それぞれの神隠し (1)
その者は、ここにあるべきはない存在。
朱善の強い願いに応じるにしても、格が違いすぎた。
手の中の柚香を握り潰しても、おかしくない敵方である。
だがその手にそっと柚香を抱く様は、敵意を一切感じさせない。
まるで壊れ物を包むようにそっと柚香を抱いていた。
「な、なぜ……『豊山一ノ輪麓』守夏様が、この『紅葉山』に」
朱善の疑問は上空の侍従も思ったのだろう。
状況が読めなくなったことを危惧してか、すぐに身を翻し姿を消した。
守夏は侍従らの姿を一瞥しただけで、柚香を抱いたまま裏参道に静かに下りる。
「まさかあなたも『大紅葉山』の不在を知りここに」
「そなたが理由を知る必要はない。だがこの方の命を奪うつもりで来たわけでもない」
守夏の青い単眼はその中に眠る『紅葉山』の魂を射貫いていた。
かつて『紅葉山一ノ宮麓』の名を持っていた彼からすれば、触れてさえいれば『紅葉山』が今どのような状態にあるかはすぐに分かった。
青い目はどこか悲痛な歪み方をして、一度だけ瞬きをした後は、じっと柚香を見つめている。
朱善にはどこか入り込めない空気がある。だがこのままにもできず声をかけた。
「あの、守夏様、『大紅葉山』をお救い頂いたこと感謝いたします」
「幼きそなたの切なる願いに、答えたまでのことと──そういう事にしておくといい」
守夏はそれだけ言って空へ舞い上がり、瞬く間に闇に消えてしまった。
消えた方向は、朱善と柚香を奇襲した二柱の消えた海の方角である。
何か目的があってのことだとは思うが、朱善は追求できる立場にはなかった。
朱善の心を立て、『紅葉山』を救ってくれただけで十分すぎる計らいだった。
優しく柚香の体を揺すって起こすと、頭を抑えて深く深呼吸してから顔を上げた。
「朱善……私」
「大丈夫だ、敵は消えた」
「助けてくれたのね、ありがとう朱善」
一瞬何と返すべきか困ったが、柚香は返事を待たず朱善の無事を確かめた。
「腕、大丈夫?」
「柚香が無事であれば私はそれで十分だ。私のことより、自分のことを考えるんだ。何度も言い付けてあっただろう。その器の中にいらっしゃる『大紅葉山』の身に何かあれば」
そこまで口にして、朱善は自分の心と向かい合った。
もう、迷う必要などどこにもないのだ。
「いいや、違う。私は柚香が死んでしまうのではないかと、恐かった」
右手で柚香を引き寄せてぎゅっと胸に抱く。
柚香は朱善の胸の中で、その抱擁の意味が分からず戸惑った。
「ご、ごめんね。ひとりで強がってたけど私は何もできないし、やっぱり朱善がいなきゃ私は全然だめだね」
「私も、まだ──弱い。本当に何も守れない。だが強くなりたい。柚香、そなたのために。私は、稲荷である前にそなたの朱善だ」
それは、柚香が朱善に問いかけていた質問の答えだった。
朱善は、柚香を選ぶと決めたのだ。
「でも、そうすると朱善は」
「いいぞ」
朱善は脈略なくそれだけ言い放って少しだけ気まずそうに、そして不満さを抱いた様子で顔を上げた。
「私を『鮭』と呼ぶといい」
「『しゃけ』!?」
思わず、柚香は吹き出して笑ってしまった。
だがすぐに笑いを押し込み、朱善の言葉の意味を噛みしめた。
それは『紅葉山』を『柚子』が『あぶらあげ』と呼ぶのと同じ、深い絆の形だ。
「でもそれじゃ、『紅葉山一ノ宮麓』にはなれないでしょ。朱善の夢は叶わないかもしれないのよ」
「それでも柚香……そなたは私の『柚子』だ。そなたを守り、『大紅葉山』を守りたい。そなたはひとりではないのだ」
