ。お気に入りのヒールの靴をかつこつ鳴らして街を歩こう。あら猫ちゃん、昨日もここで会ったわね。少し雨が降りはじめたみたい。新しく買ったレースの傘をみんなに自慢しちゃいましょう。最初はなりきっているだけの私がだんだんヘップバーンになってくる。振舞いが自然と上品になり、彼女と心が重なる。ヘップバーンはこんな風に世界を見ていたのかな、という視点で私も世界を見るようになる。そうすると私の目にも世界がきらきらして綺麗に見えるのだ。時にはヘップバーンらしくなくなっても私が楽しければそれでいいじゃない、なんて。ヘップバーンは私のお気に入りの仮面だ。
仮面という言葉さえ口に出さなければ世の中はだいぶ生きやすい。もう一人の自分にはつい気が緩んでしまったが、「私は今仮面をかぶっています」と口にするのはやはり「私はあなたを騙しています」と言っているようで抵抗がある。私も騙したいわけでは全くなくて、自分をより良く見せたいだけだ。服装やお洒落と要は同じで、仮面は目には見えない内面のお化粧だ。そうすることによって相手が喜んでくれたら私も嬉しい。お化粧することを覚えた今となっては、それまで無意識にしていたお化粧はどのようなものであったか忘れてしまった。仮面を落とす化粧落としなど無い。私だってお化粧をしていないと、もう外は歩けない。
だから私はいつも仮面をかぶっている。女なんだから相手が求める仮面をつけて喜ばせてあげたっていいじゃない、なんて思って生きている。だってその方が良いでしょ?素顔の私なんて、全然かわいくないもんね。
*5
彼女の帰りは毎晩遅かった。そして毎日必ず疲れていた。ある休日、珍しくふたり揃って自宅で夕飯だったので、材料を買いにハナも連れて買い物に行くことになった。今日は夕方から安売りをする日だ。一人につき一つしか買えない広告の品も二つ買える。最近はすっかり春になって、日が沈んでももう寒くない。ふたりで今日の夕飯の献立を話しながら家を出た。献立は十秒で決まった。買い物ついでに連日遅くなってどうしたのか訊いてみた。彼氏と会っていると彼女は答えた。それならば横槍は入れまいと思ったが、その発言にあまりに幸福感が感じられないのが気になった。もう一人の自分が辛い目に遭っているなんて見過ごせない。もしその彼氏がお前を泣かせる敵だとしたら、いつでも正義のヒーローに変身してやろう。
「どんな奴なんだよ、そいつ。」
「どうされましたか教官!」
「お前がどうした。今は何の仮面をかぶってんだ。」
「兵隊さんの仮面であります!自分、不器用ですんで!」
「それ絶対兵隊じゃないぞ。兵隊ってどういうもんか知らないでやってるだろ。履き違えてんぞ。」
「はい!自分、不器用ですんで!で、何を言いかけたのでありますか教官!」
「いや、お前の彼氏ってどんな奴なのかなって思って。お前とつき合うって大変だろうし、自分が女ならどういう男が好みなのか興味あるし。ほらほら、のろけてみろ。」
「のろけてみろって急に言われても困るであります!」
「告白って自分からしたの?されたの?」
「…したのは、自分じゃない、で、ありますなぁ。」
彼女は言いにくそうに言った。
「じゃ、されたのか。なあ、何て言われたんだ?」
「…秘密。で、あります。」
今日はじめて彼女の頬に赤が見えた。恥ずかしそうに視線を外すところを、つい可愛いと思ってしまった。俺は目の前の自分は女なのだとはじめて心で気がついた。
「じゃ、お前はそいつのどこが好きなの?」
「教官は自分に嫌がらせをしているでありますか?命令でないなら答えたくないであります!」
「うん、じゃあこれで終わりにするから。どこが好きなんでありますか?」
そう言うと彼女は考える様子を数秒見せた。考えるというより探しているように見えたのは気のせいだろうか。ハナが走りたがってるのが気のせいではないことは分かるのだが。
「…忘れちゃった、であります、ね。」
「…いいのか、それで」
「つ、付き合ってたら色々ありまして!付き合い方なんて人それぞれでありまして!」
彼女は慌てて自分達を弁護した。触れられたくない話題なのか。
「慌てんなよ、うまくいってないのか心配になる。お前が好きならそれでいいだろ。」
「慌ててないであります!教官は男だから分かってないだけであります!」
「お前の仮面、面白いけどちょっと邪魔だな。ま、幸せならいいよ。男の意見欲しかったらいつでも相談しろよ。お前、嫌なことがあっても吐き出せずに背負い込むだろ。俺もそうだから分かるよ」
「…大丈夫。ありがとう。」
で、あります。彼女は小さな声で、やっぱりそう付け足した。俺は俺で、いつからつきあったんだよとかどこまでいったんだよとか付け足した。
歩いていたら桜並木に桜が満開だった。都心から少し離れたこの街は、隠れた桜の名所だ。買い物ついでにお花見ができる住みやすくて素朴な街だ。夕陽にあたった桜はいつもと違った花色だった。いつの間にハナもゆっくり歩き始めたのだが、犬も桜を美しいと思うのだろうか。
「綺麗でございますね。私の一番好きな花、桜なのです。」
「知ってる。春が一番好きなのも知ってる。」
「そうですわよね。あなたもそうなんでしょう?私達の名前、常磐春ですものね。あなたも私も春生まれですし。」
「お前、今度は何の仮面だ」
「おしとやか姫であります。ふふ」
ああ馬鹿だ。どこの姫だそれは。しかしそう言って桜の下で笑う目の前の自分はとても綺麗に見えた。たぶん桜のおかげだろう。
「あなた、なんてまどろっこしい呼び方すんな。春って呼べよ。」
「え?わたくしも春なのにですか?」
「俺も春だ。自分の名前を呼ぶのって何か抵抗感があるけど、本当なんだから仕方ないだろ。それに、俺も春だけど、俺にとって春って呼べる相手はお前だけだ。お前もそうだろ。」
「そうですけど…。」
「なら決まりだ。今度あなたなんて呼んだら怒るからな、春。」
「そんな殺生な。あなたはよっぽど自分勝手な方ですね。」
「自分を勝手にして何が悪い。っていうかお前には言われたくない。お前、自分がどれだけ自分勝手なのか分かってないだろ」
「…分かっていますわ」
「分かってるんだ。分かっててそれなんだ。」
「…もうワイシャツのボタン取れちゃってもつけてあげません。」
「じゃあ俺だって開かないビンの蓋、開けてやんない。」
「…ばか。」
あなたって本当にお馬鹿さんねと再度言い直された。馬鹿馬鹿言いすぎだ。俺もたまには言うけどさ。
「馬鹿でもあなたでもねえよ。春って呼べって言ったろ、春。」
そういうと春は顔を赤くして、俺を春と呼んだ。おしとやか姫のくせに呼び捨てだった。呼ばれたら俺の顔まで赤くなってしまった。単に名前を呼ばれただけなのに。友達には毎日春春言われてるじゃないか恥ずかしい。
「偉い偉い。今日の夕飯、カレーにしてやるよ。」
そういって春の頭を強めに撫でて顔を見られないようにした。元々カレーに決まっていたじゃありませんか、なんて彼女は怒りながら抵抗するが、俺の顔が赤くなくなるまでは止めてあげられない。春の髪型は崩れに崩れ、その内にパンチパーマごっこが始まりお互いの頭をわしゃわしゃにして、お互いの髪型に笑いあった。ハナがさびしそうにしていたので頭をわしゃわしゃ撫でたらあろうことか逃げられかけた。顔の赤さは笑いの中に隠れてくれた。赤く差す夕陽も俺の味方だ。しかし春はといえば、あのサッカー選手に似すぎているといつまでも笑っていて俺より顔が赤い。もはや彼女はおしとやかでもなんでもない。ラモスラモスとからかわれたので俺はラモスに変身して似てない物真似をしてやったら、彼女は大爆笑して喜んだ。「もー、春のばーか!」桜の下で屈託無く笑う彼女に、不覚にも耳まで赤面してしまった。
よしてくれよ、恋じゃあるまいし。
*6
「じゃあ今日は早く寝たほうがいいっちゃよ。お疲れ様だっちゃ。」
「…ねえ春、あのさ、変なこと訊くけど、今も俺のこと、好き?」
ああ、また訊かれた。最近この質問をされることが多い。訊かれすぎるとこちらまで分からなくなってしまう。
「何でそんなこと訊くのけ?ダーリン愛してるっちゃ!」
恥ずかしい言葉も仮面をつければ言いやすい。電話だと仮面をかぶるのが口元だけでいいので楽だ。唇を愛の言葉の形にして声を出せばそれで済む。
「…そっか。ごめん、ありがと。じゃあ。」
