それぞれの神隠し (2)
柚香と朱善は『大江山』に渡ると、すぐに別れた。
本殿から白銀の稲荷神銀朱と、その侍従茂野が飛び出して行くのを、柚香は視認して石段を駆け上がる。
朱善が『大江山』と茂野を抑えられる時間は限度がある。
本殿に飛び込もうとすると、その前に祐喜が飛び出してくる。
柚香がここにいることに驚いたのか、目を丸くして
「どうしてここに」
と声を掛けてきた。
時同じくして、朱善もその驚きを投げかけられていた。
声をかけたのは山の主『大江山』銀朱と、侍従茂野である。
朱善は銀朱と茂野両方を眺めると、茂野の手にある草履が目についた。
朱善が放った『紅葉山』の気配に、狙い通りに飛びつき、履く余裕なく飛び出してきたのだろう。
「『大江山』のお姉様、お履きものを」
朱善に言われて、銀朱はやっと気づいた様子で茂野を見た。
茂野は銀朱に傅くと、泥の付いた足袋を履き替えさせて、美しい竹の描かれた足袋を履かせた。
銀朱は黙って履き替えを受け入れていたが、朱善から視線を離さないままだ。
理由は明白である、目に映る全ては自身の分社他ならないが、内なる気配は色を変えている。
稲荷の秋を象徴し、ひとの子の四季を紅に染める『紅葉山』の気配。
中身だけごっそりと入れ替わってしまったように映っていた。
何があったかは全く想像がつかないが、何者かに操作されている可能性も拭えない。
「そなた……まこと朱善か」
朱善は美しい姉の所作を黙って見つめていた。
いつも小綺麗に粧う姉が、無我夢中になり土を足で蹴ってやってくるほどに、心配を募らせているということだ。
朱善は、その姉の望みを一瞬とはいえ、切り裂こうとしている。
切り札である『柚子』を、銀朱の手から逃がそうとしているのである。
「私は、朱善です」
ただすでに『大江山』の管理下からは外れている。
そういう意味では朱善は全く別のものだった。
胸にある記憶は、先代『紅葉山一ノ宮麓』から引き継いだ記憶が波打ち、今まで知ることのなかった『紅葉山』の景色も、山の移ろいも、里の景色も溶け込んでいる。
先代がその役目を終えた時に見た最後の景色もまた、張り裂けんほどの痛みと共に朱善の中にあった。
朱善が柚香から役割を与えられた時に、流れ出た涙は先代のものだった。
朱善が見たこともない鬼神のような『紅葉山』の姿だった。
先代『紅葉山一ノ宮麓』は強制的に主からその座を引きずり下ろされた。
主を愛する心を踏みつけられ絶望の慟哭を最後に、千年以上の間『紅葉山一ノ宮麓』という位は宙に浮いていたのだ。
小さな朱善にはまだ早すぎるほどの、多くの感情と知識がまだごちゃ混ぜになっている。
だが今は、先代の感情に心を乱されている場合ではない。
朱善は自分の意志で、なりたいと思ったものに為ったまでだ。
これからのことは、全て自分で切り開いていく。
「ですが、もう『大江山』のお姉様の朱善ではありません」
朱善の言葉に危険を感じたのか、茂野が一歩前に出る。
「お姉様!」
朱善を傍観する数が、横から増えた。
草をかき分けてやってきたのは、朱善の妹である『大江山』分社祥香である。
「お姉様大変です。本殿に捕らえていたひとの子が逃げました。手引きがいるようです」
余計な事を報告しに来た妹に答えて、銀朱はすぐに茂野を走らせる。
「朱善……そなたの計らいか」
銀朱の問いかけに、朱善は黙って首を縦に振った。
「何を考えてのことか分からぬが、姉の膝元で意に反する行いをするということがどういうことか分かっておるだろうな」
銀朱の手が懐に差し込んだ扇を手にする。
美しい桜を描く金色の扇は、銀朱がかつての『葵山』より譲り受けたものだ。
「私はもっとも優先すべきものの、力となることに決めたのです。お許し下さい」
朱善も銀朱へ白刃を差し向けた。
明確に向けられた反旗に、妹の祥香は驚いて銀朱の側へかけより盾になる。