ぎゅっと柚香の背を抱きしめる手が熱い。
柚香は、いつの間にか自分の目から涙が落ちていることに気づいた。
柚香は手を伸ばして、朱善をぎゅっと引き寄せた。
「私は……『柚子』になれるの?」
「そうだ。そなたは私の『柚子』、私の嫁だ」
その言葉はどこか、事実はとてもねじ曲がっていて、柚香は顔を上げて微笑んだ。
「でもそれ……おかしくなっちゃうでしょ」
「何がおかしい」
「私は『紅葉山』なんだから、『柚子』にはなれない、そうでしょう?」
「私が言っているのは、ひとの子としてのそなただ」
「分かってる。分かってるけどね、もっとぴったりの二つ名があるでしょう。あなたは私を守ってくれる。それなら『紅葉山一ノ宮麓』じゃないの? 朱善」
そっと柚香の唇が朱善の唇に触れた。
「ありがとう。私の守り手。あなたは私の『紅葉山一ノ宮麓』よ」
柔らかな質感は一瞬だけだったが、『紅葉山』である柚香の言葉と心に偽りはなかった。
若く幼いふたつの心は、己の道行きを選んだ。
お互いの心は、まっすぐに同じ方向を見つめ
互いの弱さを受け入れて、心通じ合ったのである。
突然朱善は目を細めて身を丸める。
体の奥が燃えるように熱く滾り、何か形を作ろうとしている。
「……っ!?」
突然腹の奥から生まれた灼熱に、思わず呻き両手で腹を抱えた。
形のない膨大な熱が腹の中で形を変えているのが分かる。その形がやがて輪郭を得てくると、朱善も自身の中に生まれたそれが何だか理解した。
苦しそうに浮かべていた表情は、どこか笑顔に似た痙攣に変わる。
腹の中の輪郭は、十字をしていた。
朱善は小さな体には収まりきれないその熱を放出するように、腹を抱えていた手をゆっくりと解放し、手を広げる。
腹が淡い光に照らされて、形作られた十字──柄が見えた。
鐔から柄頭まで金糸で輝き、赤い小さな房が垂れている。
それは、朱善の腹を刃が突き抜けているようにしか見えない。
全容を理解できぬ状態だというのに、柚香は誘われるようにして柄を手にし、朱善の体を貫いている刀身を引き抜いた。
刃をそのまま空へ翳すと、その全容は月光を受けて輝く。
「き──れ──い」
柚香はその輝ける刃の全容を見つめ、気づいた。
赤い房を刀身につなぎ止める印象的な細工は、どこかで見たことがある。
社務所の売店の隅に置かれている紅葉山稲荷神社宝物録にあった。
一ノ宮の宝物殿に奉納されている刀と似てる。
「これを、なんで朱善が持ってるの……?」
生み出した刃を引き抜いた後の朱善は、どこか遠くを見ていた。
うっすらと発光していた体は、銀の髪にその光を残すだけになっていたが、まだ青い瞳はその光を吸って輝いている。
朱善の身に何が起こったのか分からない。
なぜ、突然刀を生み出したのか。
柚香は手にしていた剱を置いて、両手で朱善の肩を掴んだ。
軽く揺らすと、呆然としていた表情を横切るように、青い瞳から涙が一筋落ちる。
自分の落とした涙で覚醒したのか、朱善ははっと顔を上げて柚香を見る。何かを口にしようとして開けた口は、音を紡がない。
「大丈夫? 朱善、何か視えてたの?」
「あ──あぁ」
無事を印象づけようとしたのか、朱善は深く二回頷き肩を掴む柚香の手を緩やかに戻した。
「何があったの? 私……何か言っちゃいけないことを言ったの?」
「いいや。これは、『紅葉山一ノ宮麓』。山を守る象徴だ。ひとの子も知って居るかたちだろう」
「御神刃なのは知ってるよ。一ノ宮の社殿の奥にあるんだよね、本物は見たことないけど……」