意識的に仮面をつけるようになったのは、彼と知り合ったすぐ後の頃からだった。演技部で役柄の仮面をかぶっている春っていいよねと言われて、ならば私は彼の前では仮面をかぶっていようと思った。彼が私に付き合おうと言った日、彼が私のことをそこまで愛していないことを私は知っていた。彼は自分が寂しいだけで、でも私だって一人でいるのが寂しい時期で、お互いの利害が一致しているならこういうお付き合いが成立したって良いじゃないかと思った。愛情ならこれから増やしていけばいい。それに彼も私も、愛情が全く無かったわけでは決してないんだ。最初の頃は小さなことで一喜一憂して、毎日彼のことで頭が一杯だった。彼に可愛く見られたくてお洒落もした。彼が弱音を吐いてくれることには頼りにされている嬉しさしかなかった。会いたいと沢山言ってくれることには純粋に顔を赤くしたし、毎日返しきれないほど連絡をしてくれるのは私のことをそれだけ好きでいてくれるからだと思って照れていた。好きになってもらう努力もした。しかし時間が過ぎて行くうちに現実が見えてきた。相手に愛情を持っていれば、こうなったらいいなという理想が叶うことを期待する。その期待が裏切られると心が裂ける。その落胆があまりに辛くて、私は期待するのを辞めてしまった。やめようと思って本当にある程度はやめられてしまったのだから、やはり私は彼のことをたいして愛していなかったのだなと自分自身に落胆した。
彼は私のことをどう思っているんだろう。何の仮面をかぶっても決して口には出せない質問がいくつもある。どんな仮面をかぶって何の姿に変身しているんですか。今日の装い具合はいかがでしょう。元気に装えているでしょうか。私はあなたのことを何も分かってあげられていませんよね。でもあなたも私のことを理解してくれていませんよね。お互い自分のことしか考えていませんよね。私のことを愛してくれていませんよね。これからどうしましょうか。あなたはどうしたいですか。質問は無限に浮かぶけれど答えは一つも知りたくない。きっと愛されていない現実を思い知るだけだろう。最近は愛されようと仮面をかぶるのも疲れてきてしまった。
私は彼のどこが好きか、そう春に訊かれてから考えることが多くなった。彼とつきあっているのは体力がいる。機嫌を取るのも億劫だ。私はなんでこんな人のことが好きなんだろう。
頭の中が疑問でぱんぱんになってしまったので海に来てみた。水平線を見ていれば、世界の広さの前に自分の悩みが小さく見えるかと期待した。期待通り海は広い。打ち返す波はどんなに長い時間見ていても飽きる気がしない。夕陽もきれいだ。ずっとこうして海を見ていたい。もしも私が松尾芭蕉ならこの風景を俳句にして、十七文字にとっておけるのに。そう思って私は芭蕉の仮面をつけてみた。春の海、ひねもすのたり、のたりかな。ああこれは蕪村だ。私は自分の言葉で俳句を詠んでみたいのに。景色は申し分無く美しいのに、五七五が頭に浮かぶことはついになかった。
もう彼と関係を断ってしまおうか。今は一緒にいるけれど、別れてしまった方がお互いのためではないのか。しかし、彼をこれ以上受け入れられないことを認めるのは嫌だった。海のような広い心を持っている人間でありたかった。彼氏の愛情の束縛なんて朝飯前だと言う常磐春の仮面をつけていたい。この恋に堪えているのは彼を愛しているからだなんて、そんなこと私はもう言えないのに。もはやこの恋はただの見栄だ。弱い自分を認めたくないから、もう愛していない彼氏からの束縛に耐えているだけだ。泣きたくなっても泣いてはいけない。そうしたら自分が辛がっていることを認めなければならなくなる。ふと自分は何をしているのだろうと思った。自縄自縛とはこのことか。そう思って海を見たら、夕陽の海が眩しすぎて涙が出た。
*7
俺がハナと海に行ったら春もいた。偶然同じ時に同じ場所にいるなんて、さすが同じ人間だと思った。しかしひとりで海に向かってトランペットを吹きにきたなんて自分相手でもさすがに恥ずかしくて言えない。幸い通りすがりを装える格好なので、後ろから驚かそうと思って近付いた。わっと言って驚かせたが何の反応も無く、春はゆっくりとこちらに振り返った。
「春。ハナも。どうしてここにいるの?あ、どうしよう、今ってどんな仮面をかぶればいいのかな」
「仮面なんていいよ。どうした、なんて顔してんだよ春。」
そう言うと春は視線を海に戻した。今にも泣き出しそうなのに涙が出ないような顔だった。春の電話からムーンリバーが流れると彼女は背をびくっと震わせて、顔を体育座りの膝に埋めた。ハナがムーンリバーに向かってわんわん吠えた。
「おい、出ないのか」
他にかける言葉が見当たらなくて訊いてみた。彼女は頭を横にふった。電話はしばらく鳴り止まなかった。俺はかける言葉が見当たらず、何に変身していいのかも分からず、春の隣であたふたすることしかできなかった。しばらくするとまたムーンリバーが流れた。ハナがなにやら必死そうで何事だろうと思っていたら、よく見ると彼女は泣いていた。泣き声もあげず自分を押し殺しているようだった。電話はあまりにも鳴り止まず、彼女は出たかったら出ていいと言った。彼氏は私じゃなくても誰か話し相手がほしいだけだから、春が良ければ出てあげて、だそうだ。律儀なことに、彼女はこんな時でもすべての語尾に何かしらの個性をつけた。こんな時でも彼女は仮面をかぶった。自分とはいえ他人の電話に出るなんてと思い一度は断った。しかし春をこんなふうに泣かせた男に一言怒りたくて、いつまでも鳴りっ放しの電話を思わず手にとってしまった。
「ええと、もしもし。彼氏さんですか?」
ああ変身するのを忘れてた。もういいそんな暇は無い。
「…あれ、春じゃないの?誰?」
「いや、俺も春。男の方の。はじめまして。」
「ああ。なんかそうらしいね。で、春は?」
「えっお前反応薄いな!」
「別に君には興味無いから。春、そこにいる?いるなら早く話させて」
何だよ、彼氏ってこんな奴なのかよ。何だこいつ。そういえば名前すら知らない。
「お前の名前、なんていうんだ」
「え、何、名前?冬だけど」
「冬?下の名前が?冬さんってことか?なんだか寒い名前だな。あったかくして寝ろよ。」
「それ、前に春にも言われた。俺は別に寒くないんだけどなんなの?」
いや、お前が何なんだ。何だか無性に気に食わない。俺とこいつは絶対に仲良くなれない気がする。
「なあ、春が無理して仮面かぶってる時が最近多いのってお前のせいか?」
「仮面?何それ。」
「お前、付き合っててそんなことも知らないのか?あいつ、今日の私はお姫様ですとか、よく馬鹿なこと言い出すだろ。」
「ああ。春って本当に演技好きだよね。」
「何だよそれ、お前あいつのこと何も分かってねえ。春は今泣いてんだぞ。泣かせたのお前だろ。」
「え?泣いてる?何で?俺、知らないよ。」
「知らないじゃ済まねえ。お前のせいで泣いてんだよ」
「俺のせい?何で?よく分かんないけど春がそこにいるんなら話させてよ。」
「嫌だ。もう春に泣いてほしくない。」
「え?何?訳が分からないんだけど」
「お前と話してるとイライラするからもう電話切るからな」
「ちょっと何なの。とりあえず春に…」
「うるせえ!春春って気安く呼ぶな!俺だって春だ!」
何か言いかけていたけどもう聞きたくなくて電話を切った。苛々して仕方が無かった。
「おい春!何だあいつは!お前の彼氏は何なんだ!」
「分かんない…ざます…」
そう言って泣き声をあげないように彼女は泣いた。
「おい泣くなよ。こんな時まで仮面かぶってんじゃねえよ。何でお前あんな奴とつきあってんだよ。あいつ本当にお前のこと好きなのか?俺まで惚れられたらどうしようって思ってたけど全然そんなことねぇじゃねえか。俺は春の分身だぞ。ちょっとくらい興味持て!」
なんて冗談を言っても反応が無くて恥ずかしい。泣くなよ。お前が泣くと俺までなんだか悲しいんだよ。どれほど我慢してるんだよ、あんな男に。恋っていうのは辛くてももっときらきらしてるもんだろ。そんな風に泣いてんな。そんな泣き方、息もまともにできてない。
「おい、泣くならもっとちゃんと泣け。変な泣き方してんじゃねえ。」
「だ、だって、なくのに、どのかめんが、いいのって、おもって、ざ、ざまして。」
「仮面なんて今はどうでもいいだろ。語尾間違ってんじゃねえか。ざましてって何だよお前らしくない。」
俺がそう言うと切れ切れの言葉で返事が返ってきた。泣いている声を繋ぎ合わせたら、仮面をつけない私なんて私じゃないだの、仮面をかぶっていない自分の素顔がどんなものか覚えていないだの言っている。相変わらず語尾も邪魔だ。しかし確かに仮面をかぶっていない春は春らしくないかもしれない。
「じゃあ常磐春の仮面をかぶれ。お前自身の仮面をかぶればお前だろ。」
素顔が既に常磐春の仮面なので、その上から同じ仮面をかぶるなんてできないと言われた。
「もういい、仮面をかぶらなきゃ泣けないならいくらでもかぶれ。かぶっていいから、あいつとはもう別れろ。」
「な、なんでそんなこと、い、いうの、でっしゃろか」
「あいつより俺の方がいい男だ」
