そして彼は眠る (1)
「え、お兄様が、朱善に『紅葉山』を譲ると仰ったのですか」
「そうだ」
『大江山』は夏の強い日差しの中にあった。
焦げるような陽光を避けるように、妻折傘の下で稲荷神二柱が逢瀬をしている。
日差しに霞むことない黒く艶のある髪を持つ稲荷神は『葵山』時雨。
日の光と紛うほどの白銀の髪を持つ稲荷神は、『大江山』銀朱。
髪はおなごの銀朱の方がずっと長いが、時雨も総髪の美髪を垂らしている。
お互い良く似た青い目を交わし、時雨の手土産の無花果羊羹を食する手を止めた。
「つまり、朱善が『紅葉山』になるという事でございますか? 一体どういった経緯でございましょう。朱善も祥香もまだ私預かりで分社先は決められておりませんが……」
「下らん口約束だ。先だっての『豊山』の宴一件で分社達を『紅葉山』に預けただろう。その時に『大紅葉山』が分社らと鬼遊びをしたそうなのだ」
鬼遊びとは物陰などに隠れ、それを鬼が見つけるという子供の遊びのことか、と銀朱は確認をしてしまった。
時雨は羊羹へ視線を落としたまま、大きくため息をついて子細の説明をした。
鬼ごっこで定めた刻限内に『紅葉山』が隠れた兄妹を見つけた場合は、分社二柱は早々に寝る。
刻限内に見つけられなかった場合は、朱善に『紅葉山』を譲る。
随分と賭けの内容の重さが違うが、そういう取り決めだったそうだ。
「そもそもなぜそんな賭け事を持ち出されたのでしょう。寝かしつけるなら他にも方法がありましょうに」
勝負の内容の方に注視して欲しかったが、銀朱はそこが気になるようだ。
時雨は視線を軽く空へ投げてから、手元に戻して憶測で語った。
「あの宵、『大紅葉山』を殺めるつもりで『豊山一ノ輪麓』守夏が紅葉山へ来ていた。恐らく『大紅葉山』は巻き込まないようにと、鬼遊びにかこつけて、分社らを争いの場から退けたのだ」
時雨の言葉に、銀朱は眉間に皺を寄せ「あの白けむくじゃらのせいですか」と毒づいた。
ふたりにとっても、そして話題の『紅葉山』にとっても『豊山一ノ輪麓』守夏は敵方になる。
突然の奇襲を受けた『紅葉山』は、銀朱から預かった二名を巻き込むまいとしたのである。
「なるほど、鬼遊びであれば自然とお兄様から離れることになりますしね。さすがお兄様、幼子相手も手慣れておられる」
どこか納得するところが違うと時雨は思うが、銀朱が『紅葉山』贔屓なのは知ったことだった。
一々思うところはなかった。
一応、ではあるが。
「そして『大紅葉山』が守夏との問答の末、鬼遊びの刻限は過ぎてしまい──結果、朱善に『紅葉山』を譲ると、そういうことになったようだ。あの方の中ではな」
時雨は語尾を強めて口の中に羊羹を放り混んだ。
咀嚼が乱暴になるのは、『紅葉山』の行いに納得がいかないからである。
「未熟な分社相手にも約束を反故になさらないところは、お兄様らしいです」
「そこは感心するところではないぞ」
「しかし納得がいきました。朱善はあの一件より、よくお兄様の元へ行きたがるのです」
「よもや、『大紅葉山』に早く『紅葉山』を譲れなどと、阿呆なことを催促しに行っているのではあるまいな
「そのような話は聞きません。さすがに本気で山号を譲り受けようと思っているわけではないかと……山号を譲り受けるということは、お兄様自身が消えるということか、また別の山を冠するということです、それくらいは朱善も分かっています」
話題の『紅葉山』は、名を雅親朱秦と言う。
その雅親朱秦としての個体は、銀朱や時雨が知る限り稲荷の世開闢より『紅葉山』を守り続けた。
外見はひとで言うところの七歳ほどの幼子であるが、その内側に重ねる年輪は、銀朱と時雨を足してもまだ足りない。
今回問題にされているのは、その『紅葉山』という名を持つ『もの』が、雅親朱秦から朱善へと変わるというそれだけのことであったが、名を譲った雅親朱秦はどうなるかということが大事なのである。
消えるなどと言う事は、もっての他であるというのが時雨の主張である。
だが山を離れ、別の山を守る担い手となるとしても、果たしてそれに見合う山があるのかという事だった。
『紅葉山』がひとの子にも稲荷兄弟たちにも偉大な山であるということは、その座を退いた雅親朱秦が次に守るべき山もまた、その働きに合った山でなければならない。
だが、この国にはもう万という稲荷神が散っている。
名山と呼ばれる山にはすでに他兄弟が守り、飽和状態と言ってもいい。
つまり行き場がないのだ。
行き場のない稲荷はどうなるか。
当然、消滅以外ない。
「先ほど『紅葉山』で挨拶した折りに朱善見つけ、本気にするなと言いつけておいたが、聞くところ本人は『紅葉山』より侍従の『紅葉山一ノ宮麓』になりたいようだな」
「はい。そうです。ですから朱善は隠れ鬼の賭け事のことなど、すっかり忘れておりますよ」
『紅葉山一ノ宮麓』というのは、『紅葉山』の侍従の位である。
銀朱や時雨も侍従を持つが、それらとは存在自体が異なり、稲荷神がその役割につく。
理由は単純明快、『紅葉山』が広大であるからである。
山を三つに輪切りにし、頂上から一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮と分け、それぞれを侍従が治める。
よって『紅葉山一ノ宮麓』は、侍従であり稲荷神と言う、特殊な立ち位置になるのだ。
「総本山が朱善をどこへ分社させるつもりかは分かりませんが、もし朱善の願いが叶うなら、私は喜んでその任を任せたいと思います」
銀朱は常々、『紅葉山』の兄が心配でならなかった。
彼は本来三柱の侍従を持つ身でありながら、今は誰もつけていない。
たったひとりで、広大な『紅葉山』を守り続けているのである。
彼を守りたいと思う銀朱の願いを、銀朱の子であり弟である朱善が果たしてくれるなら、これ以上のない喜びだった。
「間違えるな。当の『大紅葉山』は朱善を『紅葉山』にしようとしていて、自分の侍従にしようとしているわけではない」
時雨の眉間に寄せた皺が青筋に変わって脈打っていた。
『紅葉山』のことを考えると頭が痛い。
額に手を当て項垂れる。
「問題は朱善ではなく『大紅葉山』だ。あの方は山を譲れば消えてしまってもいいと、そう思っているに違いない。総本山にもすでに山号返上の願い出をしたようだ」
総本山は稲荷たちを統べる管理機関である。
そこへ意見を出すということは遊びではない。
「そこで、私が十色の筆頭の位に置かれたのだろうな。恐らく『紅葉山』の監視の為だろう。本来監視の役目を担っていた『大江山』がこうであるからな」
「こう、とは何です。別にお兄様は誰かに迷惑をかけるような行いはしておられないでしょう」
銀朱は頬を膨らませるが、時雨はとんとんと虚空を指で叩いた。
こういう問題が起きているだろうという示唆である。