三
深夜二時。首都高速道路湾岸線。 私、泊里穂香は、今にも分解しそうなほどガタつく軽バン「都市伝説調査局号(仮)」のハンドルを握りしめていた。
「きょ、局長!これ、本当に大丈夫なんですか!?エンジンから聞いたことのない異音がしてますけど!?」
私が悲鳴を上げると、助手席で優雅に紅茶(ポット持参)を楽しんでいる比留間隠岐は、涼しい顔で答えた。
「心配ない。この車は先日、廃車置き場からタダで譲り受けた逸品だ。走っているのが奇跡みたいなものだから、いつ止まっても不思議ではないよ」
「それを『大丈夫』とは言わないんですよ!」
今日の任務は、千葉の山奥で発見された「呪いの藁人形(五寸釘付き)」の回収だった。 深夜料金の方が安いというセコい理由で、こんな時間の移動を強いられている。 しかも、私の「不運」は高速道路上でも健在だ。 ETCレーンのバーが開かずに係員を呼ぶ羽目になり、合流では入る隙間がなく側道で十分間立ち往生し、フロントガラスには走行中のトラックから飛んできた小石が直撃してヒビが入っている。
「それにしても、遅いね」
比留間がメーターを覗き込む。針は時速六十キロを指していた。 アクセルはベタ踏みだ。
「これ以上出ないんです!坂道だと自転車に抜かれるレベルなんですから!」
「ふむ。これでは丑の刻参りに間に合わないな」
「間に合わせなくていいですよそんなの!」
その時だった。 バックミラーに、猛烈な勢いで迫ってくる光の点が見えた。
「ん?なんだあれ……」
光は一瞬で大きくなり、私たちの軽バンの背後に肉薄する。 パッシングの嵐。煽り運転だ。
「ひぃぃ!煽られてます!ただでさえ遅いのに!」
「おや、元気な車だね。道を譲ってあげたまえ」
私は慌てて左車線に寄る。 しかし、後続の影は私たちを追い抜こうとはせず、真横に並走してきた。 車ではない。 それは――四つん這いで走る、老婆だった。
「……え?」
時速六十キロで走る車の横を、白髪を振り乱した老婆が、まるで野生動物のようなフォームで並走している。 その顔はシワだらけだが、目は爛々と輝き、口元には不気味な笑みが張り付いている。
「きひひひひッ!遅いねぇ!遅いねぇ!」
窓ガラスをコンコンと叩く老婆。 都市伝説『ターボババア』。 高速道路に出没し、時速百キロ以上で車を追い抜いていくという、無駄にハイスペックな怪異だ。
「で、出たぁぁぁぁ!!ターボババアだぁぁぁ!」
「ほう。あれが噂の。実物は想像以上に前傾姿勢だね」
比留間は感心したように窓を開けた。走行中ですよ局長!
「おい君!少しフォームが乱れているぞ!」
比留間の大声に、ターボババアが一瞬キョトンとした。
「……ああん?」
「君だ君!君の走りは『四足走行』に見えるが、重心が前に突っ込みすぎている!それだと大腿四頭筋への負担が大きすぎて、長距離には向かない。後半バテるタイプだろう?」
ターボババアの表情が引きつった。
「な、なによ若造……!アタシは時速百四十キロまで出せるんだよ!」
「瞬間最大風速だろう?見てごらん、君の膝、かなり内側に入っている。そのままだと半月板を損傷して、老後は車椅子生活だぞ。まあ、もう老婆なんだが」
「うっ……!た、確かに最近、膝が……」
図星だったらしい。ターボババアの速度が少し落ちた。
「それに、その靴だ」
比留間が老婆の足元を指差す。彼女が履いていたのは、底のすり減った便所サンダルだった。
「弘法筆を選ばずと言うが、ランナーは靴を選ばねばならない。そんなグリップ力のない履物でアスファルトを蹴るのは、自殺行為だ」
比留間は後部座席に手を伸ばし、何かを取り出した。 箱に入った、新品のランニングシューズだ。 蛍光ピンクの、やたら派手なやつ。
「これは……?」
「以前、安売りで買ったがサイズを間違えてね。君にやろう。最新の厚底カーボンプレート入りだ」
比留間は窓から身を乗り出し、並走するターボババアに靴箱を差し出した。
「さあ、受け取れ!そして正しいフォームで走るんだ!背筋を伸ばし、骨盤を前傾させ、地面からの反発を推進力に変えるイメージで!」
「お、おう……!」
ターボババアは走りながら器用に箱を受け取ると、なんとその場で(走りながら)サンダルを脱ぎ捨て、新品のシューズに履き替えた。 その瞬間。
ドシュッ!!
老婆の足元から、ジェット機のような音が響いた。
「こ、これは……軽い!地面が勝手に後ろへ流れていくようだわ!」
「そうだ!それがテクノロジーだ!さあ行け!誰よりも速く!風になれ!」
「ありがとうイケメン!アタシ、もう一度夢を追いかけてみるよぉぉぉぉ!」
ターボババアは感涙しながら加速した。 時速百キロ、百二十キロ、百五十キロ……。 彼女は赤い残像を残し、夜の闇へと消えていった。
「……行っちゃいましたね」
私はポカンと口を開けていた。
「ああ。彼女ならきっと、箱根駅伝の復路あたりで区間新記録を出してくれるだろう」
「怪異をスポーツ界に放流しないでくださいよ……」
一件落着。 比留間は満足げに紅茶を啜った。
「さて、邪魔者も消えたし、安全運転で行こうか」
「そうですね。さすが局長、見事なコーチングでし……あっ」
プスン。 ボンネットから黒煙が上がった。 同時に、車体がガクンと揺れ、静かに停止していく。
「……ハピネス君?」
「……エンジン、焼け付きました」
「なぜだ。オイル交換はしたばかりだぞ」
「たぶん、さっきのターボババアと並走しようとして、無意識にレッドゾーンまで回しちゃってたみたいです……」
深夜の高速道路。路肩。 非常停止板を置く私の横を、大型トラックが爆音で通過していく。 冷たい風が身に沁みる。
「局長」
「なんだね」
「JAF、呼びますけど」
「うん」
「私のスマホ、充電切れです」
「……」
比留間は無言で空を見上げた。 その夜、私たちは夜明けまでヒッチハイクをする羽目になった。 止まってくれたのは、先ほどのターボババア(復路)だけだったが、さすがに乗せてはくれなかった。
「頑張れよ若造ォ!」
笑顔で走り去る彼女を見送りながら、私はアスファルトに膝をついた。 借金完済まで、まだ遠い。