俺も春だけど俺はあいつのこと嫌いだしな。ああそうだ、どの仮面つければいいのか分からないなら俺の仮面をつければお前は常盤春のままでいられるんじゃないか?そこまで一気に言い終えると、馬鹿じゃないのと言われて声をあげて泣き出した。やっと語尾がとれて泣き声もやっとあげたけれど、彼女はどんな仮面をかぶったんだろう。俺は俺で、気付けば泣いている彼女の頭をなでていた。俺はそんなことをする奴ではなかったのに、いつの間に何に変身していたのだろう。ハナは少し前から春の周りをうろうろぐるぐる回っている。自分が犬であることを悲しんでいるように見えたのは俺の気のせいだろう。夕陽は俺と春をまぶしく照らした。ふたりの常磐春の影がひとつに合わさって、大きくて濃いひとつの影ができた。俺達は影が消えて夜になるまでそこにいた。春の海はまだ寒かった。
*8
私はあの海の日に二つの決心をした。一つは自分の仮面をつくることだ。素顔の上に貼り付けるための私の仮面だ。自分がしたいことをする時、つける仮面が見つからない場合につける仮面だ。この仮面の時、語尾は普通の女の子。仮面の名前は常磐春。私は自分の素顔を忘れてしまったけれど、自分の名前をつけたこの仮面がいつか素顔になるのかなと思った。折角の素顔候補の仮面ならもっと素敵にしようかと迷ったが、装ったり偽ったりする負担が一番少ないこの形が調度良いかなと思った。自分の名前の仮面をつけても、素顔のままでも可愛く見られる努力をこれからはしていこうと思った。
もう一つの決心は、恋愛関係を結び一緒にいる約束をした冬さんと分かれることだった。
「ごめんなさい冬さん、私、もうだめなの。」
この言葉を出すのに三時間かかった。会って話したいと私から言い出したのは何ヵ月ぶりだろう。彼も不穏な空気を感じとったみたいで、言われたくない言葉を遠ざけようとあらゆる手段で会話を核心から遠ざけた。やっとのことで出せたその言葉を出してからも長かった。
「何でそんなこと言うんだよ。安定した職につくために資格の勉強してるのも、将来のために貯金してるのも、全部お前のためだったんだぞ」
「そんなこと言われても…。私のためなんかじゃなくて、冬さんには自分の生きたいように生きてほしい。」
「俺は春のために生きてるんだよ。なのに春が俺をいらないって言うなんて、俺はどうすれば良いの?死ねってこと?」
「…そんなこと言ってない。死んでほしいわけないじゃない。」
「別に俺は生きてなくていい。春と一緒にいられればそれでいい。春がいなきゃ生きてる意味が無い。」
「でも私はもう、あなたと一緒にはいられない。」
「何でだよ。お互い一緒にいたいって思ってるなら俺達やり直せるよ。別れるなんて言うなよ。何でもするから別れるなんて言うなよ。」
「…ごめんね。」
彼は孤独になるまいと、泣きながら必死に言葉を尽くした。恋愛小説の世界にしか存在しないような台詞も沢山言われた。しかし彼は常日頃から恋愛っぽい言葉を使いたがる人で、最初はときめいていたその言葉はもう耳にとっくに慣れてしまった。私が別れようなんて言い出したものだから今日は愛の言葉の大盤振る舞いで、まるで映画のワンシーンみたいだと一瞬思った。思った後で冷静な自分に自己嫌悪した。自分のであるとはいえ、やはり仮面を経由して物事を見ているから他人事のように感じてしまうのだろう。はやく自分の仮面が素顔になってくれるといい。
「俺のどこがだめなのか言ってくれよ。全部直すよ。俺、変わるから。」
変わる。自分を変えるってことだとしたら、そんなに軽々しく言える言葉じゃない。自分を変えることがどんなに難しいか。この年齢になれば誰しも心の形はもう決まってきているのだから、自分を変えるなんて一回死ぬくらいの覚悟がないとそうそう変えられるものではない。自分がなかなか変えられないから私は仮面をかぶって、春は変身して、それでも自分に満足できなくて日々自分と戦っているのに。冬さんが死ぬ気で私と分かれたくないと思っているかどうかなんて、あんなに一緒にいたんだからもう分かっている。
それでも、自分の中の決心はあれほどつけていたのに、何回も心が揺れた。別れの言葉を出す方も辛いなんて言ったら身勝手だろうか。相手を傷付けると分かっているのだから、傷付ける言葉を吐くと自分の心にも傷が付く。だからといって自分も相手も傷付くまいと優しい言葉に逃げても、中途半端な言葉だと相手に伝わらない。角のある言葉は避けてしまっても、最後くらいできる限り私の言葉で会話しよう。相手が受け入れたくない言葉を届かせるために、私も一緒に傷付こう。
「もう俺のこと嫌いになったって言えよ。よく分かんないことごちゃごちゃ考えんの辛いから、別れたいなら嫌いって言えよ。」
「嫌いじゃないよ!ほんとに嫌いだったら別れようなんて言わないよ!」
「何だよそれ。でもお前はもう俺とやり直す気は無いんだろ?だったら楽に別れさせてくれよ。嫌いって言えよ。そうすれば別れる理由としては簡単で、楽だから。」
嫌いじゃない。完全に好きな気持ちが無くなった訳じゃない。でも別れようって言ったのは私で、耐えきれなくなったのも私で、そんな自分勝手をその言葉で受け入れてもらえるならば。
「…嫌い。私はもう冬さんのこと、嫌い。」
そう言ったら彼は声をあげて泣き出した。なりふり構わず激しく泣いた。息もまともにできていなかった。でも彼は自分が泣くことで精一杯で、私が今どうしているかなんて考える余裕は無いのだろう。彼ほどではないが私だって泣いていたのだ。辛いのはあなただけじゃない。泣いている私に気付いてほしい。彼にはそれは無理なことだと分かっていても、自分勝手が先に立つ。
冬さんは最後まで、私を受け止めて寄りかからせてくれなかったなあ。最後だからと思ってせっかく自分の仮面で自分の言葉を話してみたのに、私が言いたい言葉は聞いてもくれなかった。そんなことを考えてしまい、私は自己嫌悪でまた泣いた。傷付けてごめんなさい。受け止めてあげられなくてごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
こんなに心が痛くて、申し訳なくて、冬さんも私もお互い幸せになれれば良いと思うのに。私はもう冬さんのことは愛せません。それが一番、ごめんなさい。
*9
春は毎日疲れていた。生き霊か何かに憑かれているようだった。普段通りな時もあったが、ふとした拍子に遠くを見たり悲しい顔をしていたり、考え込んだりしている様子が見ていられなかった。俺は気の利いた言葉なんて何一つかけてやれず、色々な変身もしてみたがすべて空回り、結局普段通りの距離で隣にいることしかできなかった。しかしこの悲しい顔をさせる原因とはもう切れたんだ。この手の恋愛の傷は時間がたてば、癒えたくなくても癒えるもんだ。俺は何もできないけど、春が元気になるまでずっと隣にいてやろう。時々ハナに隣をとられそうになった。とりかえした。
あの海の日に分かったことがある。悔しいが、俺はどうやら春のことが好きらしい。自分で自分のことを好きになるだなんて、これはナルシストに分類されるのだろうか。背徳感のようなものも何やら感じるが良いのだろうか。いや、してはいけない恋だったとしても、もうこの心は止められない。どうせ止められないなら全力で走ってしまえ。恋はするものじゃなくて落ちるものだ。同じ人間だからって何だ。春は春、俺は俺だ。そもそも俺は元々、俺自身のことは嫌いだ。こんなに情けなくて頼りにならない男もそういない。自分に自信も無いし、生まれ変われるならもう自分には生まれない。でも春のことは嫌いじゃない。不器用で空回るのも、自分に自信が無くて思っていることを言えず自己嫌悪するのも、痛いほど共感する。それでも頑張る春が好きだ。自分自身の姿なら不甲斐なくて格好悪く見えるのだろうが、春が同じことをしても全くそんな風に見えないし、むしろ彼女が余計愛しくなってしまう。最近は無意識のうちに自分が勝手に恋する俺に変身していて困る。あいつは俺にどんな魔法をかけたんだ。これが恋なら恋とは本当に厄介だ。
付き合いたいとか手を繋ぎたいとか、そんな現実的な願望が現時点で俺にあるのかは分からない。先の話はひとまず置いておく。春が悲しい顔をした時にそばにいたい。悲しい顔をしている時だけじゃなくても、いつも隣にいたい。春とずっと一緒にいたい。
そんな心に気付いても春は今ここにいない。演劇部で発表講演会というものがあるらしく、最近夜遅くまでずっと稽古をしている。しんどいことがあってすぐなのによく頑張るなと思う。俺も見習おうといつもより気合を入れて野球をしたら、普段より良い結果を出せた。あまり人を褒めないピッチャーのあいつからも、今日の春はかっこよかったなんて言われた。たしかに今日の俺は我ながら格好良かった。あそこで三塁に送球できるなんて思わなかった。春のおかげかもなと思ったがそんな馬鹿な。きっと今日も夜遅くまで帰ってこないのだろう。早く帰ってこい春の馬鹿野郎と頭の中で文句を言った。
