彼の取り戻し方 (1)
その晩朱善が『大江山』本殿へ続く石段を上がると、侍従の茂野と顔を合わせた。
彼は主である銀朱に忠実な老臣で、朱善たち分社らの教育係でもある。
明確な嫌悪を向けられても顔色を変えることはなく黙々と作法を教え課題を与えるので、妹の祥香の茂野嫌いは加速している。
しかし祥香に散々言われた後、台所でひとり寂しそうにしていた姿を朱善は目撃していた。
新巻鮭をこっそりとつまみ食いの最中であったので、声をかけることはできなかったのだが、寂しげな背中を見た時に、朱善は侍従職の困難さを思い計ったのである。
「本殿には上がらず、そのまま奥座敷までお回り下さい。暫く本殿への立ち入りは禁ずるように命じられました」
闇をほのかに照らす提灯を掲げ、茂野の白髪交じりの黒髪が照らされる。
「何かあったのか」
問うと、本殿にはひとの子がいると言う。
希有なことであった。
表裏一体であったとしても、ひとの子がこの世に器ごと身を置くということは稀なことだ。
まさか柚香が捕らわれたわけではなかろうかと茂野を押し切って本殿覗くと、そこにいたのは『柚子』である祐喜だった。
無様にも銀朱に踏まれて呻いていた。
「『大江山』のお姉様は『柚子』を捕らえたのか? 何故……どうやって? 『柚子』は我らが視えないのではなかったのか?」
「あれが『大江山』の護符を持っておりました。強い力が込められておりそれによって『柚子』は我らを視る力を一時的に得たようなのです」
それは偶然の出来事だったのだろうか、銀朱はその一瞬を見過ごさなかったのだ。
「お姉様の護符を? 無信心の『柚子』が何故持っている。おかしいだろう」
「さぁ、たしかに本人のものではないようです。誰ぞ懸想しているおなごの持ち物であると言っておりました」
朱善は茂野の言葉にすぐ柚香の姿が浮かんだ。
柚子が携帯につけていた御守りに違いない。どこかでそれが、祐喜の元に渡ったのだ。
「『柚子』を用いれば、行方不明の『大紅葉山』がお応えくださるに違いないという、銀朱様のお考えです。ですが『柚子』は我らに対して毒を放ちます。祥香様と朱善様には毒に触れないようにとのご配慮です。さぁ奥へ」
「だが『大江山』のお姉様とて、あれほどの毒を直接受ければ苦しかろう。止めさせるべきだ」
いつもなら清廉な空気をたたえる本殿は『柚子』の不信心の穢れ、否定の毒で真っ黒に煤けて見える。
それは『紅葉山』を蝕んだものと同じ。
彼等には毒だった。
「私も進言いたしましたが、『柚子』は本殿から出すなとのこと、必ず屈服をさせるおつもりのようです」
「無駄だ。今すぐ止めさせねば……」
「私に出来ぬと思うか朱善。お兄様の事で私が膝を折る事は断じてない」
背後から銀朱の声がした。
茂野と朱善は深く表を下げ、『紅葉山』からの帰山報告を告げた。
「『柚子』を『紅葉山』においておく方がずっと毒になる。お兄様がお戻りになった時、ひとの子の穢れにまみれた山にお戻り頂くのは忍びない。そなたが日々『紅葉山』に通うのを黙認するのも、穢れを払うためだ。さすがお兄様の『紅葉山』だけあって穢れは最小限のままだが、放置を続けては汚れが溜まる」
穢れが拡大しないのは、銀朱が言うように朱善が徘徊している成果でもあるが、『紅葉山』である柚香が山を欠かさず巡っているからなのだが、朱善がそれを言う訳にはいかない。
『大江山』は『紅葉山』を強引に稲荷の世に連れ戻そうとしている。
そうする事でひとの子が──柚香が死ぬとしても構わないのだ。
恐らく構う事もないだろう。
銀朱は『紅葉山』を深く敬愛している。兄を取り戻す為なら犠牲を厭わない。
「『柚子』が信仰を取り戻せば、お兄様は必ず反応を見せてくれるはずだ」
銀朱は汚れた打ち掛けを脱ぐと、穢れを叩き落とし座敷へ入り一服のために煙管を手にした。
翻った長い銀朱の髪が煌めき、星屑となって広がる。
「お姉様、『柚子』を『紅葉山』の里に戻しませんか」
「話を聞いておったか? あれに信仰を取り戻させる。そしてお兄様を呼ぶのだ。そなたはお兄様に戻ってきて欲しくないと、そういうつもりか?」
銀朱が手にしていた美しい白磁の茶器に、ひびが入る。
その亀裂は座敷全体にも入り空気がぐっと冷えた。
「『大紅葉山』は思慮深き御方です。突然姿を消すということには意味があってのことで、無理に引き戻すはお望みではないのでは、と……」
「どんな意味があるというのか。そなたはまだ分社身分で分からぬのだろうが、お兄様の気配は完全に途絶えておるのだぞ。遊山しに山を抜けておられるのとは訳が違う。存在そのものがないこの異例にのんびりと構えておられるか」
「それでも、待つことはできないのでしょうか」
銀朱はさっと立ち上がると、怒気の孕んだ表情で朱善を見下ろして懐の扇をつきつけた。
「私は『葵山』時雨様から、お兄様のことを頼まれていたのだぞ。もしこのまま、お兄様にまさかがあれば、私は時雨様に顔向けできない。それにお兄様が居なくなったら──」
怒っていたはずの銀朱は、突然青い目からぽろりと真珠のように小さな雫を零した。
姉であり母である銀朱に涙を流させるということが、どれだけ不躾なことだかは分かっていたが、朱善はぐっと堪えて進言を続けた。
「ですが、『柚子』は──ひとの子に我らは触れてはならないものです。もしお姉様に何かあればその時こそ『大紅葉山』や『葵山』が悲しみます」
「黙れ! お兄様の身に何かあったら、『紅葉山』派の大事であるということが分からないほど幼いかそなた。『紅葉山』のお兄様が不在となれば、空席を埋めるのは自分であるなどと、逆徒のような考えを走らせているのではないだろうな」
「それは、あんまりのお言葉です」
「この一件、『豊山』派の暗躍も考えられる。二度と下らない進言を致すな」
「ですが『豊山』派が動いてのことであれば、何かしらこちらに宣告がありましょう」
「何も音沙汰がないから、お兄様が無事であるという確証はなかろう。そなたには難しすぎる話よ。下がれ」
「どうか『柚子』をひとの里にお戻し下さい。お姉様の命を蝕みます。そして、我らにとって無価値なものでも、あれを愛し求めるものがひとの子の里にはいるはずです」
「……茂野、朱善を」
頭痛がするという仕草で手を振ると、控えていた茂野が立ち上がり朱善の退室を即す。
だが朱善は茂野の勧めには応えない。
「私の言葉に、間違いはありますか。別の方法があるはずです、お考え直し下さい」
「その頑固なところは誰に似た。もういい。下がれと言ったら下がれ」
それでも朱善は動かない。
大きなため息を零して銀朱の方から部屋を出て行った。
一度も振り返ることなく消えていく銀朱の背を見つめ、朱善はぎゅっと手を握りしめた。