わたくしの弁当を捨てるなら、ゴミのようにあなたを捨てましょう
二度目の人生では、絶対に裏切られない。
現代の日本で、彼女は腕の良い料理人だった。小さなレストランで朝から晩まで働き、ようやく独立資金を貯め、開業。そして結婚もした。
だが夫は、若い女性スタッフと浮気。
更に、徹夜で仕込んだ記念日のフルコースを前にしての一言。
「こういうの、重いんだよな」
その後に見た、夫が浮気相手に送ったメッセージ。
――君のほうが癒やされる。
怒りと絶望の中で倒れ、気づけば彼女は、伯爵令嬢マリアンヌとして生まれ変わっていた。
──今度こそ、愛される妻になる。
それが彼女の誓いだった。
◇
婚約者は若き侯爵、ダルク・オスヴァルド。
社交界でも名高い美貌の持ち主。だがその気質は傲慢で、無意識に他人を見下す男だった。
侯爵夫人となってからも、マリアンヌは前世の知識を生かし、彼のために料理を作り続けた。
彼が視察のたび、栄養と保存性を計算した弁当を持たせる。
香草で臭みを消したロースト肉。
冷めても柔らかなオムレツ。
香りが持続する焼きたてのパン。
それは彼女なりの愛情だった。
だが――
ダルクは弁当を受け取り、蓋を開けて中を一瞥する。
「……相変わらずだな」
鼻で笑う。
「よくもまあ、毎回ここまでやるものだ」
マリアンヌの胸を締め付ける。
「努力家なのは結構だが……侯爵夫人が“必死”なのは、美しくない」
その言葉は静かだったが、刃のように鋭い。
マリアンヌは微笑みを崩さない。
「重たい愛情は、白けさせる」
──重たい。
その一言が胸の奥に沈む。
前世で浴びた言葉と同じ響き。
「まあ、精進するといい」
マリアンヌは爪が食い込むほど拳を握りしめる。
それでも彼女は、静かに頭を下げた。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
声は乱れない。
乱さぬよう、必死に整えた。
ダルクは悠然と屋敷を後にした。
――必死でも、構わない。
幸せな人生を歩めるなら、それでいい。
だがその思いは、静かに踏みにじられてしまう。
◇
「……あら?」
視察地を通りかかった彼女は、見てしまう。
護衛の騎士が、見慣れた木箱を無造作に抱え、路地裏で中身を捨てる──その瞬間を。
ドサッ。
ロースト肉が泥に沈み、オムレツが崩れ、パンが黒く汚れる。
香草の香りだけが漂う。
今朝、彼の疲労を思い、考え抜いた末の弁当。
胃に負担をかけぬよう油は控えめにし、疲労回復のため薬草をわずかに加えた。
「……どういうことかしら?」
驚くほど、彼女の声は冷静だった。
騎士は青ざめ膝をつく。
「侯爵様のご命令で……奥様の料理は味が薄く、お口に合わないと……」
──薄い。
──口に合わない。
その言葉が胸を貫く。
マリアンヌは泥にまみれた弁当の前に立ち尽くした。
震える指でオムレツに触れると、ぐしゃりと崩れた。
前世では「重い」と言われた。
今世では「口に合わない」と捨てられる。
胸の奥が空っぽになる。
涙は出なかった。
泣けば、前世から何も変わっていないと認めることになる。
「……マリアンヌ様」
低い声がした。
振り返ると、そこには王宮の医師アシュレイが立っていた。彼は侯爵家にも出入りしており、マリアンヌとは以前から顔を合わせる間柄であった。
彼は事情を問わなかった。
ただ弁当を見つめ、静かにしゃがみ込む。
「お待ちになって、それは──」
制止の声もむなしく、彼は泥を払い、ロースト肉を口に運んだ。
ゆっくりと噛みしめ、目を閉じる。
「……うまい」
低くはっきりした声。
「香草の使い方が巧みだ。脂が軽い。冷めても固くならないよう計算されている」
さらに一口。
「これを食べたら、“どこにいても必ず帰ろう”──そう思える味だ」
その言葉で、彼女の胸の奥が崩れた。
涙が泥の上に落ちる。
「どうして……そんなものを食べるのです」
「そんなものではない」
即答だった。
「これは、あなたの愛情の証だ」
アシュレイは再び食べ始める。
「捨てる者がいるなら、拾う者がいる。俺なら、あなたの料理を捨てない」
その言葉が、凍りついた心を溶かした。
彼は最後まで弁当を食べきった。
泥にまみれたそれを。
まるで宝物のように大切に思いながら。
◇
その頃。
ダルクは視察先で、若い子爵令嬢ジュリエの手作り菓子を絶賛していた。
「うまい。こういう甘さを求めていたのだ」
ジュリエが頬を染める。
ダルクは笑う。
「ふっ……必死というのは滑稽だ。こういう自然さが良いのだ」
彼は常に、自分が選ぶ側なのだと思っていた。
やがて使用人を通して、マリアンヌは知る。
約一年後に、ダルクはマリアンヌと離婚し、ジュリエと再婚するつもりだという。
