そして彼は語る (2)
「ひとの子の名句を借りれば、はやる稲荷は鳥居でも知れるとも言う。瑠璃姫が駆け上がってきたこの『紅葉山』。石段を囲む千本鳥居の数は、この山の信仰の証明です」
『紅葉山』と瑠璃の間に入って来たのは、『豊山一ノ輪麓』守夏だった。
「ずっと気配を追っておりました。『豊山』派の一柱として、卑怯な行いで『紅葉山』の命を刈ることはなりません、山へお戻り下さい瑠璃姫」
「蜜条さん、三枝さん……あの晩に、顔を見られたのですね」
瑠璃の言葉に侍従二人は気まずそうに顔を合わせ瑠璃から視線を逸らした。
「この方の命を刈るというのならば、正しき行いと筋を持って断たねば、派閥の名を汚します。それはつまり『大豊山』の顔に泥を塗るも同じです」
「蜜条さん、三枝さん!」
瑠璃の指示に答え、勇敢にも侍従は守夏に向けて飛んだ。
だが守夏の放った一閃で、『紅葉山』が瞬きする間も与えられず侍従は地に臥した。
相手にならない。
となれば、当然守夏より上位に位置する『紅葉山』を屈服させ処断することなど『極楽山』の侍従たちにはできないということだ。
だが瑠璃もここまで来たら引き下がることはできない。
翳した扇を『紅葉山』へ差し向けた。
「妾は、己の出来うる限り全てのことをして示してみせます」
「引き際も肝心であるぞ、『極楽山』。そなた良いところまで行った。柚香によって私を滅ぼすのであれば誰も口を挟まなかった。神はひとの子によって滅ぶ。それは自然の摂理だからのぅ。──最期にこうして姿を現したが、失策であった」
『紅葉山』が石段をひとつ踏み上がる。
瑠璃は向けられる得も知れぬ気配に押し出されるように一歩後退した。
詰めなければならない間合いを、体が勝手に開けようとする。
本能的に目の前にいるものが異質だと悟っているのだ。
その緊迫した空気を、守夏が間に入って遮った。
「『大紅葉山』、この度のことどうか私の名に免じお許しを頂けませんでしょうか」
膝を折り頭を垂れる守夏に、瑠璃はかっとして手にした扇を守夏に投げ付けた。
「守夏……! そなた『豊山一ノ輪麓』としての誇りはないのですか! 主以外の……よりにもよって悪狐に対して膝を折るとは」
「『極楽山』少し黙れ。守夏がその誇りを曲げてでもそなたを救おうとしておるのが、分からぬのか?」
『紅葉山』は特別に語意を強めるわけでもないが、瑠璃を諫めてから守夏の肩に手をやった。
「そうだのぅ、柚香にとっては、『極楽山』はよき友であったようだしな」
柚香の名前が出て、瑠璃は少しだけ目を細めた。
それがどんな感情をもってのことなのかは、瑠璃以外には分からない。
「瑠璃姫は『大豊山』の心の支え、今この時に失う訳には参りません」
肩に寄せられた『紅葉山』の小さな手が、守夏には巨大な断頭台に添えられた白刃のように思えた。
かるく横に振ってみせれば、守夏の首は落ちるに違いない。
だがそれで怒りが収まるのならば守夏はそれを受ける覚悟でいた。
「そうだな、寵愛した『葵清祥咲夜』は眠りにつき、『呉山』時雨は手元を離れ、『八重垣山』八雲の弑逆に合い、その上寵愛した『極楽山』瑠璃まで失っては、正気を保ってはおれんな」
とん、と『紅葉山』の手が守夏の肩から離れた。
落ちている瑠璃の扇を拾い上げるとゆっくりと閉じる。
だが守夏は膝を折り頭を垂らしたままで、その様を見ることはできない。
許しがもらえるまで顔を上げることはできないのだ。
「だが少し手を誤ったな。『柚子』に触れることはまかりならん。ましてやあれを死なせたことは、簡単に許してやれることではない」
「ふ……特定のひとの子にこだわり、秩序なき荒くれ。悪狐らしいお言葉ですこと」
瑠璃は恐怖で顔を引きつらせながらも憎まれ口を叩いてやった。
「そなた阿呆ではあるまい。口で叱れば分かるか?」
「妾は悪狐に説教される覚えはなくてよ」
「はい、と理解を示せばそれでよいのに、どうしてそのように相手を焚きつけるようなことを言うのだ」
