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もうひとりの『あぶらあげ』 (2)

「今日は何を祐喜に作って持っていこうかなぁ。山芋の磯辺揚げ、天麩羅でもいいかなぁ。ねぇ朱善は何が食べたい?」

「そうだな……鮭」

「朱善ってほんと魚好きよねぇ。そうだ、ねぇ『鮭』って呼ぼうか! 『あぶらあげ』みたいに」

「そういう蔑称は嫌だ。名前で呼ぶことを許すと言っているのにどうしてお前たちひとの子は、次から次へと俗称を付けて回るのか」

「名前を呼ぶのを許すっ……て偉そうに言われても。『大江山』分社、って長いし呼びかけにくいのよね。早く朱善も山を預かって、立派な山の名前で呼ばせて頂戴ね」

「だから、私は『紅葉山一ノ宮麓』だと何度説明すれば分かる!」

「『紅葉山一ノ宮麓』、かぁ……。それも長い。それに自称なんでしょ? 『あぶらあげ』が任命しなきゃだめだって言ってたじゃない。見習い中ってことでしょう」

 歩きながら路地を抜けると、表参道に出る。

「『大紅葉山』公認でなくとも、思い姿勢を貫けばいつか必ず本懐を遂げられるというものだ」

「そうね。私をこうして守ってくれてるのは『あぶらあげ』に認めてもらうためだもんね」

「もちろん、それだけではないぞ!」

「ちゃんと『あぶらあげ』が目を覚ましたら、朱善は『あぶらあげ』の願いを果たすために尽力してくれましたって言うわ。そうしたら、よくやった!お前を私の侍従に命じよう! とか言ってくれるかもね」

 柚香が任命してくれても一向に構わないのだぞ。お前は『紅葉山』なのだからな。

 朱善はそう言ってやりたかったが、恐らくこんな調子で任命されても心が伴わない。

 まことが得られなければ、どれだけ口上で任命しても意味がないものだ。

「『あぶらあげ』優しいもん、お願いしたら断らないかもしれないし」

 すこし前は素直で疑うことを知らなかったのに、柚香は最近口がよく回る。

 朱善としては、『紅葉山』の魂の器である柚香を守ることで、『紅葉山』侍従の位である『紅葉山一ノ宮麓』を気取っていることは確かだ。

 こうして役に立つことを証明して、認めて貰いたいと思う気持ちはある。

 だが稲荷神としての使命だけでなく、柚香というひとの子を気に入っての行動でもある。

 『紅葉山』だけでなく、柚香という個人を守りたいと思うのだ。

「柚香、とにかくこちらでは『紅葉山』捜索の動きが活発になってきた。万が一があれば同時に『大紅葉山』のお命に関わる、注意するように」

「分かってる。朱善こそ気をつけてね」

「私の心配は無用。皆は私が『大紅葉山』の行方を知っているとは思っていない」

「それなら、いいけれど──朱善の気持ちは変わらないの?」

 何が? と首を傾げると、柚香は言いにくそうに溜めてから『あぶらあげ』をこのままにしておくこと、と言った。

 稲荷の世が混乱しはじめたのなら同じ稲荷神である朱善は、柚香の中の『紅葉山』を連れ戻す義務があるのではないかと、柚香は思うのだ。

「私は──『大紅葉山』の願いを叶えたい。あの方が望んだことを手助けしたい。私が見てきた侍従というのは少ないけれど皆、主のために命を賭し、心を賭して有り続けている。それを私も見習いたいんだ」