「『大紅葉山』のもので、つまり今はお前のものだ柚香」
顔を上げた朱善は、おまけと言うように「私自身もお前のものだ」と追加した。
白刃をさらに細く鍛え束にしたような、美しい朱善の髪が柚香の頬を掠める。
「今『紅葉山』の柚香が、私に『一ノ宮麓』を命じたのだ。略式だが私はこの山の一ノ宮を司る稲荷神。侍従『紅葉山一ノ宮麓』朱善と為った」
「私は、そ、そんなつもりで……そんな大それた任命をする気じゃなくて、やだどうしよう。勝手に任命して『あぶらあげ』に怒られたら」
柚香を捕らえたまま、朱善は顔を近づけた。
「まだ児戯であるかもしれない。だけどお前は心から認めてくれた。お願いだ撤回はしないでくれ」
「……分かった。朱善……じゃなくて、『しゃけ』?」
朱善は、鼻から抜けるように脱力の笑みを零すと、柚香の肩を叩いた。
「いいとは言ったが、撤回する。それでは張りがなく気が抜ける。やはり名前で呼ぶことを許す。他の者には呼ばせなければ、私の名前はそなただけのものだ」
柚香は何も言葉を返せなかったが、そっと朱善の背に手を回し撫でてやった。
「朱善、『柚子』を助けるために立ち向かいたい、力を貸してくれる? 私は祐喜に『あぶらあげ』のことを分かって貰わなきゃいけない。これは私の、柚香だけの仕事。誰にも譲れないの」
朱善はゆっくりと柚香を抱く手を緩め、正面から黒い目を見つめた。
「祐喜の居場所も分かった。私の中に『あぶらあげ』がいることが、いろんなひとたちに知られてしまったみたいだから。もう一刻の猶予もないわ」
柚香の黒い目に、朱善ははっきりと映っている。
もうこの目に自分の姿が映らなくなるとしても、焼き付けて忘れられないほどに互いに見つめ合った。
「分かった。行こう」
朱善の言葉に、柚香は深く頷いた。
「作戦を決めましょう」
「そうだな……『大江山』のお姉様は今『大紅葉山』の気配に敏感になっておられる。私は柚香の宣下によって今『大江山』の管轄から外された。つまり『紅葉山』のものだ。そこを使おう」
「どうするの?」
「『大江山』で『紅葉山』の気配を臭わせば、駆けつけてくるはずだ。その間に柚香は『柚子』を連れて山を降り、ひとの世に帰れ。ひとの世と稲荷の世の境界は、柚香ならば視ることができるだろう」
「分かった。その作戦、朱善は危なくないわよね」
「私より柚香の方が危険だ。稲荷の世はひとの世と時の流れに大きな差がある。無駄に長居はできぬだろう。私が引きつけられる時間も相手も限界がある。その間、身を守るためには、ひとの子の持つ力では到底叶わない」
朱善にできないのならば、さらに高位である『大江山』銀朱を止めることなど到底叶わない。
「『あぶらあげ』は力を貸してくれるか……分からないわ。もう、本当に……弱ってしまってる」
「だがそなたは『紅葉山』だ。御神刀を振るう力がある。それは稲荷の世においてこそ真の力を発揮する。危機に陥った時は『紅葉山一ノ宮麓』を呼ぶのだ。私と意味を同じくするもの。そなたの刃だ。私は絶対にそなたの呼び声に応える」
朱善は御神刀を柚香の手に委ねた。
刀は意志を持っているかのように、光の砂となって姿を消したが、柚香の中にある。
呼べばすぐに自分の力になってくれることが手に取るように分かった。
「柚香、私はお前を信じる。主ととして、『柚子』として、そなた──そなたたちの願いを、叶えてみせる」
朱善は柚香の手をぎゅっと握りしめ、柚香もその手をゆっくりと握り替えした。