第8話 手
心臓が潰れる
逃げろ
肺が裂ける
走り続けろ
やっと解放されたんだ
やっと抜け出せたんだ
息が苦しい?
それはあの隷属の日々よりも苦しいのか?
足が痛い?
それは奴らの鞭よりも痛いのか?
この2年を思い出せ
さぁ、空気を肺に入れるんだ
さぁ、足を動かせ
たった3日、追いつかれるぞ
ああ、ダメだ
足を動かせ立ち止まるな
ああ、ダメだ
しっかりと立て倒れるな
故郷へ帰るんだろ?
「クソ……クソ……クソ!」
違う、故郷はもう滅んだんだ
もう存在しないんだ
父が護った僕らの国は、母と共に燃えたんだ
なぜ?
どうして?
そんなこと知るか
「ふざけるな……!!」
殺してやる!!
奪ってやる!!
さぁ、立ち上がれ
陽が登るぞ
*************
穏やかな風が青々とした草原を撫でている。そして、柔らかな陽光はその輝きを持って、伸び伸びと緑を照らしていた。
そんな中でポツポツと白色がある。十数頭の羊が原っぱで草を摘み、太陽を浴びていた。
ゆっくりと時間が流れている。ゆっくりと雲が流れている。そんな爽やかな風と青空の下で1人の少年が眠っていた。草原に立つ一本の木の影で、その華奢な上体を幹に預けて寝息を立てている。そんな彼の寝顔は頭から落ちた麦わら帽子によって隠れていた。
「ねぇ、ねぇ」
そんな少年の肩が揺さぶられる。
すぐに彼は目を覚ますと、麦わら帽子を頭の上に戻した。
視界は開けた。穏やかな景色が広がっている。
はずだった。
目の前で、歳の近い灰色髪の少年が笑っている。裸足で、上裸。酷く汚れて痩せている。
しかし、灰色の瞳は笑っていない。奥底で何かが煮えている。
彼は大きな石を持っていた。
その狂気を高く持ち上げていた。
麦わら帽子の少年が最期に見た景色は、彼の殺意。
自身の命が潰されるのを、その少年は見ていることしかできなかった。
「気分はどうだよ」
灰色は唾を吐きかけるように言葉を放った。そのまだ温かい体から服を奪って袖を通し、靴を奪って両足に履いて、帽子を奪って頭に被る。
ふと、彼の視線が固まった。
熱を失いつつある小さな身体のすぐ横には、作り途中の木剣と一本のナイフが置かれていたのだ。
「良い物持ってんな」
灰色はそう呟いてナイフを取ると、振り返って歩き出す。
遠くに煉瓦造りの家屋が見える。広大は草原。小さな林の脇。煙突からは白い煙が棚引いて、横に建つ木造の羊小屋の上で空に消えている。
歩いていく。
歩いていく。
麦わら帽子で顔を隠して近づいていく。
足音はさせない。息をころす。
そうして、灰色は木製のドアの前に立つと、ゆっくりとノブを回した。
肉と野菜の香りが立ち込める。温かい空気が脇から抜けていく。
ギギギと音を立てるそのドアの向こうへ少年は踏み入ると首ではなく、濁った目だけを動かした。
台所に男が立っている。煮えた鍋の前で腰に手を当てこちらに背中を向けている。
すぐさま彼は、駆け寄った。
「おーい、ただいまはどうした?」
そう言って振り返った男の喉に、灰色はナイフを突き刺した。
それを引き抜くと同時に血が溢れ、それを麦わら帽子が受け止める。
男は倒れた。喉に空いた穴から空気と血が抜けていく。
男の瞳には深い絶望があり、灰色髪の少年の姿を映している。
「似合ってるだろ?」
死に行く男に彼はそう吐き捨てると、家の中を見回した。
「椅子は3つ……でも」
テーブルには食器が2人分並べられている。その食卓を挟み、向かい合うように置かれていた。
「父子だけか。思ったより簡単だったな……」
少年の腹が鳴る。
そして、彼は自身の濁りきった瞳で血に染まった手と服を見る。
「まずは着替えよう。そうしたら、腹ごしらえだ」
そう言って、部屋の奥へと向かうのだ。
この建物はL字型。LDKと垂直になっている部屋は寝室で、いくつかの収納家具とベッドが2つ置かれている。
少年は服を脱ぎ捨てると、収納を漁る。適当に、いかにも羊飼いというようなベージュのチュニックに着替えいく。
そんな過程でふと、彼の目に止まったのはベッド横のサイドテーブルだ。
少年は思わず目を丸くする。咄嗟にそこに駆け寄ってしまう。
サイドテーブルの上にあったのは二つの本。
一つはとある冒険家の手記であり、もう一つは
「トゥカルーの見聞録……」
彼が灰になる前の純粋な思い出がそこにあった。真新しい表紙に手が伸びる。その一冊を持ち上げる手は震えている。
そんなとき、本の隙間からハラリと紙が床に落ちたのだ。
また彼は、その紙を拾おうと手を伸ばす。しかし、その濁った瞳は激しく揺れて、身体は固まってしまう。
それは手紙だった。
灰色の目はその文を、その意味を全て一瞬で脳に運んでしまうのだ。
【愛する息子へ】
11歳の誕生日おめでとう。
もう、この手紙がすらすらと読めるようになっていますか?
騎士の物語を読み聞かせたあの日から、勉強嫌いが嘘のように治って読み書きを覚えるようになりましたね。
私は9歳の頃までしか一緒にいてあげられなかったから、まだまだ難しい言葉もあると思います。でも、あなたは強い子だから、そこで諦めたりはしないでね。
お父さんは読み書きが全然だから、あなたが勉強したことをお父さんに教えてあげるの。助けてあげてね。
最後に、あなた達は本当に良く似ているから、きっとこれから沢山喧嘩をして、同じ笑い方で話をして、同じ顔をして泣くのでしょう。驚くことがあると固まってしまうのもそっくりで、沢山同じところがある似た物親子。
きっと、2人ならどんな困難でも乗り換えられる。
私の分まで長生きしてね。2人の素晴らしい人生を天国からずっと見守っています。
母より
11歳のグレイは頭を抱えた。そこで、はじめてしっかりと、自身の手についた血の意味を理解することができた。
「俺は何をしているんだ……?何が……したいんだ?」
胸の中で、何かが軋む。頭の中で、何かが這い回る。
そんな瞬間、不意に母の姿が彼の脳裏に現れると、その足に力がなくなり、少年は立っていられなくなってしまう。
彼は咄嗟にサイドテーブルに寄りかかった。しかし、支えきれずに倒れてしまう。
「俺は何のために生きているんだ……?」
尻餅をついても痛みはない。右腕に刻まれた焼印が目に留まる。その幾何学模様と不可思議な文字列を見るだけで、彼の心に焼きついた辛い思い出が暴れ出す。
彼は咄嗟に目を逸らした。そこに偶然、一冊の本が開かれていた。サイドテーブルの上にあったもう一冊の本。
【とある冒険家の手記】
そして、2つの単語がグレイの目に飛び込んで来る。
太陽砦
物語のはじまりの地
「そこに行けばあるのかな? 俺の生きる意味が……はじまりが」
この時のグレイはまだ気づいていない。
真に求めていたのは始まりではない。
もう彼の物語は始まっているのだから。




