そして彼は笑う (1)
「それで?」
「それで──と言うと、何だ?」
「この『葵山』時雨に他に告げることはないのかということです、『大紅葉山』」
人々が紅葉賀へ訪れる『紅葉山』に、本来あるべき主人の姿がある。
稲穂のように豊かな金髪。
血潮のような赤い瞳、『紅葉山』雅親朱秦である。
「柚香は祐喜に信仰を取り戻させた。その後柚香は無事だ。病は自身の力で克服したし、柚香には私の『一ノ宮麓』がついている。何の心配もない」
『紅葉山』が説明をしている相手は、大陸へ旅に出ていた『葵山』時雨である。
傍らに侍従を従えその横には『大江山』銀朱、侍従の茂野、『紅葉山』の隣には朱善も控えている。
「ひとの子というのは花火のような命の輝きに幾千、幾万もの力を秘めている。柚香はまこと私の器足りる、ひとの子であったぞ」
「ひとの子の話を聞いているのではありません」
「朱善のことか。朱善は私の『紅葉山一ノ宮麓』とする。『紅葉山』をやると言っていたのに格が下がり約束通りとはいかないが、『一ノ宮』もまた紅葉山の一部だ。我慢してくれるだろう」
「朱善の話でもありません」
時雨の語意に怒りが籠もるのが銀朱には分かったが、『紅葉山』は気がついていないようである。
「では何か? 他に話すことがあったか」
「あなたは、その柚香なるひとの子の中で、消えてしまう可能性がいかほどあったかお分かりか」
「そうか?」
「そうです。そのひとの子がもし己の矜恃を持たず、道を選ぶ力がなければ、貴方は確実に消えておりました」
黒髪の間から、ぎろりと鋭い眼差しを向けられる。
大陸に赴き多くの教義教典、信仰を受け一段と力を蓄えた時雨の眼差しは場を凍らせる。
視線を合わせていない侍従以下は、背筋に刃を突きつけられたかのような寒気に襲われたが、真正面からそれを投げかけられた『大紅葉山』はのんびりと日向で茶でもしているかのような笑顔だった。
朱善はその迫力に怖じ気づきはしたが、ぐっと飲み込み『紅葉山』と時雨の間に入った。
「『大紅葉山』は決して、ご自身の命を粗末にすることを第一とされていたわけではありません『葵山』」
「間に入るな『紅葉山一ノ宮麓』、そもそもそなたが『大江山』に全てを話さずに分社身分でありながら単独で行動したのも過ちであるぞ」
時雨が睨むが、朱善は退く姿勢は見せなかった。
このくらいで退いては何の為の侍従であろうかと、震える心を懸命になだめつかせる。
「だ、『大紅葉山』は静かに『柚子』を見守りたいとそう仰せで」
「くどい! 主人の我が侭をただ聞くだけが侍従ではない」
『葵山』の途方もない怒りが侍従に注がれるので、『紅葉山』は上座から立ち上がり、盾になる朱善の肩に触れて己の背後へ押し込んだ。
「よろしいか『大紅葉山』。私はあなたが第一にすべきは、己の存在であれと申し上げたいのです」
「その点は、私も時雨様と同意です、お兄様」
銀朱も横から同意を示す。
「だから謝罪したであろう。決してそなたらを邪険にするつもりはなかった」
「己の命を賭けて世事を動かすなどという荒行はもうしないと、血判を押し明言を頂くまでは、私は『葵山』まで戻りません」
時雨の言葉に、『紅葉山』は小さく笑った。
近くにいた朱善だけが、『紅葉山』が零した独り言を拾うことができる。
(──命を賭けて運命を動かすことは、当然のことだというのに)
その言葉は、ひとの命の閃光をじっと見つめているからこそ思うことなのだろう。
朱善もそれは理解できた。
己の全てをかけずに動かせる運命など、ないのだ。
「私は新しい『紅葉山一ノ宮麓』の養育をせねばならないし、総本山にも山号返上が侍従任命に変更になったことを届けなければならない。そなたの相手をする暇はないのだぞ」
「届け出全般は村上にやらせます。それより父上は誓約を」
「何を無茶苦茶仰ってるんですか、時雨様」