実際、恋のアタックとはどうすれば良いものなのだろう。薔薇の花束とアイラブユーだろうか。まさか。たとえば急に車道に出て僕は死にませんと言えば想いが通じるならば、俺も勇気を出してやってみても良い。校舎裏に呼び出して桜の下で告白するのは学校が違うから現実的ではない。桜ももうだいぶ散ってしまっている。そもそもそんなありきたりな舞台では俺の桜も散るだろう。ああ、ラブレターなんて思いついてしまった。したためてたまるか恥ずかしい。馬鹿か俺は。落ち着け、今の俺は相当あほだ。そもそも今の春は傷心中だ。失恋にも似た状況の今、春に想いを伝えるのは反則だろう。これ以上の混乱もさせたくない。ならば俺、どうする。抑えきれないこの感情をどの行動に移そうか。ピッチャーの友人と夕飯を食べている時に思い切って相談してみたが、相手の恋愛の話にいつの間にかすり替わっていた。彼の恋が相手の女性に届いたばかりなのだからまあ当然だ。彼は君が好きだとストレートに直球で勝負したらしい。意気地の無さを隠そうと、お前はカーブも得意だろなんて茶化した自分が情けない。
とりあえず春には俺に惚れてもらいたい。そうすれば相思相愛になって、お互い好きなら何とかなるだろう。恋は恋で忘れようとするのが人の性らしいから、そうすればすべてうまくいく。そうと決まれば全身全霊で恋しよう。俺にできる一番の変身をして、俺につけられる一番の仮面をつけてやる。一番格好良い俺を見せてやるから覚悟しろ。
しかし具体的にはどうしよう。まずは家を綺麗にしてみた。共同の場所のみだが、俺にできることなら何でもしたかった。春のためと思えば苦ではなくむしろ充実感すらあった。春は散らかし放題で、俺はなんでこんな奴を好きなんだろうかと思った。 片付けを一通り終えたら手が余った。時間もあったから、春の夕食を用意しておいてやろうと思った。冷蔵庫に何も無かったため、なけなしの金で買い物に行った。さて何をつくってやろう。あの嫌な彼氏のことなんて早く忘れて、嫌ってほど元気にさせてやりたい。金は無いが愛はある、なんて言葉が頭に一瞬浮かんだが無視をした。俺はそんな恥ずかしい言葉を思い浮かべる奴じゃなかったはずだ。
食材を探しに出たら、花屋が目に入ってしまった。薔薇の花束でアイラブユーが頭をかすめた。馬鹿な。しかし確認のために値段を見てみたら、涙が出るほど高かった。花の値段がこんなに高いなんて知らなかった。しかし花も生きているのだから考えてみたら当たり前だ。花も恋をするのだろうか。いや、落ち着こう。想いを伝えるのに本来お金はかからない。俺は俺のやり方でいこう。金のかからないやり方で。
そう思って食品売場に行ったら、冷凍食品の安売りの場所で七草粥のセットと目が合った。薔薇の花束の代わりの意味合いで、春の七草を連想した。七種類あれば薔薇にも勝てるさ。お粥って元気になりたい時に食べるやつだから調度良い。花言葉も七倍だ。お前にはやらんぞハナ。気分が乗ってきて料理中に春がいつもやっている癖を真似してしまった。我に返って今のは何の変身だと思った。
「ただいまでござる!」
わ、帰って来た。本当は玄関に迎えに行きたいくらいだが、恥ずかしいからそれはハナに譲ってやる。俺はその間に心臓をおさめておくから。
「あっなんか部屋きれいでござるね。殿が片付けてくれたんでござるか?」
「お、お前の散らかした後、信じらんないほど汚かったぞ。虫来るから片付けろよ」
なんで頭で思ってるのと違う言葉が口から出んだよ俺は。気の利いた言葉じゃなくても、お帰りとか、何でもいいから他に何かあったろ。
「あ、そうだこれ、春にあげるでござる。献上品でござる。」
彼女がそう言って俺にさし出したのは、信じられないが小さな花束だった。明るい色の数々の花の中には、一輪だが赤い薔薇の花も咲いていた。真っ赤だった。
「な、何だこれ、何で」
「演劇の稽古をみて頂いてる先生がお仕事で転勤することになってたのでござって。講演があるからお忙しい中来ていただいたりもしてたで候。明日本番だから今までありがとうございましたってお渡ししようと思ってたんだけど、転勤が延期になったの、拙者知らなくて。花束いらなくなっちゃったから持って帰ってきちゃった。いやあ失敬失敬。」
「いつもありがとうございますって渡せばいいだろ」
「理由も無く花束渡すなんて勇気無いでござるよー。切腹でござるか?こわいでござる。」
「いや待て、落ち着こう、お互いに。花束、俺になら良いのか、いや、そもそも何で俺に、」
「だって誰かにあげなきゃ花束もったいないでござりましょー?花束は高かったでござる。最近春のおかげで頑張れてるみたいなものだから、お礼つかまつり候!」
「お礼…?」
「左様!いつもありがとう。ほんとは春のために花束買うくらいでも全然やりすぎじゃないのに、この花束で御免。」
おいおいなんだよ、嘘だろ。急すぎるだろ。いつもありがとうだなんて俺の台詞だよ。取るなよ。お前敬語間違えてるよ。疲れてるのに無理するなよ。俺が言うはずだったんだよ。花束だって、俺が。
「で、そのコトコトいってるお鍋は何でごわすか?」
「あ、やべ、煮すぎた」
鍋のふたを開けた春に、これは何でごわすかと改めて訊かれた。今度の仮面はお相撲さんか。
「…七草粥。」
「七草粥?何ででごわすか?今日って七草粥の日でごわしましたっけ?」
何でなんて訊くな。もういいよ。煮すぎて水気が飛んでしまった。これはもう七草粥ではない。
「私お腹空いてたんでごわす。私もちょっともらうでごわす!」
「…ごわすごわすうるせえな。俺はもういらねえよ、こんなの。」
「えっ勿体ない!お相撲さんに怒られるでごわすよー?お粥なら今食べないと美味しくなくなっちゃうごわす。もらうごわす。」
「え、待てお前、そんなの!」
止めようとすると、つっぱりつっぱりと言いながら俺のお腹にぺちぺちと張り手をした。彼女はあっという間に七草粥をどんぶりによそい、いただきますと手を合わせた。おい待て、急いで食べようとしても、お前も猫舌なんだからまだ熱いだろ。
「熱っ!いでごわす」
ほら見ろ。いや、すまん。こんなはずじゃなかった。俺はだめな奴だな。不甲斐ない自分が情けない。
「…ごめんな。」
「何がでごわすー?熱いけど美味しいでごわすよー!さすが私達の七草、ごっつぁんです!」
そう言って彼女は屈託無く笑った。私達の七草。春の、七草か。馬鹿かお前は。お前は馬鹿か。
ああ、もうだめだ。俺はお前がやっぱり好きだ。
*10
演劇部講演会、本番の日。春も見に来てくれるという。両親からは見に行けない謝罪の電話を昨日受け取っていた。親の前だと子どもの仮面が私の顔から貼り付いて剥がれなくなってしまうから、正直その方が都合がいいかもしれない。仮面の上から二重に仮面をつけるのは難しい。会場が満員になったと先程誰かが知らせてくれた。春はちゃんと座れただろうか。
演目はシンデレラ。有名な作品こそ本物の演技力が試されるというのがこの演劇部の伝統的な考えだった。私の役は「第一シンデレラ」。シンデレラといっても物語の冒頭部分でみすぼらしい服を着て姉達にいじめられる、魔法がかかる前のシンデレラだ。主役であって主役ではなく、「第一シンデレラ」の「第一」はただの登場順である。実際のところ惨めな役だ。意地悪な姉達の方が舞台上の登場時間が長く、綺麗な衣装もある。つまりヒロインとして二番手の位置にいるのかすら怪しい。
主役の第二シンデレラは本物のお姫様のようだった。役を演じる演劇部部長のあの子は、私の目から見ても本当にすごかった。舞台上でシンデレラを演じる彼女は本物のシンデレラだった。もはや演技をしているというよりも彼女の身体にシンデレラの魂が下りてきているようだった。彼女は演じることに仮面を必要としないのだろう。どの役柄でもその役の魂を身体に落とせる彼女は外見も綺麗であり、どの演目でも主役だった。完璧な演技だけでなく、歌やダンスもできた。百点満点中で百点以上を取る演技だった。彼女がいるだけで華やかな存在感が舞台を彩った。たとえスポットライトが当たらなくても、彼女はどこでも主役になれた。