「じゃあ、もし『あぶらあげ』の気持ちが変わって、私から出ていきたくなったとしたら、朱善はどうする? 私を殺して『あぶらあげ』の魂を稲荷の世界に持っていく?」

 本当ならば面と向かって問いかける言葉ではないが、柚香は確認をしておきたかった。

 誰にだって事情と立場というものがある。

 それは、柚香はよく分かっている。

 だから無駄に信用して、裏切られたなどと勝手に思って傷つく前に、線引きをしておきたかった。

 目の前の小さな稲荷神は、決して『自分』の味方ではないということを。

 朱善はしばし黙したが、今答えられることだけはと口を開いた。

「第一に『大紅葉山』はお心を変えることはない。『柚子』のためにひとの世に降りた。何があろうと『柚子』を愛される心を貫かれる」

 じっと柚香の目を見る。

 口は良く回るようになったが、不安でたまらないという顔をしている。

 まだ幼い心の持ち主だ、自分と同じだ。

「そして私は──これでも稲荷神の末弟である。ひとの子の切なる願いを無碍にはしない」

 返答こそしたが、曖昧な返事でしかない。

 今ここで、全ての思いを発露する訳にはいかない。

 朱善の立場は宙に浮いていて、危うい。

 朱善自身も、吃緊の事態に陥った時に、動けなくなってしまいそうだと分かっていた。

 稲荷神として、ひとの子の願いを叶えるという役目。

 稲荷神として、『紅葉山』を救うという役目。

 どれも並行して遂行することは、事情を知っている朱善にはできない。

 選ぶべき時が来たら、ひとの子か兄か、どちらかを選ぶことになるだろう。

「ごめんね。今聞くことじゃなかったかな。でも──心が決まったら聞かせて。どっちでも私は構わないから」 

「そうだな、いつか必ず答える」

 いつもの情報共有を終えて、朱善は柚香と別れる。

 空に舞い上がれば山の緑、大気、大地ともに全てを抱くことができたが、朱善の青い目は小さな影になっていく柚香だけを追っていた。

 柚香だけは、抱くことはできずに目で追うことしかできない。

 向こうはこちらの気持ちを知らずに、空に舞う朱善へずっと手を振っている。

 その仕草を小さな点になるまで見守る。

 今朱善が抱える悩みは、恐らく『紅葉山』も抱えていただろうと考える。

 特定の誰かを想うということは、時に苦しい選択を迫られる。

 はじめは『紅葉山』の器として、ただ柚香の身の安全だけを見守っていた。

 いつしか顔をつきあわせるようになった。

 視線を交わし、お互いの世界の話を共有するようになる。

 祐喜のために料理を勉強していると言って、毒味役を押しつけられるようになった。

 自分は鮭が好きだと言うと、翌日「お供え物」と言って鮭の握り飯を持ってきた。

 まだ分社身分の朱善が、信仰という名の友愛を持って差し出された初めての供物だった。

 不格好な握り飯だったが、朱善はその味を忘れない。

 ひとの子の信仰というものは言葉に代えがたい、稲荷神として生きる全てであるのだと学んだ。

 いつしか、柚香の笑顔が頭の中から離れなくなった。

 そして朱善は、はじめてひとの子を愛する『紅葉山』の兄の思いを理解した。

 朱善は思うのだ。それはとても苦しく切ないものだと。

 柚香の笑顔は有限のもの。必ず綻び消えてしまう。それがひとと言うものだから。

 だが稲荷神は無限のもの。ひとの子の信仰がある限り、永劫を生き続ける。それが神というものだから。

 有限と無限の相容れないさだめの中で、たったひとつの脆い愛という感情だけで繋がっている。

 何と形容することもできない、何と換えることもできない。

 かつて『紅葉山』と『柚子』は互いを思い合っていた。

 愛する者いるというだけでも幸せであるのに、それ以上の幸せを得ていた『紅葉山』は奇跡を得ていたのだ。

 『紅葉山』の兄は幸せで、そして不幸だ。兄はひとの子の世において、十四年前に愛する『柚子』の死を知った。

 愛するものの死。

 途切れなく続いてきた『柚子』の家系、血脈などという物質的な死だけではない。

 現代の『柚子』が『紅葉山』を否定することで、精神的な『柚子』の魂も死を迎えた。

 『紅葉山』が心を砕くべき相手は、舌に乗せた落雁のように溶けてなくなってしまった。

 無限と有限を繋いでいた線は途切れ、永劫の闇に落とされた。

 だが『紅葉山』は有限の世界に一本のこよりを垂らした。

 『柚子』に届くようにと、小さいながらも光放つ、柚香と言う名の媒介──それは線香花火のように華奢で脆い命の炎。

 柚香という花火が消えてしまえば、『紅葉山』も共に消えてしまう。

 それほどの覚悟と愛を持って稲荷の世を生きるものがどれだけいることだろう。

 ひとの子の世にもいるのかどうかも分からない。

 柚香はそれを「報われない」と言った。

 事実、このままでは『紅葉山』は確実に死ぬ。

 柚香の中の『紅葉山』を『柚子』は視ることなく、外側の柚香だけを視ているにすぎないのだから。

 柚香はこれまで、懸命に『柚子』に信仰を取り戻させようとしたが、それも叶わなかった。だからこそ今『紅葉山』は宿主である柚香の問いかけにも答えられぬほどに小さく消えそうになっているのだ。

 叶うわけがないと分かっていても、朱善は願う。

「どうか『柚子』が『大紅葉山』を信じ、長き勤めを果たした柚香に、褒美として生きる力が与えられますように」

 そうすれば全てが酬われると朱善は思う。

「そして柚香が、ひとの子として生き、死ぬまでを、私は見守りたい」

 朱善は、自分の気持ちに気づいていた。



 これは──柚香へ寄せる、愛なのだと。




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