隣の侍従が喚くが、時雨は一瞥で黙らせる。
その間に『紅葉山』は話を変えた。
「おお、『柚子』達が山を上がってくる。のぅ朱善、柚香もおるぞ。今日は学校の友人も一緒だと聞いた。さぁ迎えに行こう」
『紅葉山』はさっと立ち上がると、朱善の手を引いてあっという間に本殿を抜け出て石段を駆け下りて行く。
姿が見えなくなって、やっと時雨は逃げられたことに気がついた。
「あ、悪狐めが……私は今ほど剱を抜いて切って捨てたいと思ったことはないぞ」
「まぁまぁ、いつものこと、いつものことでございますよ」
侍従の村上が時雨をなだめる余所で、銀朱は笑ってしまった。
「何が可笑しいのだ。そなたを目付に当てたというのにこんな騒ぎになって。私はもう大陸に研鑽を積みになど行かない。常に父上を監視してやると決めた、決めたぞ!」
「お役目を守り通せなかったことはお詫び申し上げます。『大江山』としてもいくつか不満は残りますが……でも、結果は良かったのではないかと、今思ったのです」
銀朱の目は本殿の柱を抜け石段を駆け下りていく小さな兄と、朱善の姿を捉える。
競うようにして下っていく両者の笑顔を見ながら、銀朱は自然と笑顔になった。
「今までひとりきりだったお兄様に侍従が一柱つきました。それが私の分社である朱善であることが私は誇らしく思うのです」
「まだ幼い朱善にこの山の侍従が勤まるかは分からないぞ。私は長兄から選ぶべきだと思うが」
時雨は色々と不安が残っているようだが、その横顔を見て村上は変わらず笑顔を浮かべている。
「『紅葉山』の侍従として必要な条件というのは、『豊山一ノ輪麓』守夏らなど、お兄様を力で抑えることのできる存在なのでしょうが、恐らくそれは間違いなのです」
「ならばまだ世の情理も分からない末弟であるべきだと、銀朱は思うのか? 『大紅葉山』に撒かれるだけだぞ」
「いいえ、ひとの子を特別に愛する心を、理解できるものでなければならないということなのです」
『紅葉山』二十八基目の鳥居の下で一組のひとの子と稲荷神が向かい合っている。
ひとの子の溢れる笑顔を受け止めて、山の主と侍従は微笑んでいる。
その笑顔を向ける対象が線香花火のように短い命だとしても、命を繋いで永遠の形を作り、その形を愛せるものでなければこの山の主を理解し添うことはできないのだ。
その点で、銀朱は永遠に『紅葉山一ノ宮麓』を賜る事はできないだろうと、思う。
「『柚子』の存在を受け入れるというのは、『大江山』らしからぬ言葉だな」
時雨の言葉に、銀朱は目を細めた。
「勘違いなさいますな。私は『柚子』やそれに心を砕くお兄様を容認したわけではありません。ただ、事実としてお兄様に寄り添う立場を得るならば、行動原理を理解できなければ勤まらないとそう言っておるのです。侍従というものは、主の思いの丈を寸分狂うことなく把握し助力惜しまぬもの。そうでしょう」
銀朱の言葉に時雨は口をぎゅっと結び、二ノ宮を見つめる銀朱の視線を追った。
「それに朱善は総本山からの宣下を待たず、己の道を選び認められました。自分で選びとった道です。名高い一ノ侍従として役目をこなしてくれるに違い在りません。なにより朱善は私の分社です。立派に役目をこなすに決まっております」
銀朱は鼻が高いという仕草をして笑ってみせた。
「そうでございますねぇ。ところで『葵山』への嫁入りはいつ頃になるのでございましょうか」
すかさず村上が伺いを立てると、銀朱は上機嫌だった表情を凍らせた。
「……何の話じゃ」
「私ども『葵山』侍従以下従者面々も、早く『葵山』分社をとあちらこちらから要望を受けておりますが、時雨様のお相手は『大江山』銀朱姫のみということですので」
「そうだ。私は銀朱以外に嫁をもらうつもりはない」
時雨が表情を変えずにからっと言い放つので、銀朱はさっと茂野へ視線を投げた。
