ある神の子の最終決意 (1)
その晩朱善がやってきて、とんでもない報告をしてきた。
「大江山に祐喜がいる?」
「そうだ。『大江山』のお姉様は『柚子』を屈服させ、信仰を取り戻させることで『大紅葉山』を稲荷の世に戻そうとされている」
雨の日、祐喜は『あぶらあげ』を呼びそれに彼は答えた。
あれは銀朱による策だったのだ。
このままでは祐喜は真実を得ずに『紅葉山』と対峙することになる。
「だめよ、そんなのは、だめだわ。祐喜は銀朱によってじゃなくて、『あぶらあげ』によって信仰を取り戻すべきなの」
確固たる意志を持って朱善に語る柚香に、どこか冷静さを持ったまま朱善は答える。
「『大江山』としては決して間違った行動ではないのだ。むしろ『大紅葉山』のなんたるかを理解した方法だろう」
「それは、そうかも知れないけれど、『大江山』銀朱だって稲荷神でしょ、ひとの子の祐喜になんてことするの」
「それは私も、『大江山』のお姉様に申し上げた」
「それなのに、分かってくれなかったの?」
「……すまない、私の説得は『大江山』のお姉様には通じなかった」
「そうよね……分かってくれないでしょうね」
柚香の一言が朱善にはとても引っかかった。まるで説得に手を抜いたと言われたように感じたのだ。
それだけは否定せねばならない。
「私は精一杯抗議した。だが意志は固かった。柚香が『大紅葉山』が思うのと同じように『大江山』のお姉様も『大紅葉山』を求めておられるのだ」
「分かってる」
柚香は朱善が説得を怠ったとは思いたくない。
それに稲荷には稲荷の事情があることは知っている。
柚香は冷静になろうと努めるために、淡泊な返答しか返せないのだ。
朱善は幼い頃から柚香と稲荷の世の架け橋になってくれたし、同盟者ではあるがまだ彼がどちら側につくかどうかは、聞けていない。
彼が『稲荷側』の存在ならば、来るときが来たと思うしかない。
そして、責めることもできない。
「柚香」
「何?」
「どうして私の目を見ない」
こんな時に何を言っているのか、柚香は眉間を歪めて朱善を見た。
「今の私と朱善の関係で、これ以上どう反応しろっていうの?」
柚香はつい声を荒げてしまった。
「柚香……」
朱善も柚香の気持ちが不安で激しく揺れているのは分かっていた。
自分の心にあるこの愛の形を、稲荷神として貫いていいものなのか、朱善自身もはっきりと見えていなかった。
その小さな迷いは、神経過敏になっている柚香にはすぐに伝わってきた。
「ごめんね。言い方きつかったね。それで『大江山』のどこに祐喜はいるの?」
「本殿にいる。一ノ宮だ」
すぐにでも大江山へ向かい、祐喜を助け出さねばならない。
だがその足を鈍らせるのは、朱善が説明する『大江山』の実体である。
稲荷の世においての『大江山』というものは非常に堅牢である。
原生林を山腹に抱く『三ノ宮』、周辺高地を監視するように広がる『二ノ宮』笹原を頂上に冠する稜線『一ノ宮』。
その全てを統治する稲荷神銀朱は侍従茂野、そして知略の山ノ狐、荒くれの妖狐を抱え、鬼、物の怪を退ける強靱な山ノ狐たちを抱えているという。
山の規模は『紅葉山』と比べ小さい。
小さいからこそ、包囲網を敷かれれば、すぐに捕らわれてしまう。
「作戦を練らねばならない。『大江山』のお姉様の気を逸らさなければ、一ノ宮本殿に捕らわれている『柚子』を救うことはできない」
朱善がそこまで説明したところで、急に足を止めた。
「どうしたの」
「──なにか、いる」
「誰? 『大江山』の誰か?」
「いや、違う──」
いると言われて柚香は焦って参道周囲を見回した。
静謐な空気が佇んでいるだけで、何の違和感もないように思える。
だが改めて意識を尖らせると、虫の音が止んでいることに気づく。
「……じゃあ誰がいるっていうの?」
その柚香の声を合図にしたかのように、竹藪から音を立てて何かが飛び上がった。
柚香の目が捕らえたのは、黒い影だけで形などは分からない。そのまま飛びかかってくる殺気だけは分かっても、できることは身を固くすることだけだった。
その柚香を守るように、朱善が護身刀を煌めかせ一刀両断にする。
手応えはあったが、影はすぐに朱善たちと距離を取りふたりを囲む。
影の数は五つで全身真っ黒の装束。闇に浮く月のように、額に金色の狐面を掲げていた。それだけで体躯や表情は読み取れない。
それどころか影は切り裂かれた肩の傷をぽっかりと開き、その傷に気を止めるようすさえない。
瞬時にそれらが、容易に対処できるものではないことを把握し、朱善は柚香を背にして警戒を強めた。
「柚香、里まで逃げろ」
「そんな、無理……!」
迷う柚香の思考を邪魔するように、突然心にざわめきが立つ。
心に直接介入してくる。
この感覚は前にもあった。
祐喜だ。
「あ……や、だめ」
祐喜が──『紅葉山』を呼んでいる。
「柚香? どうした」
朱善の声が遠くなる。
「祐喜、祐喜が『あぶらあげ』のこと、呼んでる」
前回よりずっと深く、柚香の心の奥に眠る『紅葉山』を揺り動かす。
「祐喜、やめて……、それじゃだめ、だめ……銀朱に言われて、じゃ、だめ」
「『大江山』のお姉様に屈服したのか、『柚子』……」
朱善の言葉に柚香はぎゅっと胸を押さえて声を上げた。
「銀朱に力を貸してはいけない!」
心の奥の『紅葉山』を呼び起こす祐喜の声を、強制的にはじき返す。
「やはりそのひとの子、『大紅葉山』を秘めておるな」
影が声を上げるので、朱善は刃の切っ先を差し向ける。
「貴様ら、『大紅葉山』の命を狙ってか。私は『紅葉山一ノ宮麓』。里のひとの子一人でも怪奇によって失わせるわけにはいかない。退けっ」
「侍従といいつつも詐称じゃ。侍従気取りの稲荷未満、『大江山』の分社」
「もとより『大江山』など畏れに足らず、鬼才の茂野がおらねばただの田舎山」
口々と罵る影に向かい、朱善は威嚇を兼ねて再度一閃した。
たしかに一閃は影を肩から腹まで切り裂いたというのに、やはり退陣の気配すらない。
幻影かと思ったが刀から感じる感覚は、空を切るものとは違う。
物質的にたしかに目の前にあるのだ。
「そなたら、どこの山の密命を受けてきた」
「どこの山も『紅葉山』不在としれば動くであろうこと、詐称『紅葉山一ノ宮麓』殿は分からぬかの」
「そのひとの子が『紅葉山』であれば魂をくりぬいて『大豊山』に差し出して、お褒めの言葉を預かれようものだ。ありがたきお役目である」
「柚香……」
朱善は小声で背にかじり付いている柚香に声をかけた。
「道を切り開く。走って逃げろ」
「朱善はどうするの」
「私は『紅葉山一ノ宮麓』だ。主の命を守るのが勤め。分かったな」
朱善は刃を構えたまま柚香と走り出した。
即時影は追ってきたが、朱善は身を翻し柚香へ向かう影の壁となった。
「ここから先は通さない」