私はそんな彼女が羨ましかった。私は毎日仮面なんてつけているくせに、演技となると第一シンデレラの仮面はうまく顔にはまってくれなかった。第一シンデレラは私にははまり役だと言われていた。しかしある程度の演技までしかできず、百点にすらなかなか届かない。部長のような演技がしたいと思って毎日頑張って稽古した。しかし私はいつでも二番手で、時には二番手にすらなれなくて、不動の主役である部長にどうしようもなく嫉妬した。口に出せないような黒い感情も芽生えた。力不足のくせに嫉妬心だけは立派な自分が嫌だった。何かの役を演じる時には少しの間でも自分ではない人間になれるため、一心不乱に役に入り込もうとした。しかしどんなに頑張っても、私の演技は演技でしかなかった。
あとすこしで幕が上がる。衣装を着てお化粧もした。魔法がかかる前のシンデレラに変身するのだから、どちらかというと私の外見を汚す作業であった。外見だけであれ、自分ではない人が自分を変えてくれるなんて美容院と舞台くらいなものだ。私にとっては仮面をかぶるよりも変身するほうが難しい。今こそ全身に仮面をかぶろう。そう思って舞台への廊下を曲がると、男の人と大袈裟にぶつかってしまった。ごめんなさい大丈夫ですかと声をかけたら、彼が一瞬汚いものを見る目で私を見た。いえこちらこそごめんなさいと彼は顔に笑顔を貼り付けながら去った。私は私の外見を改めて鏡で見た。みすぼらしく汚い暗い顔をした女の子がそこにいた。私は自分がそんな格好をしていることが途端に恥ずかしくなった。こんな服は脱ぎ捨てたかったし、ぼさぼさの髪も櫛でとかしたかった。あの男の人に本当は私はこんな嫌な外見ではないのだと今すぐ言い訳したかった。しかし第一シンデレラの格好ではどんな美しい仮面をかぶっても言葉は通じないだろう。醜い外見とはもはや呪いだ。小手先のお洒落なんてきっと無意味なのに、そもそも第一シンデレラは髪飾りすら赤い布切れで作ったつぎはぎだ。こんな格好で今から舞台に上がることを考えると、なけなしの自尊心にも傷がつく。毎日頑張って稽古してその結果がこれだなんて、私をばかにするな。みすぼらしい外見が悔しくて泣きそうになったが、舞台に上がる顔になるために涙を堪えた。鏡をもう一度見ると、汚い外見の娘がひどい顔をしてつっ立っていた。こんなことなら私の方がまだましだと思った。
幕が上がった。スポットライトが私に当たって満員の観客が私を見た。嫌、やめて、見ないで。こんな汚い私を見ないで。もはや演技どころではなかった。今だけでも私は主役のシンデレラなんだから、いつも通り仮面をかぶって必死にシンデレラごっこをすればいい。しかし私は惨めで惨めで悔しくて、台本には無い泣き顔を作ってしまった。涙で湿った声もどうにもならず、声すら汚くなってしまったことが惨めさに拍車をかけた。「ああ、私にも綺麗なドレスがあれば、お城の舞踏会に行けるのに」大丈夫よシンデレラ。あなたはこれから魔法をかけてもらえて舞踏会にもちゃんと行ける。あなたばっかりずるいわよ、本当はこんな身なりのくせに。そんな事を考えてしまって、常磐春の心の黒さに落胆する。私がドレスを着て舞踏会に行っても、王子様はきっと私のことなど好きになってくれない。やっぱり私は第一シンデレラが羨ましい。あなたはドレスを着たからお姫様になれたわけではない。
「シンデレラ、あなたがお城の舞踏会に行きたいと願うなら、私はあなたに魔法をかけてあげましょう。」
「本当に?私でもお城の舞踏会に行けるの?」
「ええ。あなたがそれを望むなら。」
なりたい。シンデレラになりたい。シンデレラになりたい。
「お願い、私に魔法をかけて!」
言ってから頭が真っ白になった。そんな台詞は台本に無い。間違えた。
「私も舞踏会に行きたいのです」
と、前後と流れが繋がるように苦し紛れに言い直してみた。本番でセリフを間違えたのははじめてだった。必死に演技をする常磐春に、魔女は退場の魔法をかけてくれた。ぼわんと白い煙が出て私は奥へと引っ込んで、代わりにお姫様のシンデレラが舞台に出た。白いドレスと輝くティアラは誰の目にもきれいに映った。本物のシンデレラの美しさに客席がわっとなった。私はやはり引き立て役にすぎないのだなと痛感して涙が出た。
「まあ、これが私だなんて信じられない!」
シンデレラが言った。
本番を終え、私は演劇部全員に今日のすべての失敗をひたすら謝った。しかし謝るたびに本番の方がずっと良かったとほめてもらった。まるで本物のシンデレラがそこにいるみたいでかわいそうだった、らしい。しかし私にはシンデレラが下りてきてくれた記憶は無かったし、台詞間違いは台詞間違いでしかなく、今日は演技らしい演技はひとつもできなかった。自画自賛なんてできるわけがない。あの時の私はどんな私よりも常磐春だったのに。
着替えを終え、汚れたお化粧を落とした。鏡を見ると私は常磐春の姿の外見をしていた。自分に戻ってしまうと第一シンデレラにも魅力があるように思えた。あんなにぼろぼろの服を着ていても赤い布切れをリボン代わりにお洒落する、そのいじらしさを可愛いと思った。私はまだ魔法にかかっていたくて、赤い髪飾りをつけて春に来てくれたお礼を言いに行った。春は裏口の近くまで来てくれていた。
「わざわざお城から来ていただけるなんて光栄ですわ」
私はシンデレラの言葉を口にした。すると春はわずかに口元をゆがめてふっと笑った。
「素敵なお嬢様を今宵の舞踏会にお誘いに参りました」
春が城からの使者の台詞を言い終わると、私達はお互い顔を見合わせて笑いあった。そうして私はやっと常磐春に帰った。仮面はまだシンデレラでいよう、今日が終わるまでは。
「ごめんあそばせ、これから打ち上げなのですわ。」
「知ってる。舞台、良かった。お疲れ様。」
「舞台よかったでしょう?主役の子、今日も素敵でしたし!」
「ああ、あのシンデレラはうまかったな。でもお前も主役だろ?」
「私?私はだめ。今日なんて台詞も間違えちゃったの。」
「え、間違えたの?どこを?全然気付かなかった。それに俺、春のシンデレラの方が好きだ。その髪飾りも似合ってるよ。」
…うそ。あの子の方が良いに決まってる。春独自の目線のその感想が嘘だとは思わないが、心がそれを信じてくれない。春にこそあんな姿を見られたくなかった。ドレスを着た綺麗なお姫様のシンデレラの方が良いに決まってる。シンデレラ自身だってお姫様の自分の方が好きだろう。私だってお姫様になりたい。私は私でいたくない。
「…ねえ春、春は誰かになりたいなって思うこと、あるのかしら?」
「俺?そうだな、あるよ。」
「そうなの?誰にでしょうか?」
そう私が訊くと春は、笑うなよと照れくさそうにして言った。
「俺は、お前みたいな人になりたい」
*11
自分は春が好きだった。自分が嫌われてはいないだろうという自負もあった。もしかして春は恋愛感情で自分のことを好きでいてくれているのだろうかと期待し、もしもそうだとしたらとても嬉しいななんて考えた。本当に自分と同じ人間なのか疑うほど、春は素敵な人だった。しかし春は恋愛目線で自分を見てはいないだろう。自分が春なら自分のことは好きにならない。本来は自分自身に恋するという身の丈に合った恋愛であり、自分と最もつりあう相手であるはずなのにちっともそう思えない。そもそも自分に恋することには壁がある。家族に対して本気の恋愛感情を抱くのと同じ種類の抵抗感が立ちはだかる。自分はともかく、春がそれを乗り越えてまで自分を恋愛的に好きになってくれるなんて考えられない。そうと分かっていても心は浮つく。そのくせ自分は春との恋愛について思考回路が回るばかりで先に進めない。それを真面目と言えば聞こえはいいが、こんなの要するに恋愛が失敗した時に心が砕かれることを恐れるただの臆病だ。うだうだ悩むことで答えが見つかることなど今まで一度も無かった。しかし自分の性分はどうにもならず、自問自答は止まらない。
たとえば春が本気になってくれたとして、自分と春はどのような恋愛をするのだろう。夕飯の献立で喧嘩する日は来るだろうか。たとえば春と結婚するなんてことになったとする。まずお互い名前は常磐春のままだ。もし子どもが産まれたらどうなるのだろう。自分と自分の間でできた子どもは三人目の自分だろうか。春という名前は付けないだろうけれど、名前が違えば他人になるのか。できればわが子は自分ではない存在であってほしい。第一この世に自分が沢山いるなんて不自然だ。ああ、そろそろ頭がこんがらがってきた。同じ人間であるとかそういうことは、そういえばどうでもいいことなんだ。一緒にいたい人と一緒にいるなら、その先にどんな未来があっても何とかなるだろう。
