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 私の住むアパート『寿荘』の二〇一号室は、築四十年のヴィンテージ物件だ。夏はサウナのように暑く、冬は冷蔵庫のように寒い。そして何より、建て付けが悪い。壁と柱の間、タンスの裏、鴨居の溝……いたるところに「隙間」が存在する。その日、私は絶望の淵に立っていた。なけなしの五百円玉が手から滑り落ち、冷蔵庫と壁の間の、わずか数センチの隙間へと転がり込んでしまったのだ。


「ああっ!私の晩ご飯代!」


 私は悲鳴を上げ、床に這いつくばった。暗くて狭い隙間。スマホのライトで照らしながら、定規を差し込んで五百円玉を掻き出そうとする。カチャ、カチャ。硬貨の感触があった。よかった、まだ届く。私は息を止め、慎重に定規を動かした。その時だった。隙間の奥から白い手がスッと伸びてきて、私の五百円玉を押さえつけたのだ。


「……え?」


 思考が停止する。冷蔵庫の裏に、人が入れるスペースなどない。恐る恐るライトの角度を変えると、隙間の闇の中に、ギョロリとした充血した目が浮かんでいた。


「……見ぃ〜てぇ〜るぅ〜ぞぉ〜……」


 出た。家の中のあらゆる隙間に潜み、住人と目を合わせようとするストーカー怪異、『隙間女』だ。私の不運は、ついに自宅を事故物件へと昇華させてしまったらしい。


「いやぁぁぁぁ!泥棒!いや怪異!私の五百円返してぇぇ!」


 私がパニックになって叫ぶと、玄関のチャイムがピンポーンと鳴った。タイミングよく現れたのは、いつものチャコールグレーのスーツ姿。比留間隠岐だった。


「やあハピネス君。君の悲鳴が聞こえた気がしてね。差し入れの羊羹を持ってきたよ」


「局長!羊羹どころじゃないです!冷蔵庫の裏に女が!私の財産を占拠してます!」


 私が泣きつくと、比留間は「ほう」と興味深げに冷蔵庫の隙間を覗き込んだ。


「……見ぃ〜てぇ〜るぅ〜ぞぉ〜……」


 隙間女が再び呪詛のように呟く。普通の霊能者なら塩を撒く場面だ。しかし、比留間はあろうことか、懐から名刺を取り出し、その狭い隙間に差し込んだ。


「初めまして。都市伝説調査局の比留間です。突然ですが、お嬢さん。今の住環境に満足していますか?」


「……は?」


 隙間女の声が素に戻った。


「君のその『狭いところが好き』で『じっと人を見つめる集中力がある』という特性。非常に得難い才能だ。しかし、こんなホコリだらけの隙間で一生を終えるのは、キャリア形成の観点から非常にもったいない」


「……な、なによあんた」


「単刀直入に言おう。弊社で働かないか?完全リモートワーク、福利厚生完備だ」


 比留間はタブレットを取り出し、何かの求人ページを隙間女に見せた。


「君に紹介したいのは、サーバー監視のセキュリティエンジニアだ。二十四時間、モニターという『隙間』から不正アクセスを見張り続ける仕事だよ」


「……エンジニア?」


「そう。君のその粘着質な視線があれば、どんな小さなバグやサイバー攻撃も見逃さないだろう。現代社会において、君のような人材(怪異)は引く手あまたなんだ」


 隙間女の目が泳いだ。


「で、でも……私、外に出るのが怖くて……人と会うのも苦手だし……」


「だからこそのテレワークだ。君はずっとその隙間にいていい。支給するノートPCをそこに引きずり込み、誰とも顔を合わせず、ただひたすら画面を見つめていればいいのだ。月給は三十万。どうだね?」


「さ、三十万……!?」


 ゴクリ、と喉が鳴る音がした。隙間女にとって、誰にも見つからずに生きるための資金源は喉から手が出るほど欲しいはずだ。


「や、やる……!私、やるわ!ポチポチするだけなら得意よ!」


「商談成立だ。ハピネス君、契約書を持ってきてくれたまえ」


 比留間が指を鳴らす。私は呆気に取られながらも、鞄から書類を取り出した。すると、冷蔵庫の隙間からズルズルと蒼白い腕が伸びてきて、器用にペンを走らせてサインをした。さらに比留間は、最新の薄型ノートPCを隙間に差し入れた。


「ようこそ都市伝説調査局へ。君のコードネームは『ファイアウォール』だ。さっそく今日から、ウチの事務所のサーバー監視を頼むよ」


「了解しましたボス。……フフ、このキーボードの隙間、落ち着くわぁ……」


 隙間女はPCを抱えて奥へと引っ込んでいった。直後、カタカタカタッ!とものすごい速さのタイピング音が冷蔵庫の裏から聞こえ始めた。


「……解決、したんですか?」


「ああ。彼女は優秀な社員になるだろう。なにせ寝食を忘れて没頭するタイプだからね」


 比留間は満足げに羊羹の包みを開けた。


「さて、お祝いにお茶にしようか。ハピネス君、お湯を」


「あ、はい。……って、私の五百円玉!」


 私は思い出した。肝心の五百円玉がまだ隙間の中だ。慌てて再び定規を突っ込む。


「すみませーん!新人さーん!その下にある五百円、返してもらえますかー!?」


 しかし、返事の代わりに、隙間の奥から冷ややかな声が返ってきた。


「……今、業務中ですので。私語は慎んでいただけますか?」


「えええええ!もう社畜になってる!」


 私が無理やり定規で五百円玉を弾き出そうとした、その瞬間。ガッ!と力が入りすぎた定規が冷蔵庫の足に引っかかり、テコの原理で冷蔵庫が傾いた。


「あっ」


 ズドォォォン!!


 バランスを崩した冷蔵庫が倒れ――なんと、這いつくばっていた私の背中の上にのしかかった。


「ぐえぇぇぇぇぇ!重い!重いぃぃぃ!」


 私はカメのように床と冷蔵庫の「隙間」に挟まれてしまった。


「おや、ハピネス君。君も隙間女になりたかったのかい?」


「違います!助けて!腰が!腰が砕けるぅぅ!」


「やれやれ。これでは羊羹が食べられないじゃないか」


 比留間は優雅にため息をつき、私の救助よりも先に、倒れた冷蔵庫の側面に茶器を置き始めた。私の五百円玉は、冷蔵庫の下敷きになり、二度と取れない場所へと消えていった。こうして、我が社に優秀なエンジニアが加わった。彼女のおかげで事務所のセキュリティは鉄壁になったが、私は家に帰るたび、冷蔵庫の裏から聞こえる「デバッグ完了……ヒヒッ」という笑い声に怯える羽目になったのだった。

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