前世と同じ構図。
だが――
今回は違う。
泥にまみれた弁当を「うまい」と言ってくれた男がいる。彼女の価値を笑わなかった男がいる。
ならば──
愛されようと必死にはならない。
選ばれる側ではなく、選ぶ側になる。
マリアンヌの瞳から迷いが消える。
一年後に向けて、静かに準備を始めるのだった。
◇
一年後。
侯爵家の舞踏会は、王都でも指折りの規模で催されていた。
理由は一つ。
ダルク・オスヴァルドが、重要な発表を行うからだ。
ざわめく貴族たちの前で、ダルクは壇上へと上がる。
その姿に、誰もが一瞬だけ目を疑った。
かつては細身で、どんな礼装も見事に着こなす体躯の持ち主だった。
だが今は──
礼装の上着は腹部が張りつめ、金糸の刺繍が歪んでいる。
顎の線は曖昧になり、首元には肉が重なり合う。
段上に上っただけで、呼吸はわずかに荒い。
「諸君。本日は、我が侯爵家に関する重大な決断を発表する」
以前より低く、ややこもった声が広間に響く。
その視線が、ゆっくりとマリアンヌへ向く。
彼女は静かに立っていた。
この一年、彼女は健康を考えた料理も弁当も作らなくなった。
その代わり、侯爵家の食卓には濃厚な料理が並ぶようになった。
脂の乗った肉料理。
砂糖を惜しみなく使った菓子。
濃い味付けのスープ。
すべては「侯爵様のお好みに合わせた」もの。望んだのは、ダルク自身だった。
「結婚から三年、我が家には未だ世継ぎが生まれていない」
場が静まり返る。
「侯爵家の存続は最優先事項だ。よって私は、妻マリアンヌとの離婚を決断した」
ざわめきが広がる。
「彼女に落ち度があるとは言わぬ。だが結果がすべて。子を成せぬ婚姻は無意味である」
言い切った。
慈悲深い決断を下したかのような顔で。
会場では、ジュリエが涙ぐむふりをしている。
ダルクは満足げに微笑んだ。
会場の視線がマリアンヌに集まる。
彼女はゆっくりと一歩前へ出る。
所作は静かで、美しい。
「……承知いたしました」
静かな声だった。
誰もが、彼女が泣き崩れると思っていた。
だが──
マリアンヌは、にこりと微笑む。
「わたくしも侯爵家のためを思えばこそ、身を引く覚悟はできております」
ざわめきが揺れる。
彼女はまっすぐダルクを見据える。
「ですが一つだけ。ダルク様──」
柔らかな声音。
「“必死なのは、美しくない”とおっしゃいましたわよね?」
ダルクの眉がピクリと動く。
「今のご自分の姿をご覧になってはいかがでしょう」
穏やかに告げる。
「“わたくしの努力”と“あなたの今の姿”──どちらが、美しくないのでしょうか?」
凍りついた沈黙。
「な、何を──」
ダルクが反論のために一歩踏み出した、その瞬間だった。
ぶちり。
礼装の上着のボタンが、腹圧に耐えきれず弾け飛ぶ。
「きゃっ」
会場の前列にいた貴婦人が小さく悲鳴を上げる。
動揺したダルクが更によろめいた瞬間。
びりっ。
布を裂く鈍い音。
会場が静まる。
キュロットの後ろ、中心の縫い目が臀部の丸みに耐えきれず裂ける。
裂け目から、白い麻布がわずかに覗く。
数秒の沈黙。
どっと笑いが広間を満たした。
ジュリエの顔が引きつる。
ダルクは顔を赤くし、臀部を押さえる。
「な……何を笑う!」
だが、もう止まらない。
そのとき──
アシュレイが一歩前へ出る。
「発言を許されたい」
低く、静かな声。
「医師の診断によれば、侯爵殿は過度な食事と不摂生により体質が著しく悪化しているとのこと」
どよめきが走る。
「もしかしたら、世継ぎを授からぬ原因は、ダルク様にあるのではないでしょうか?」
ダルクの視線が泳ぐ。
「き、貴様……!」
マリアンヌは静かに一礼する。
「この一年間、ダルク様のお好みに合わせた料理を作ってきました」
甘い菓子も。
脂の多い料理も。
「先々を考えず、欲望のままに不摂生を繰り返してきた結果が、これです」
マリアンヌは更に告げる。
「わたくしの作ったお弁当と同じように、わたくしも捨てるおつもりだったのでしょう?」
穏やかな微笑み。
「ですが――捨てられるのは、ダルク様。あなたの方です」
そう言って背を向ける。
もはや“必死”な女ではない。
選ぶ側の女として。
ダルクの崩れた体型と、崩れた尊厳だけが、壇上に取り残された。
◇
その後、ダルクの体調は目に見えて悪化した。ストレスにより過食が続く。
ジュリエにも見離され、公務も滞り、ついには侯爵家の領地は王家により没収された。
雨の午後。
マリアンヌの屋敷の門を、訪ねる者がいた。
応接室。
通されたダルクは、もはや「元侯爵」と呼ぶのも憚られる姿だった。
頬はこけ、目の下には濃い隈。
外套は湿り、裾が泥で汚れている。
「……久しいな」
