夢の翻訳機
エヌ氏は、しがない発明家だった。彼が一生を賭けて完成させたのは「言語翻訳機」の最終形。といっても、英語を日本語にするような代物ではない。生きとし生けるものの「本音」を、強制的に言語化するスピーカーだ。
「これさえあれば、世界から争いはなくなるはずだ」
エヌ氏は完成したばかりの機械を手に、まずは自分の妻に向けてスイッチを入れた。
ちょうど夕食時、妻は無愛想に「今日の魚、少し焼きすぎたわ」と言った。エヌ氏が緊張してスピーカーを向けると、機械はこう喋った。
『あなたが健康でいてほしいから、焦げを食べてほしくないの。いつもお仕事お疲れ様』
エヌ氏は驚き、そして涙した。次に彼は、隣の家で吠え続けている獰猛な番犬に機械を向けた。
「ウーッ、ワンワン!」
機械が翻訳する。
『僕の仕事はここを通る人を守ることなんだ。みんな、今日も安全に帰ってね!』
これに自信を得たエヌ氏は、世界平和を掲げて大国同士の首脳会談の場へ乗り込んだ。
テレビの向こう側では、二人の指導者が険しい表情で睨み合い、今にも戦争が始まりそうな罵声を浴びせ合っている。エヌ氏は警備を潜り抜け、壇上に機械を設置した。
「貴国のやり方は容認できない! 直ちに軍を引け!」
一方の指導者が叫ぶ。すると機械が朗々と響かせた。
『実は、自分の弱さを認めるのが怖いだけなんだ。本当はあなたの国の文化を尊敬しているし、握手をして安心したい。どうか、きっかけをくれ』
もう一人の指導者が唖然とし、そして顔を赤らめながら言った。
「……そんな、急に言われると照れるじゃないか。実は、私も同じことを考えていたんだ」
会場は一瞬で静まり返り、次の瞬間、割れんばかりの拍手に包まれた。世界中にその様子が中継され、人々は気づいた。自分たちが普段口にしている「攻撃的な言葉」の裏側には、臆病なほどの「愛」や「承認欲求」が隠れていることに。
それから数年後、エヌ氏の機械はゴミ箱に捨てられていた。
もはやそんなものは必要なかった。人々は相手の言葉をそのまま受け取るのではなく、その奥にある「温かな本音」を、自分の心で直接聞き取れるようになったからだ。
世界は少しだけ不器用で、どうしようもなく優しい人たちで溢れていた。




