二
その日、私、泊里穂香は、人生の岐路に立たされていた。 場所は近所のスーパー『ライフ』の惣菜コーナー。時刻は19時58分。 私の目の前には、半額シールが貼られるのを待つ一パックの「国産牛切り落とし」が鎮座している。
(いける……!今日の所持金なら、半額になれば買える!)
店員のおばちゃんがシール機を構えた。私はスタートラインについたスプリンターのように重心を落とす。 だが、私の不運を甘く見てはいけない。
バチッ!
店内の照明が一瞬落ちた。落雷による瞬断だ。 そして電気が復旧した時――目の前の肉は、隣にいた屈強な主婦の手によって忽然と消え失せていた。
「……私の、お肉」
代わりに残っていたのは、定価のまま売れ残ったモヤシだけ。 肩を落として店を出ると、外はしとしとと冷たい雨が降っていた。傘はない。当然だ。私が傘を持って出かければ晴れるし、持たなければ雨が降るのだから。
トボトボと夜道を歩く。 街灯が点滅する寂しい公園の横を通った時だった。
「……ねえ」
背後から、湿った声がした。 ビクリとして振り返る。
そこにいたのは、赤いコートを着た髪の長い女性だった。 顔には大きな白いマスク。今の時代、マスク姿なんて珍しくもないが、彼女のそれは何かが違った。纏っている空気が、明らかに「この世」の湿度ではないのだ。
(あ、これダメなやつだ)
私の「不運センサー」が警報を鳴らす。彼女はゆっくりと私に近づいてきた。
「ねえ……私、キレイ?」
出た。都市伝説検定3級でも知っている超有名フレーズ。『口裂け女』だ。ここで「キレイ」と答えても「これでもか!」とマスクを取って鎌で切られ、「ブス」と答えても即殺される、理不尽な二択クイズ。
私は脂汗を流しながら後ずさる。逃げ道はない。背後は工事中の壁。
「……無視、するの?」
女の目が吊り上がる。マスクの下で、何かが裂ける音がした。終わった。モヤシを買って帰るだけの人生だった。
その時。
「おや、こんな夜更けに街頭アンケートかね?」
場違いに朗らかな声が響いた。公園のベンチ。いつの間にそこにいたのか、比留間隠岐が優雅に足を組み、缶コーヒー(微糖)を飲んでいた。オーダーメイドのスーツは雨に濡れることもなく、彼だけスポットライトが当たっているかのように無駄に画になっている。
「きょ、局長!?なんでここに!?」
「君がスーパーで牛肉争奪戦に敗北する様を見届けてから、散歩していたのさ。モヤシ、栄養価が高くていいじゃないか」
「ストーカーじゃないですか!それより助けてください、口裂け女です!」
私が叫ぶと、口裂け女は比留間の方へゆらりと向き直った。ターゲット変更。彼女は比留間の目の前に立ち、再度あの問いを投げかける。
「ねえ……私、キレイ?」
比留間は缶コーヒーを置き、まじまじと女の顔を覗き込んだ。そして、あろうことかため息をついたのだ。
「うーん……50点」
時が止まった。私も、口裂け女も、思考が停止した。
「……は?」
口裂け女の声がドスを利かせる。
「ご、50点……?」
「ああ、残念ながらね。まずそのコート、赤の色味が君のパーソナルカラーに合っていない。君はブルーベースだから、もっと深みのあるワインレッドを選ぶべきだ。それに髪のキューティクルが死んでいる。トリートメントはしているかい?」
比留間はダメ出しを始めた。恐怖など微塵もない。まるでファッションチェックの辛口コメンテーターだ。
「な、なによあんた……!」
「そして何より、そのマスクだ。サイズが合っていないせいで耳が痛そうじゃないか。美しさは細部に宿るんだよ」
口裂け女が震えだした。怒りではない。羞恥で。彼女はバッとマスクをかなぐり捨てた。
「う、うるさいわね!これでもキレイって言えるの!?」
耳まで裂けた巨大な口が露わになる。ギザギザの歯、滴る血。生理的嫌悪感を催す、完璧なホラーフェイス。私なら悲鳴を上げて失神するレベルだ。
しかし、比留間は真顔で懐から手鏡を取り出し、彼女に見せた。
「君、右の裂け目の方が2ミリほど上がっているね」
「えっ」
口裂け女が鏡を覗き込む。
「左右非対称はモード系としては悪くないが、君の骨格ならシンメトリーの方が映える。メイクで隠すか、あるいは……うん、良い医者を知っているよ」
「……医者?」
「私の知人に、凄腕の美容整形外科医がいてね。妖怪専門の。河童の皿のヒビ割れから、のっぺらぼうのアートメイクまでこなす天才だ。紹介状を書こうか?」
比留間は胸ポケットから万年筆とメモ帳を取り出し、サラサラと何かを書き始めた。口裂け女の殺気が、みるみるうちに霧散していく。
「ほ、本当に?私、この裂け目のせいでリップが上手く塗れなくて……」
「だろうね。この『クリニック』なら、保険適用外だが素晴らしい仕事をする。ついでにヘアケアも相談するといい」
比留間はメモを女に手渡した。女はそれを受け取ると、頬(裂けているが)を赤らめ、モジモジとし始めた。
「あ、ありがとう……。おじさん、イケメンね」
「おじさんではない、局長だ。では、お大事に」
口裂け女は深々とお辞儀をすると、「ちょっと予約入れてくる!」と言い残し、ものすごい速さ(一〇〇メートル六秒くらい)で夜の闇へとダッシュで消えていった。
雨音が戻る公園。私はへたり込んだまま、呆然と比留間を見上げた。
「……局長」
「なんだね、ハピネス君」
「今の、解決したんですか?」
「もちろん。彼女の悩みは『自分がキレイかどうか』だ。ならば、そのコンプレックスを解消する手段を提示するのがコンサルタントの仕事だろう?」
「都市伝説調査局ってコンサル業だったんですか……」
「さあ、帰ろうか。今日はモヤシパーティーだ」
比留間が手を差し伸べてくる。私はその手を取り、立ち上がった。
その瞬間。
グキッ。
「いっ!?」
私の足元にあった、誰かが捨てたバナナの皮(なぜこんなところに?)で見事に滑り、私は再び地面にキスをした。
「……さすがハピネス君。オチを忘れないプロ意識、感服するよ」
「うるさいですよ!湿布代も経費で落としますからね!」
私の不運な夜は、まだ明けない。けれど、ポケットの中のモヤシだけは、不思議と無事だった。




