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第6話 灰と炎

「立ち上がるな! そのまま両膝をつき、手を頭の後ろで組むんだ!」


 獣の咆哮のような男の叫びが、グレイを威圧した。

 黒い鎧を身に纏った騎士が剣を向けて近づいてくる。暗がりの中で、段々とその姿が鮮明に見えるようになると、グレイの瞳は小さく揺れた。


 30前後のその騎士の、茶色く短い髪が汗で固まっている。静かに殺意を向ける剣は小さな刃こぼれがいくつもあり、鋼特有の艶もない。そして、黒鎧には幾つもの傷が痛々しい模様を作っていた。


 だが、それだけでグレイは狼狽えたりしなかった。あの物語の騎士の姿と、頭の中の輪郭が一致していたからだ。

 にもかかわらず、彼が小さく動揺を見せたのは、その騎士の失われた左腕の断面からは、血がゆっくりと滴り落ちているからだ。騎士の上腕にはキツく縄が巻かれ、その大きすぎる切り口には幾重にも布が巻かれている。それでも、赤黒い液体は漏れ出ていた。



 それを見たグレイの涙は止まっていた。

 時を超えて、騎士が姫を連れ帰る。この砦が残されたように、何か不思議な力が加わり、2人の物語はハッピーエンドを迎える。そんな奇跡を咄嗟に夢想した。

 だが、過去の自分がページを捲る。トゥカルーの見聞録では、あの騎士の左腕はずっと早い段階で失われている。今更、血が滴り落ちるはずがない。応急処置などする必要がない。

 今、目の前にいる騎士は別者なのだ。



「お前は何者だ!! 何故、ここにいる!?」


 男の更なる言葉に、彼は答えようと口を開くが言葉は出ない。


 グレイはこの砦を守っていた。自身が思う相応しくない者達から、機会すらも奪っていた。

 それは彼自身の思い出を穢されないようにするため。


 グレイの中にはそこに正義があった。だが、彼の頭には強く焼き付いている。


 赤く染まった故郷。冷たくなった人々。

 強制的な服従と労働の日々。

 略奪者達の目と口は高らかに正義を叫んでいた。


 故にグレイは、数年経った今でも白と黒の間で立ち尽くしていた。自身の独りよがりな正義を執行しながら、死者から物を奪うという、多く者の役に立つ必要悪に身を投じたのだ。


 開いたままのグレイの口から、まるで落ちるように言葉が出る。


「灰色……? そうか、俺は灰色なんだ……」


 困惑のまま口にした彼の答えに、騎士は冷たい視線を向ける。


 刃が閃いた。

 騎士の右腕から力が抜ける。


 そうして、剣が振るわれた——



「騎士ザール!!」


 かと思われたその瞬間、騎士の剣を止めたのは若い女の声であった。

 先ほどまで騎士の後ろで様子を伺っていた娘がその声を上げたのだ。


 彼女の長い薄紫の髪が揺れる。白いドレスの裾を持ち上げ前に出る。


「騎士ザール! いけません!彼が何をしたというのですか!?」


 暗がりでもわかるほど、その娘の肌は白く透き通っていた。そして、その手足は細く長く。その肉体労働を知らない身体は、服装よりもはっきりと彼女が高貴な身分であることを示していた。


 そんな彼女の宝石のような淡い紫色の瞳がグレイに向く。彼がそれを、輝く本物のアメジストのように感じたのは、その瞳が今にも泣き出しそうなほどに潤んでいたからだ。


 その娘はグレイの前で両膝をついた。そのドレスが汚れることなど気にも留めず、目線の高さを同じにして彼女は語る。


「灰色さん……。騎士の失礼をお許しください。彼は今、正常な状態ではないのです。本当は立っているのもやっと……。ですからどうにかして、彼の腕の傷口から血を止めなくてはなりません……お力を貸してはいただけないでしょうか?」


 そんな彼女の横で騎士は狼狽える。


「何を……!? 得体の知れない者に弱みを見せてはなりません!貴女様の安全が最優先。この者は、私が動けるうちに斬り殺します!!」


 そんな強い言葉を放つ騎士に娘は視線を向けはしない。その場で目を伏せて、彼女はふっと息を吐くように言葉を紡ぐ。


「騎士ザール。この方を殺せば、あなたも死にますよ。私1人ではこの通り、左腕の止血もままなりません。それに、あなたが死ねば自活のできない私も数日後には死ぬでしょう。そんな未来を望みますか……?」


 そう言って、開かれた彼女の瞳は真っ直ぐにグレイを映す。先ほどまで潤み揺れていた2つの目は、凪いだ湖のように澄み切っていた。


 グレイの心は、そんな紫の純水に溶かされる。

 自然とその口角が上がり、鼻から息がひとつ漏れる。


「貴様、何が可笑しい?」


 そんな騎士の小さく揺れた訝しむ目をグレイは見返すと、笑みを隠しきれない口を動かした。


「つまりこのお姫様、自分1人じゃ何もできないってことですよね。こんな真っ直ぐな瞳で、それを言えるんだな……」


 騎士が歯を見せて低く唸る。しかし、その顔色は悪くなり、膝が小さく震えはじめた。


「我が主を、愚弄する気か?」


「いいえ、驚きました。貴女は直視しているんですね、現実を。その中で、今できる最善を尽くそうとしているんですね」


 グレイの思い描くあの騎士の姿に、彼女の瞳がくっきりと填まる。


 澱みない目。捻じ曲げも加減もしない、事実だけを見つめた瞳。その奥には進むべき方向を見失わない信念がある。


 それを彼は感じ取ったのだ。自分がなれなかった、高潔な存在に近しい彼女こそ、この場所は相応しい。


「手伝せてください。ここで、二人を死なせたくない」



 彼女は火を求めた。力強い炎だ。

 グレイは身近にあった、一冊の本で種火を作る。開くことも、読むこともできなくなったあの本が、焦げて燃えていくのに心に灰は残らない。


 気がつけば、壊れた石像の前に積まれた本の石垣は大きく崩れていた。

 グレイが5年間で築き上げた空虚の祈りと偽りの正義が、強く揺らめく熱塊に変わったのだ。


「止血をするんなら、次はお湯ですよね? 鍋を持ってきます」


 そう言って踏み出した足をグレイは止めた。視線の先に釘付けになる。


 薄暗い空間に一つの光。

 炎の前に立った乙女はその長い薄紫色の髪を後ろに纏めている。袖を捲り、ガラス細工のような細腕が顕になる。


 そんな彼女はあまりにも不釣り合いな物を手に取った。

 その髪と比べれば艶がなく、その柔肌と比べれば硬質で荒い。

 まるで、彼女には似合わない。血を止める行動と相容れない。


「灰色さん。ありがとうございます。私は火を起こしたことがなかったもので」


 それは騎士の剣。


 乙女は剣を重そうに炎の前に掲げていた。

 

「止血をはじめます」


 その後に続く言葉にグレイは目を丸くした。その娘はきっと、前を見過ぎている。

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