しかしそんなことを考えても無駄だ。春が自分を好きだなんて思えない。たしかに一緒に過ごしている中で、相手が自分を好きなのかもしれないと感じる瞬間はたまにある。しかしそれは自分が恋心を期待しているからこそ、何も無い場所から恋心を見出して勘違いしてしまっているだけだろう。特に今は冬と別れた心の穴をこれからは誰で埋めていくのだろうかと、春を特別に意識する時期である。春は自分の恋の相手がいない今、ひとりの淋しさに心が沈まないように最も身近な存在と近くにいたいだけなのだろう。その最も身近な存在が自分とはいえ異性であるから、その間に恋愛の香りがするような気がしているだけだ。都合の良い解釈に自惚れるのもたいがいにしよう。毎日春と一緒にいられるこの現状で十分に満足だ。今の関係が変に壊れるくらいなら現状維持でいい。自分はいつも通りの顔をしていよう。こんな時こそ仮面だ。恋愛についてなど何も考えていない仮面をかぶろう。相手に恋愛感情を期待する感情は仮面の下に隠しておこう。
そうだ、仮面と変身だ。他人に善く見せるその術もお互い自分にはつかえない。私たちはお互いのことをもう知ってしまっている。正体がばれてしまっているのだからもう虚勢を張る必要も、見せたくない自分を隠す必要も無い。春の存在は本当に大事だ。仮面と変身で良い自分を見せて嫌われないようにしよう。相手がつかえて自分がつかえない技術だって、そのためになら習得しよう。そうまでして自分相手にすら自分を隠すのは、防御壁無しに自分を表現することが怖いからだ。
「春様、春様は淋しい時ってありますか?友達に対して、相手もちゃんと自分のこと友達って思ってくれてるのか不安な時ってありますか?誰かに一緒にいてほしくなったりするのですか?」
「おいおい、いきなりどうした。」
「もし春様が淋しかったらずっと一緒にいてあげようと思いまして。誰かと一緒にいなきゃ淋しいなら、自分ふたりで一緒にいれば淋しくありません。人間関係というものは結ぶのも保つのもとても大変なことです。人間は今日も本当にお疲れ様です。でも私と春には元々同じ人間だっていう絆があります。私たちなら絶対に大丈夫です。安定した関係を築けます。」
「…まあな。じゃ、春が淋しい時は俺でよければ一緒にいてやる」
「俺でよければなんて、何で言うのですか?」
「心にはきっと他人じゃなきゃ埋められない場所がある。春の心は俺だけじゃきっと満たされないと思う」
「…そうですか。では私も春の心を満たしてあげられないのですね。」
「いや、俺はもうあんまりお前のこと自分だと思ってないからそうでもない」
「だとしたら私は、春に何をしてあげられるのでしょう?」
「お前は今何の仮面なんだ。不安なとき夜に色々考えるのやめたほうがいいぞ。俺もよくやるけど良いこと無いから寝た方がいい。お前最近大変だったから疲れてんだろ。早く寝て早く元気になれ。俺も今日は早く寝る。」
「私は春様を信じる宗教の信者です」
「そんなカルト宗教やめろ。神がお怒りだ。」
「わかりました。すべては主の御心のままに。アーメン。」
「やめろって。宗教を馬鹿にするな。天罰を下すぞ。」
自分同士という絆は強くて安心できる。いつまでも春の近くにいる理由としては十分だ。しかし自分と春はずっと自分同士でいられるのだろうか。そもそも二つの身体と二つの心が別々にある今この現状で、自分と春は同じ人間だと言えるのだろうか。ましてや性別が異なり、異なる生活環境で生活している。いくら心の構造や価値観が同じであっても、このまま時間が経ってそれぞれの経験や記憶が積み重なっていったら、ふたりの違いはどんどん大きくなるだろう。今は「ふたりの自分」でいるが、いつかきっと「男性女性の似ている二人」になってしまう時が来る。男女二人の他人になって両想いになる未来も不甲斐ない自分にはきっと無理だ。自分同士であるという安定した絆を長く持ち続けるためには、一方通行の恋愛感情などきっと邪魔なものだろう。そう思うのに。
春とずっと自分でいたいし、春と今すぐ他人になりたい。人間とはどうして他人がいなければ生きられない動物なのだろう。そう思って春を見たら春と目が合った。おやすみと同時に言い、声が同時だったことに同時に驚き、ふたりでそれを笑いあったら自分の心が満ちてきた。春の心も今、同じように満ちていればいいのに。
*12
春は曙に、春眠暁を覚えず夢を見た。雨が春らしく降る明け方のことだった。
男女ふたりの自分がいることが普通の世界の夢だった。なのでそこでも春がいた。一人の人間には必ずもう一人の異性の自分がいた。その世界では、同じ人間は二人もいらないという考え方が普通であった。そのため優れた方の自分だけしか社会進出が許されない。優れた自分に最大限の社会貢献をしてもらうため、劣った方はサポートの役割のみに徹する。それが二人の自分がいる夢の世界において、最も文明が発展する社会構造であり、最も人間が幸せに生きられる仕組みであると考えられていた。長い歴史の上に築かれたこのような仕組みがこの世界での常識であり、普通だった。実際、毎日の衣食住には困っていなかったし、生活を便利にする工夫は日常の細部まで行き渡っていた。文化や娯楽も豊かであった。
優劣試験は二十歳の誕生日に行われた。結果、私は春より優れているらしい。私の方が優れているなんてそんなはずがない。社会は私達の何を見たんだろう。 男の私には野球選手になりたいという夢があった。物心ついたときから今までずっと続けている野球を、将来も続けていくことを夢見ていた。彼は才能の無い努力家だった。華のあるスーパープレーはできなかったが、彼の野球は正確で堅実だった。地道な自助努力だけではやはり天才肌の選手に敵わない。しかし彼は誰よりも野球を愛していた。野球馬鹿だとひやかされても光栄だと逆に喜んだ。私はそんな彼が自分であることを誇りに思い、彼に憧れた。今までずっと彼と自分は比べられながら生きてきた。小さな頃から劣等感を育ててきたのは私だった。
しかし彼の夢は破れた。全力で野球ができなくなった彼はもう彼ではなくなるだろう。自分の人生のために自身の人生を諦めることになるだなんて。私だって影になる覚悟はできていたのに。
「お前がすごい奴だなんて分かってる。分かってるけどさ、なんで…何で俺じゃだめなんだよ」
野球のいつものユニフォームを着ている彼が言った。私は何もすごくない。できることなら私が影になりたい。しかし私にはどうにもならない。身体中にぶら下がっている仮面が重くて身動きもうまくとれない。顔も何かの仮面で隠れていて、私は今どの仮面の目でものを見ているかも分からない。
「何のために今まであんなに頑張ってきたんだよ。俺の人生は無駄だったのかよ。」
春のグローブがいつの間にバットに変わっていた。ホームランを打つためのバットだろう。彼の背番号はきっと四番になっている。
「お願いしますわ、春。野球を続けてくださいまし。私の将来なんていいですから今まで通り、どうか野球をしてください。私も春の野球を見られなくなるのは嫌でございます。」
私のどこかの仮面の一つが勝手にそう言った。
「何を言っているのか訳が分からないな。続けて何になるんだい。もうプロ野球には入れないし、今のチームにもいられないじゃないか。」
彼は正義のヒーローの姿でそう言った。声だけは春のままだった。
「しょうがないじゃないですか。私の方があなたより優秀なのです。ゆ、う、しゅ、う。分かりますか?あなたがこれから影になるのは私に責任を押し付けているだけです。責任転嫁という言葉をご存知ですか?あなたが影になってくれたお陰で私は私の人生を生きられるのですから今回は見逃しますが、これ以上の暴言は先生に言いつけますよ?」
そんなことを言うのは私のどの口だ。そんな仮面はつけた覚えが無い。
「異議あり!その発言は私を大変侮辱しています。毎日やらされている勉強をただやっているような人間が言うにはあまりに証拠が不十分です。夢も無い人間に何も言う資格はありません。弁護側は将来の夢があることの証拠の提示を要請します!」
それを言われて、私の沢山ある口がすべて閉じた。どの口をもってしても私には夢があるなんて言えなかった。こんなにも夢に向かって頑張っている相手に対して、夢を口にする勇気が無かった。ただの憧れのような漠然とした私の夢を、夢と言う勇気も無かった。一匹の胡蝶が申し合わせたようにそこを歩いて通った。
「無いのかなぁ。怒らないから言ってごらん?はい、あーんって口開けて。あーん。」
「あーいやだ!こういうのって人権侵害っていうのよねぇ。こういう相手には何言ったって無駄。黙秘よ、黙秘。」
「はっはっは、これは面白いことを云う。口に出せない夢が叶ったためしは古今東西かつてない。度胸のない夢ほど価値の無い宝はない。それでも夢見るなんて結構結構こけこっこう。叶わないまままた明日、ときたもんだ。」