今は『葵山』と戯れている暇はないと切り捨ててもらおうとの意図だったが、茂野には伝わっていなかった。
「支度を急ぎます」
「そ、そうではなかろう茂野!」
「なんだ、嫌なのか。そういえばそなた……いつもいつも逃げて回るがどういう了見だ。まさか私を差し置いて他に嫁入り先が決まっているなどということはないだろうな」
時雨が再び冷たい空気を放つので、銀朱は慌てて顔を真っ赤にして両手を振った。
「そ、そうではありません。今色々と大江山は立て込んでいて、山を離れて嫁入りなどをしている暇がないだけです」
「『大紅葉山』もこうして戻り、朱善も役目を得て、あとは祥香の分社を待つだけだろう。火急の責務があるとは思わないが」
「色々と準備が、の、のぅ茂野」
「確かに銀朱様の心の準備が整っておりませんな。銀朱様は婿を受け入れたことはあれど嫁入りはまだ一度も」
「あーあー! 茂野!そういうことを言うな」
「なんだ。ただそれだけの理由か」
時雨が下らないと言わんばかりの反応をしたので、銀朱はむっと頬を膨らませた。
「おなごには、色々とあるのです! 色々です!」
「そういった受け入れがたいわがままを聞くのはもう飽きた。これでもそなたの意志を尊重して待ってやっていた。そうだな村上」
「百六年と三ヶ月程でございます」
村上が答えると、茂野もそれでは押し返すこともできないという笑顔を向けている。
「私は、お相手が『葵山』であれば何の異存もございません。『葵山』が素晴らしい山であることは私もよく存じ上げております」
「し、茂野! 主の意志に反した言葉を侍従が口にするものではないぞ! 先ほど私がびしっと侍従の心というものを語った側からそなたが瓦解させていかにする」
「私は、主の思いの丈を寸分狂うことなく把握し、助力惜しまずお力添えしておるつもりです」
茂野は銀朱にそう断ってから、居直って時雨へ頭を垂れた。
「『葵山』が大陸に行幸中も、銀朱様は一日千秋の思いで無事を祈り、このたびの『大紅葉山』失踪の件も、『葵山』より任された役目と、何より優先して捜索に昼夜徹しておられました」
「そ、そうか。何だ私がいないところでは、粛々として愛らしい事を」
時雨はぱっと嬉しそうな笑顔を浮かべ、どこか照れた仕草をしてみせる。
銀朱はもう口を挟めずに真っ赤になって顔を余所に向ける他にない。
品のないにやけた笑みを浮かべている村上はそれは楽しそうに手を打った。
「では、そういうことで。日取りは改めてこちらからご連絡致します。よろしゅうございますか茂じぃ」
「準備万全にしてお迎えをお待ちしましょう」
「銀朱」
時雨が話を切って銀朱に声をかけるが、銀朱は真っ赤になったまま視線を合わせない。
侍従達がとんとんと話を進めてしまうと暴れて無かったことにされそうだと、わざわざ確認をしたのだが、暴れるどころかぴくりとも動かない始末だ。
「大陸ではまだ梅が咲いていて、梅を視る度にそなたの横顔を思ったぞ」
「わ、私は梅の花ではありません」
やっと口を開いたかと思えば、そうやって褒め言葉を跳ね返してみせる。
だが時雨も長い付き合いで、これが照れ隠しだということくらいは理解していた。
懐から土産の梅の花の簪を出すと、時雨は余所を向いたままの銀朱の髪にゆっくりとさしてやる。
見事な梅の簪は紅梅で、まるで本物の枝に咲く花かのように美しい花振りで、香りを感じさせた。
「それ、これで間違いなく梅の花だ」
これ以上赤くなりようがないと思っていた銀朱の顔がさらに赤くなる。
「そなたひとりで、大事な『紅葉山』の失踪を対処させて悪かった。心細く不安で涙を拭く袖はさぞ重くなったことだろう。もう大丈夫だ、私がいる。──銀、私の嫁においで」
時雨が今までになく優しく声をかけてくる。
銀朱はもう堪えきれずに、黙って一度だけ首を縦に振ってみせた。