それはそれは哀しそうに『紅葉山』は言って守夏が地に臥した侍従の一柱へ視線をやった。
瑠璃の好みそうな筋の通った容姿で、焼けた肌に茶の毛が艶やかな美男子である。
名は蜜条と言ったか。
柚香が話をしてくれたのを覚えている。
もう片方は三枝という名であった。
ひとの子の姿をとって柚香に近づいたのは、奇策であった。
「そなたら侍従も揃って『極楽山』を止めずにおったから、このようなことになる。主を諫めるのも侍従の仕事であるぞ。まぁ、稀に──聞き入れぬ悪狐もおるがな」
ふぎゃ、と瓜が割れるような音がした。
それだけで、あとは沈黙だけが場を支配した。
「それも稀だ。私もそこそこ悔いてはいる。あのやり方はよくなかった」
守夏は頭を垂れたまま、ゆっくりと目を閉じ、そして開く。
視界に映るのは二ノ宮へ続く石段だけ。動くものはなにもない。
だがゆっくりと、音も立てずに石段を下ってくるものがあった。
赤い──……赤い血潮。
止めどなく流れ守夏の横を下り、まだまだ下へと勢力を伸ばそうとする。
「み、み、みつ、蜜、条さん」
「私はそんなに残酷ではないぞ。誰ぞのように子を授かりこれから幸せを得ようと輝き始めた命を、踏みにじるような趣味はない、安心してよい」
守夏の背から聞こえる『紅葉山』の声は、いつもと変わらない。
いつもと変わらず笑みを浮かべているに違いない。
「もう一度問おう。『極楽山』瑠璃、そなた阿呆ではないな?」
「妾は脅しに屈するおなごではなくてよ。侍従の一柱を失ったくらいで屈服すると思っているのなら」
瑠璃は唇を振るわせて、ぎりぎりのところで声にした。
屈辱からか恐怖からか、分からなかったが指先が酷く冷たく、顔だけが恐ろしく熱かった。
『紅葉山』はふぅと重い息を吐いた。
「口で言って分からぬならば」
「『大紅葉山』」
守夏は必死の思いで『紅葉山』の行動を諫めた。
その思いは今度は通じたのだろう。石段を上がる足は止まりもう一度ため息が零れた。
「……仕方あるまい。『豊山』と守夏の拝礼に免じて此度は目を瞑ろう──のぅ、守夏」
守夏は黙っていたが、ゆっくりと立ち上がり『紅葉山』へ視線をやった。
『紅葉山』も守夏を暖かな視線で見つめていた。
「そなたの目的は『極楽山』を止めるだけか? 『豊山』の右腕のそなたが、いかに寵姫であろうと『極楽山』の命を救うためだけにわざわざ出向いたとは思えぬのだが」
「私は『豊山』にとって不利になることを避けるだけです」
「と、いうことは、うまく事が運んで私が消えればそれはそれで良しと思っていたわけだな」
涼しげに言い放った言葉に、『紅葉山』は笑ってやった。
「本心から心配をしていたと言っても、貴方はどうせ信じては下さらないでしょう」
守夏が呟いた声は、当然『紅葉山』の耳には入らない。
「なんだ? 何か言ったか」
「何も」
守夏はそれだけきっぱりと言い放つと、瑠璃の手を引いた。
「恐らく『葵山』が気づいたでしょう。この度のことは『大豊山』には」
「分かった。黙っておいてやろう。これは一つ貸しであるぞ守夏」
『紅葉山』はそこまで言うと、手の中の瑠璃の扇の存在を思い出し、瑠璃に近づいた。
畏れを感じたのか瑠璃は守夏を盾にしたが、『紅葉山』は瑠璃の手を引き、扇を手渡した。
「あと一手を緩めるのは、『豊山』に似たな」
瑠璃は下唇を噛むと扇をぎゅっと握り締め背を向けた。
『紅葉山』の言葉に守夏は頭を下げ瑠璃は、二柱の侍従に守られ一度もこちらを見ることなく空に舞い上がり消えて行った。
静かになった一ノ宮に佇む『紅葉山』の背後から、『柚子』の声がした。
一人ではない、二人の『柚子』の声だ。
彼らはやっとここまで登ってきたようだ。
眩しい刹那の命の花を咲かせながら、『紅葉山』の心を魅了し続ける。
ゆっくりと『紅葉山』は踵を返し、愛し子の元へ再び石段を下りて行った。
おしまい、おしまい……?