「うふふ、嫌ねスティーブったら。野球選手なんてまさか本気で目指しているわけじゃないでしょう?野球選手になりたいって言えば格好良い男になれるから言ってるだけよね?あなたって本当にお馬鹿さん。才能も無いのに頑張るなんてどうかしてるわ。野球以外にやりたいことが無いのを認めるのが嫌なのよねー?野球を目指すには才能が無さ過ぎる自分を認めるのが嫌な気持ちはとっても、ええ、私とってもよく分かるの。でもそれは私のせいじゃないわよね。責任転嫁しないでってさっき言ったじゃない。いけない子ね、お仕置きされたいの?あらお子様相手に言い過ぎちゃったかしら、泣いちゃったらごめんねぇ?」
「お仕置きが必要なのはそっちだろう。身体にこんなに仮面ばかりつけてけしからん。こっちに来なさい、おじさんが一枚一枚丁寧に剥がしてあげるから。どうせ中身の無い空っぽなんだろう。もしかして身体も仮面でできてるんじゃないか?」
春は狼になってこちらに寄ってきた。これだから男は。
「何言ってるの、あなた痴漢?お父様の権力で明日から無職にするわよ。将来の見えない野球をきっぱり辞めさせてあげるんだから感謝して欲しいくらいだわ。これを機に少しはやるべきことをやってみたら?」
「ああん?人にどう見えるかばっかり気にしてやりたいこともできない人間が何言ってんだコラ、ぶっ殺されてえか!」
「えー、いつの時代もつよがり男は居直りやすい。惚れた女に逃げられやすい。そんな気持ちを胸に、心をこめてこの一曲。聴いて下さい。『居直り情緒春景色』。」
こんな茶番劇はもう止めたい。茶番のくせに受け入れたくない自分を受け入れることはなんて辛いことだろう。ハナが立派なライオンになってひとつ吠えてみていたが、どうもしっくりこなかったようだ。そうしてハナは犬神になった。
「何よ、だめな方の私のくせに!」
ついにそんな言葉さえ口から出た。出したくなくても止まらない。まるで自分の口ではないみたいだ。
「俺が駄目なんじゃない、お前が駄目なんだ。お前が駄目だから俺まで駄目になったんだ!お前のせいだ!」
「だから何?あなたが駄目なことには代わり無いんでしょ?野球の試合、あなたのエラーで負けることもあったじゃない。あんまり駄目にならないでくれる?私まで駄目だと思われるじゃない。」
「駄目で何が悪いんだ!今度生まれて来るときには絶対お前なんかに生まれねえ!」
「私だってあなたと同じ人間だなんて嫌よ!あなたなんて私じゃない!」
「うるせえ!お前なんて大嫌いだ!」
「偽者のくせに何様なの?影なんだから黙ってて!本当の自分は私なのよ!」
私こそ本物の常磐春よ。最後にそう叫んで私は泣いた。暗い顔で後ろを向いてしまった彼もおそらく泣いているんだろう。彼の姿はどんどん黒へと変身し、地面にべたりとへばりつき、私の足元にくっついて離れなくなった。そうして春は本物の影になってしまった。
目が覚めた時、朝日に照らされた私の影が儚く蒲団の上にあった。慌てて起きて春がいるか確かめたら春はちゃんとそこにいた。春も儚い自分の影を持っていた。春は眠そうに目をこすりながら、どうした怖い夢でも見たかと言って、私の涙もそっとぬぐった。私はいつから泣いていたんだろう。夢の中の私達も常磐春の一部だったのだろうか。悪夢だった。
*13
朝起きて分かったことがある。俺はどうやら今日消える。自分の寿命が分かるとはこういうことだろうか。消えたくないがこれは消えるなと思った。目が覚めたら消えていたなんて事にならなかったのは日頃の行いが良いせいだろう。最期はやはり春と一緒にいたいと血圧の低い頭で考えて、学校から帰ってきたら海に行こうと誘ってみた。じゃあお弁当つくるねという返事がゆっくりと返ってきた。朝が弱くても春は男の自分がいなくなることが分かっているのだろう。そのお弁当が夕飯になることも彼女はきっと知っている。
最期の一日と分かっていても俺は普段の生活をいつもと同じように過ごした。何に変身をするまでもなく、今日は最期の日の俺なのだ。今夜消えてしまう目で世界を見ているからか、目に映る日常はいつもと違う風景に見えた。野球だっていつも通り全力投球して、グローブに勢いよく飛んでくる球に手を痺れさせた。するとチーム内全力対決を監督がいきなり言い始めた。まるで俺が今日消えてしまうことを知っているかのようだ。部内エースのバッテリー、つまり俺達とレギュラーのバッター選手との勝負だ。バッターボックスに立っていない選手の奴らは全力で試合と同じポジションで守備につく。俺達は一人ひとり、いつも通り三振をとっていった。チームメイトにだってそう易々打たれはしない。俺達は良いバッテリーだった。三振をとる度にピッチャーのあいつは毎回飽きもせず最高の笑顔をした。伝統として、俺達に最後に挑戦するのは四番だった。カウントがツースリーになり、人生最期の日にこんな勝負になるなんて運命とは本当にあるんだなと思った。最後の一球にサインはいらない。こういう時に俺達が投げる球なんて、バッテリーを組んだ時から決まっていた。ど真ん中の直球ストレート、全身全霊の全力投球。俺達がそんな安直な作戦を取るくらいにはその一球に自信があり、作戦と呼べないような作戦をとってしまうのは、俺達がそういう野球が好きだったからだ。戦法を知られていたって四番を打ち取る自信もある。チーム全員が本気の勝負を見守った。投げる前にあいつが俺を見た。俺もあいつを見た。その時ふと野球をやっていてよかったと心から思った。あいつはにこっと笑ってから、最高の一球を投げた。球は四番に打たれ、空の上に高く打ちあがり、守備の外野がグローブにぼすっと受けとめた。ああ、最高のチームだ。全員が適材適所のポジションで、自分にできることに全力で、できないことはチームで補う。俺は口に出せないありがとうを心の中で何回も言った。練習を終えてからいつもより大きな声でみんなにお疲れ様と声をかけた。キャッチャーの彼との別れは辛かった。彼も俺が今日最期だと分かっているかのように、お前は最高の捕手だなんて突然言い出した。ありがとうだとか、お前なら野球も恋愛もみんな大丈夫だとか、言わなくても分かりきったそんなことが口から出てしまいそうになった。彼とはただ一言いつも通り、また明日なと言って別れた。明日からは誰がお前の球を受けるんだろう。俺はお前とバッテリーが組めてよかった。そんなことを考えながら、柄にも無く帰り道にひとりで泣いた。
家に帰るとハナは玄関まで俺を迎えに来てくれた。尻尾をぶんぶん振りながらぱっちりと眼を開けて澄んだ瞳で俺をみつめた。いつもより目が潤いを持っているように思える。犬も涙を流すとしたら、ハナは俺のために泣いてくれるのだろうか。春はお弁当をつくり終えたところだった。手がかかっていることは台所の散らかり方からも明らかだ。いいよそんなにしてくれなくて。春には春の生活があるだろ。
「静粛に。お弁当の完成時刻を迎えました。これより消失へのカウントダウンを開始します。」
「おい裁判官、ブラックジョークも大概にしろ。」
「春の帰りがあと二時間早ければ卵がもう一つ安く買えました。被告をこれからも生き残る刑に処す。」
「なんてことだ。恭悦至極にございます。」
これから海に消えに行くというのに春も俺もいつも通りだった。消失の実感は足りていなかったが、たとえば無理して明るくしていようなんてことは全く考えていなかった。強いて言えば好きな人が目の前にいる緊張感はあったが、それも踏まえていつも通りだ。歩いていると以前ふたりでパンチパーマごっこをした桜並木を通った。青々しい葉桜は紺色の空によく映えた。海に行ったらもう夕陽は沈んでいて、名残の橙色が海と空に少しだけ残っていた。月が出ていて少しだけなら星も見える。晴れてよかった。
「前来た時はお前、あの寒い奴と付き合ってたんだな」
「…そうだね。」
おお、話題選択に失敗した。まあいい最後だ。今は何をしてもきっと唐突じゃない。そろそろ消えるんだから少しくらい血迷ったことを言ってしまっても大目に見てくれるだろう。言いたいことは全部言って、やり残す事無く消えてしまおう。
「今度は変な男につかまるなよ。自己嫌悪ばっかりの恋なんてするんじゃねえ。好きな人を好きでいる自分まで好きになっちゃうような奴を好きになれ。」
「え?何ですか先生、もう一回言ってください」
「うるせえ!こっちは最後だからやっと言えてんだよ!言うこと考えてきたんだから一回でちゃんと聞きとれ!恥ずかしいこと二回も言わせんな馬鹿野郎!」
「ちょ、どうしたんですか先生」
「お前は自分で思ってるよりすげえ奴なんだよ!もっと自分を客観的に見ろ!自分を輝かせられる場所に行け!人生なんて元々辛いんだからやりたくないことなら我慢しないで辞めちまえ!」
春は頭の上に疑問符が乗っている。ちなみに俺の頭にも同じように乗っている。俺はあと何が言いたかったんだっけ?