「どうなさったのですかお兄様。しっかりして下さい! お兄様が刃を向けておられるのは、『大江山』のお姉様です、私達の大事なお姉様ですよ!」
「ひとの子の里に下りる数が増え、毒気にやられて気が触れたのだろう。叩き臥せれば目を覚ます」
双方向を否めようとする祥香を挟み、朱善と銀朱の視線が交差する。
「祥香……どいて」
朱善の言葉に祥香は向けられた刃が本気であることに気づく。
幼い頃から武芸の道を励んだ兄の姿はずっと目に焼き付いている。その敵に据えられたことは一度もないし、その切っ先は自分を守ってくれるものだと思っていた。
それなのに今、現実は祥香を突き刺そうとしている。
気が狂いそうだ。
祥香に理解できるのは、この状況を生み出したのが『柚子』ということだけ。
「全部あのひとの子のせい。お姉様、あのひとの子を追って下さい」
「しかし祥香、朱善は今」
「早くあのひとの子の役割を終わらせて、この世界から消して下さい!」
「……うむ。ではこの場そなたに任せる。用心せよ、目の前のものは、いつもの朱善ではない」
祥香は銀朱の言葉に力強く頷き、着物を翻し竹林に消える姉の背を守る。
朱善は祥香を相手にするつもりはない。
背を向けた銀朱を引き留めようと走り出した。
だがその足は祥香の壁が引き留める。
「お姉様の邪魔はさせません」
長い白銀の髪は、姉に憧れて伸ばしている。
くぬぎの実のように大きな青い目はまだ幼いが姉に良く似て宝石のようだ。
「何が気に入らないのですか、あのひとの子が信仰を取り戻せば、『大紅葉山』がお帰りになるかもしれない。今はそれしか方法がないというのに。お兄様だって『大紅葉山』にお帰り頂きたいでしょう!?」
「『大江山』のお姉様の力で取り戻しても、何の意味もないんだ」
「お姉様以上に『大紅葉山』を愛しておられる方はいません。お姉様の力で全てを取り戻すべきです」
祥香が必死になって朱善にくいついてくる。
「ひとの子なんて、ただ私達に願いを叶えてと、一方的にたかる生き物です。そのくせすぐ消えてしまう、そんなものに『大紅葉山』は取り戻せない!」
朱善は祥香の必死の言葉を否定し、絡みついていた腕を振りほどいた。
乱暴に手を引きはがされて、祥香は地に尻餅をついた。
「私は分かりました。ひとの子は放っておくべきもの。触れてはいけないもの。『大紅葉山』が間違えておられるんです!」
「それは、撤回しろ祥香」
兄妹の視線は火花を散らし交差する。
その火花は、一対の青い目以外も息を潜め見つめていたが、兄妹は互いしか目に入らない。
「何が違うのですか。お兄様はいつもふらふら『紅葉山』におでかけになっているから見ておられないでしょう。あのひとの子の毒を受けてお姉様がどれだけ苦しみ傷ついたか。それでも神の子として毅然と立ち向かわれたお姿を見れば、どれだけ『大江山』のお姉様が心強くおられたか分かるものです。いいと言われされすれば、私が膝元のひとの子も、『紅葉山』の里の子も全部消して」
祥香の感情的な叫びを、朱善が頬を叩き止めさせた。
「その思いは、稲荷神としては抱いてはならない」
祥香は頬の痛みに最初気づかなかった。
膨れあがるように頬が腫れ、焼けるような痛みが覆ってやっと、自分が兄に頬を打たれたことに気づいた。
同時に我慢していた涙が浮かんで、頬へ落ちていく。
「『大江山』のお姉様に長兄って定められただけで、祥香とは年も変わらないのに、偉そうに……!」
頬を叩いた手を握りしめ、平の痛みを忘れないように朱善は表を上げて祥香を見た。
「私は山を預かった。世界の錦を縒り集め、空にもっとも高い処に紅葉を棚引かせる『紅葉山一ノ宮麓』」
朱善の目は、もう祥香を妹としては映さない。
未熟な『大江山』分社祥香を、目で射殺す。
「私は『紅葉山一ノ宮麓』朱善なのだから、祥香にわたしの里の子は、屠らせはしない」