声がかすれている。
マリアンヌは向かいに座り、静かに紅茶を置いた。
「ご用件を」
その距離のある敬語に、ダルクの喉がひくりと鳴る。
「……戻ってきてくれ」
沈黙。
「頼む、マリアンヌ。私は間違っていた」
彼は立ち上がり、机越しに身を乗り出す。
「君の……君の料理が食べたいんだ」
あまりにも自己中心的な要望。
「医師も言った。食生活を正せと。だが私は、何を食べても味がしない」
声が震える。
「君の料理だけだ。思い出せるのは」
ぽた、と涙が落ちる。
「弁当を捨てさせたことも……君の努力を笑ったことも……全部、取り消す」
その場を取り繕っている顔だった。
「君がいないと駄目なんだ」
とうとう机を回り込み、マリアンヌの足元に膝をついた。
「頼む……もう一度だけ」
額を床につける。
「やり直そう。子どもができなくてもいい。世継ぎなどどうでもいい」
必死だった。
かつて“必死は美しくない”と言った男が、みっともなく。
「君の料理を、毎日……食べたい。君も復縁を望んでいるんだろ?」
鼻をすする音。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。
「……ダルク様」
静かな声。
「復縁はあり得ません。それに──」
彼が顔を上げる。
「あなたが欲しいのは、料理でも、わたくしでもない」
ゆっくりと続ける。
「自分の欲望を満たす都合の良い存在です」
ダルクの唇が震える。
「違う……」
「いいえ」
即答だった。
「あなたは、わたくしを愛したことなど一度もない。――いえ、きっと誰かを愛したことすら、ないのでしょうね」
ダルクは這うように手を伸ばす。
「マリアンヌ……お願いだ……」
その瞬間。
扉が開いた。
「そこまでにしろ」
低い声。
偶然、訪ねてきたアシュレイだった。
「貴様には関係ない!」
「関係ある。彼女が拒んでいる」
「私は夫だ!」
ダルクが言う。
「元、だろ?」
アシュレイは、静かだが容赦ない言葉を告げる。
マリアンヌはゆっくり立ち上がった。
「ダルク様……お帰りください」
声は穏やかだった。
「わたくしは、もうあなたの妻ではありません」
ダルクの目から、大粒の涙がこぼれる。
「本当に……終わりか」
「ええ」
迷いなく。
「あなたはわたくしを“重い”と笑った」
静かに告げる。
「ですが、あなたのその未練のほうが、よほど重い」
息を呑む。
「お帰りを」
やがてダルクは、力なく立ち上がる。
最後に一度、振り返る。
しかしマリアンヌは、もう彼を見ていなかった。
視線の先にいたのは――
アシュレイ。
その瞬間、ダルクは悟る。
自分は本当に、捨てられたのだと。
扉が閉まる。
静寂。
アシュレイが心配そうに尋ねる。
「……怪我はないか?」
マリアンヌは、ふっと笑った。
「ええ、大丈夫です」
その声には、震えはなかった。
「また、助けていただきましたわね。何かお礼をさせてください」
マリアンヌが微笑んでそう告げると、アシュレイはわずかに視線を逸らした。
「そ、その……」
耳の先がうっすらと赤い。
「もし差し支えなければ……弁当を。あなたの作った弁当を、もう一度食べたい」
どこかぎこちない、それでいて真剣な声音だった。
マリアンヌは一瞬だけ目を丸くする。
けれど次の瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「はい。喜んで」
◇
春の陽光がやわらかく降り注ぐ丘の上。
白いクロスを広げ、マリアンヌは籠を開けた。
中から現れたのは、彩り豊かなサンドイッチと、野菜のマリネ、香草を効かせたローストチキン。
向かいに座るアシュレイが、穏やかに目を細める。
「うまそうだな」
「ふふっ……当然ですわ」
アシュレイは一口食べ、静かに頷く。
「うまい!」
その言葉に、胸の奥がふわりと温かくなる。
「今回は、栄養バランスよりも“楽しさ”を優先しましたの」
「十分に計算されている味だ」
婚約も、約束もない。
けれど並んで座る距離は自然で、無理がない。
「これを食べたら、“どこにいても必ず帰ろう”と思える」
以前と同じ言葉。
だが今日は、涙も泥もない。
マリアンヌは微笑んだ。
「では、帰ってきてくださいませ」
「もちろんだ……必ず、あなたのもとに……」
アシュレイが照れたようにそう告げると、二人で笑う。
重たい愛情ではない。
捨てられることもない。
ただ――
一緒に食べる時間が、こんなにも満ち足りている。
春風の中、マリアンヌは静かに思う。
二度目の人生にして、ようやく真実の愛へと辿り着けるのだと。
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