「私も今日は質問があります。先生、いいですか?」
おいちょっと待てまだ途中だ。お前自分のことしか考えてないだろ。
「えっと、先生が消えるのって死んじゃうってことですか?」
「…俺もよく分からん。少なくともこの身体は無くなると思う」「死なないでください。自分の半分が死ぬなんて嫌です。」
「死なないよ。俺は春の心の中でずっと生きてる。」
「何でそんなにありきたりな事を言うんですか?小説じゃないんだから真面目に答えてください」
「俺はいつでも真面目だよ。消えたくないから色々考えたんだ。俺は春の心の中でなら生きられる。俺のことを思い出して心に思い浮かべてくれたら俺はそこにいる。もともと一人の人間だったんだから、お前の心に入っても俺は別人にはならないだろ。」
「…先生、よく分かりません。」
「無理して心に住まわせてくれなくていいんだ。でもお前の心の中の世界なんだから何を思ってもお前の自由だ。もし俺に消えて欲しくないって思ってくれるなら、春なら俺を生かしてくれる。春ならきっと何でもできるよ。お前は常盤春の世界の神様なんだから。」
あ、言いたいことが一つ言えた。春は分からない顔をしているがまあいい。あとは何を言おうとしてたんだっけ。今消えたら絶対に悔いが残る。やり残したことだらけの中で、それでも悔いを遺すまいと頭を使って考えてきたのに。思い出そうと色々考えていたらお腹がなった。野球の後でお腹はぺこぺこだった。春がお弁当を勧めてくれた。ありがとう、いただきます。おいしいかなんていつもは訊いてこないのに今はどんな仮面をかぶったんだ。心配しなくてもおいしいよ。俺達の好物ばかり揃えてくれて、肉も多めにしてくれて、最高の最期の晩餐だ。だがお前、なんできのこを入れたんだ。お前だって苦手なはずで、今まで一回も俺達の食卓に上ったことが無かったのにどういうつもりだ。
実は遺書を書いてきていた。ここで言いたい事もしたためてきた。何を言うか忘れてしまったからとても読み返したいが恥ずかしい。書いているうちに気分が乗ってきて今までの思い出なんかも書いてしまった。春と野球のことくらいしか書いていないだろうが、文体は目も当てられない程格好つけているだろう。最終行はたしか「あんな最後になるなんて思わなかった。ありがとう。」だった。最後は予測もできないほど格好良く消えたいとでも思っていたのだろう。あんなのアイラブユーが書いていないだけのただのラブレターだ。死ぬ前なんだから格好つけて当たり前だろう。しかしあの遺書は今すぐにでも燃やしたい。
「ごめん、お前に言いたい事まだあったんだけど全部忘れた。」
「いいよ私もだから。特別なことを言わなくても最後まで一緒なら、それで。」
「そういえば、はじめてお前に会った時は春のことを仮面をかぶる人だと思ってたんだ。でも本当はそうじゃなくて、仮面をかぶりたいのにうまくかぶれない人だって最近気付いた。あんまり無理すんなよな。」
「何それ、頑張ってかぶってるんだからそういうこと言わないでよ。最近は仮面の種類も増やしてみたの。アイドル歌手とか警察官とか、あと総理大臣秘書でしょ、バスガイド、農家の方、宇宙飛行士…」
「そんなに増やしてどうすんだよ。だから無理すんなって。」
「無理じゃなくて楽しいからやってるの。ねえ、春は今までのどの仮面が一番良かった?」
「そうだなあ色々良かったよ、馬鹿みたいで。でも俺としては、仮面つけたいのにあんまりうまくつけられなくて、へこんでる時のお前が一番だと思うよ。」
「…意地悪。」
「そういえば今は何の仮面なんだ?」
すると彼女は人差し指を口許に当てて、色めいた声で秘密と言った。これだから女というやつは。俺は警察官なんかも見てみたかったけどなと言ったら、うるさい逮捕するわよと言われた。
「あ、悪い、そろそろだ。」
「え、え、消えちゃうの?」
「ああ。無理すんなよ、自分を大切にな。元気で。」
お身体御自愛下さいねと付け足したら馬鹿じゃないのと言われた。野球選手になりたいと思って生きてきた今日までの人生で、俺は何になれたんだろう。死の実感は最後までわかなかった。
「春ありがとう、こんな私でごめんね」
そんな顔するなよ、最後に春に笑ってほしい。そうすると言わないで良いと思っていた言葉が出てきてしまった。
「もっと自分に自信持て。どんなお前も大好きだ。」
春は涙を流しながら笑ってくれた。こんな最後になるなんて思わなかった。嬉しくて泣きそうになった。この涙が流れる前に俺の身体は消えてくれるだろう。
*14
春は本当に消えてしまった。もういなくなってしまったことは心も理解していたが、やはり行く先々で春を探してしまった。男女の双子を羨ましく思ったり、クローン技術の本に手が伸びたりした。あまりにさみしくなってしまって、春は声の出ない透明人間になってしまっただけだと思い込んでみた。しかしそんな下らない現実逃避では少しも心は安らがなかった。ハナは春の帰りを待っているのか、気付けばいつも玄関にいた。街のどこかから八十年代の名曲が懐かしく流れた。私の心を攻撃する曲名のその曲は、同時に優しいメロディーで私の心の中に沁みていった。春に会いたいと心から思うのに。あの時同じ花を見て、美しいと言ったふたりの心と心が、今はもう通わない。
春の痕跡はどこにもなかった。春の気配を感じても、その常盤春の気配はよく確かめるとすべて私のものだった。グローブはどこを探しても見当たらなかった。きっと春の一部だったのだろう。居間の花瓶に活けてあった私の花束も消えていた。持って行ってくれたのだろうか、きっともう萎れていたのに。あまりに春が跡形もなく綺麗に消えてしまったので、私は今日までの日記をつけて春がいた存在証明をつくろうと思った。様々なことを沢山書いたのに、登場人物は春と私と冬さんくらいなもので、本当に自分のことしか考えていない私が嫌になった。家族も友達もみんな、毎日こんなに私を支えてくれているのに。
鏡を見た時に常盤春が鏡に映っていることに気付いた。私は女の姿をしていた。今鏡に映った私の顔にはどんな仮面がついているんだろう。毎日見ている自分の姿の中にも春を探した。いるようでもあり、いないようでもあった。鏡の中の私に、ためしに春と呼んでみた。鏡の中の私も私を春と呼んだ。鏡の中の私は誰を呼んだのだろう。私だろうか。私とは誰だろう。なんだか混乱してきて、私は何をしているんだろうと思った。何も分からない事は悲しいことなんだと思った。もう春はいないことが辛かった。鏡の中の私が、私の目から涙が出ていることを泣きながら教えてくれた。顔が赤くなっていることや少し鼻水まで出ていることも私に懸命に伝えていた。せめて鏡の私には泣き止んでほしくて泣かないでと声をかけたら、鏡の私に泣かないでと言われた。私だって泣きたくて泣いてるんじゃない。私と鏡がそう言って目を閉じたのは同時だった。
今日からハナを春と呼ぼうかと血迷った。元気付けようとしてくれているハナを見たら途端にハナに申し訳なくなった。ごめんねと言ってハナの頭を撫でながらも涙が止まらなかった。この涙はどの仮面の涙だろう。前にこんな風に泣いていたら、春に俺の仮面をつけてみろと言われたことがあった。私は春の仮面をつけようとしてみたが、どうしてもうまくできなかった。そういえば私の心の中でなら生きられると春は言っていた。そういえば私は神様だったっけ。そうでしょ、春?そう心の中にいる自分の春に呼びかけてみた。そうすると春の声が心から聞こえる気がした。そこにいるのか聞いてみると、いるよと頭に言葉が浮かんだ。頭の中に春が来た。
「ばか。探した。」
馬鹿はお前だ。春の心でなら生きられるって言ったろ。
「…いるならいいの。消えてないならそれでいいの。よかった。ここにいてくれてありがとう。」
こちらこそ、また会えてよかった。会いたいなら俺はいつでもここにいる。
「いるならいいって言ったでしょ。なんだか気持ち悪いから春からはもう私に声かけないでね。私は私で生きていくから。」
そう声をかけたら春はひどいなと言って笑うだろうか。春に身体が無いなら、本当に会おうとすれば私は二重人格になるしかない。しかしそうなっても身体が一つしかないなら私は一人だ。私の心の中に何人増えても一人の孤独感はきっと克服できないだろう。ためしに春の姿で、春の声で話す精巧な人形をつくってみようかなんて考えたが、私らしくないので辞めた。私が自立するためならそこまでしなくても、春が心にいてくれる安心感だけで十分だ。
顔を洗って窓を開けた。気付けばいつの間にか春ではなくなっていた。もう薄着で外に出ても大丈夫だろう。
もうすぐ、夏が来る。
初めて書いた小説なので読み苦しい文章が多く、申し訳ありませんでした。
ご感想をいただけたら心から嬉しいです。