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第5話 沈んだ太陽

 夕陽は山の後ろに隠れ始め、夜の斥候とも呼べるような山陰が夢追い塚に迫っていた。


「もう日が暮れる……。小屋には戻れないな」


 グレイはそう呟くと、血に汚れた積荷にボロ布をかけ、二つの車輪が動かないように石を噛ませた。

 そして、彼は慎重に周囲を見回す。付近には赤黒く染まった土や森へと続く轍はあるが、それ以外で目に留まるものは何もない。罠を仕掛けた痕跡も、それを隠した形跡も残っていないことをグレイは確認すると、荷車を放置して崖縁に沿って歩き出す。


 ふと、グレイは崖下に視線を移した。夢追い塚の上に転がる新しい死体に山犬達が群がっている。

 これまで山で屍肉を漁っていた肉食動物は、この数年で夢追い塚周辺に出没するようになっていた。その人肉の味を覚えた獣達は夜行性。これから始まるのは人間が餌となる時間だ。


「あの獣達にも理性があればな……。そうすれば、危険がだいぶ減るのに……」


 グレイの死体漁りという仕事は、下賎ではあるがこの狭い社会では必要な一つの歯車であった。彼は、あの山の歪な秩序を成り立たせる唯一無二の存在で、権力はない代わりにどの勢力にも属さないことを許されている。

 グレイは、一般のトレジャーハンターにとって、獣を遠ざけ死体を処理する掃除人で、ビギナー狩りをする殺人者にとっては、待ち伏せポイントから死体を運んでくれる影の協力者だ。

 故に彼らは、死人から金を奪っても物は奪わない。グレイが死体漁り(スカベンジャー)でいることは多くの者にとっての利益であった。


「いつまで、こんな生活を続ければ良いんだろうな……」


 グレイはただただ崖縁を歩いていく。段々と横目に夢追い塚は映らなくなり、背面へと回っていいった。

 彼が進め緩い弧を描くような崖縁は2kmほどの距離がある。その中央付近に位置した時、彼の耳に届くのは小さな滝音であった。

 視線を崖下に移せば、断崖の隙間から小さな滝が真っ白な縄を吐くように水を落としている。その清らかな水は、夢追い塚とは交わらない。崖下に二つの世界があるかのように、涼しげな滝と、残酷な夢追い塚が鏡合わせになっていた。


 グレイはその滝の真上まで歩くと立ち止まった。遺骨と滝。2つの白を見下ろして、山と森の真っ暗な影に背を背けている。


 グレイは崖際に立っている。白と黒の間で揺らいでいる。

 そんな彼は灰色で、心もまた灰である。


「何を言ってるんだ俺は……。ずっと、一生ずっと続けるんだ」


 グレイは白へと一歩を踏み出した。空中に全てを委ねるように、体を預けるように、彼は静かに崖上から落ちていく。身体に風を感じる。高さを感じる。そうして、彼は滝ににぶつかり、水流と共に落ちていく。

 小さな川と崖底がどんどんと近づいてくた。


 そんな時。


 不意に空中がグレイの体にまとわりついた。バシャンとくぐもった音を合図にそれが全身を包み込み、完全なる無音となる。感じる事といえば冷たく、暗い。服は重くなり、体には少しの浮遊感が纏わりついている。


 いつの間にか、グレイは空中ではなく水中にいた。

 深く、清らかで真っ暗な水の中。直下的な水流が、見えない水底へと彼を引っ張っている。そんな力に抗って踠き、彼は水中から顔を出すと急いで岸に身を乗り出した。


「毎度のことながら、心臓が飛び出しそうだ……。たぶんここは正規の入り口じゃないんだろうな」



 小さな池の前でグレイは横たわっていた。朽ちた石壁に囲われた広い土地。その中でも、一際存在感を放つのは中央に聳える石造りの城だ。二本の尖塔とそれを繋ぐコの字の居館で作られた巨大な建築物。しかし、その有り様には絶望を感じずにはいられない。

 時の流れという逆らえぬ脅威。人間の限界を痛感する惨状。

 枯れた大樹がその砦を食い破っていた。3つ目の塔のように聳え、四方八方に伸びた根が締め付けながら壁という壁に纏わりついている。



 もう、かつての栄光はそこにない。

 500年を超える月日が、その輝きを剥ぎ取ってしまう。


「最初の発見者は、絶対に俺であるべきじゃなかった……。でも、もう良いんだ。相応しい人間が現れるまで、ここは何があっても守って見せるよ」


 この空間に空はない。地平はない。まるで籠のような靄が砦全体を覆い込んでしまっている。

 太陽砦と呼ばれたその建築物は、皮肉にも太陽の輝くことができない場所に隠されてしまった。


 グレイは懐から数冊の本を取り出した。水に浸かり紙塊となったそれを抱えて、とある石像の前に立つ。


 ドレスを着た女。その像の細腕は欠け落ち、首から上は無くなっているのだが、その年齢が若いことをその体のラインが教えてくれる。


 その台座には掠れた文字でこう彫られていた。


【いつか戻られる貴女様のために 〜アエリカ=ファンヘイルンの微笑み〜】


 トゥカルーの見聞録が記したのはとある騎士の冒険譚だ。その物語は、一つの悲劇から始まった。


 この石像からは、攫われた姫への嘆きと、生還への願いが感じ取れる。彼女に奇跡が起こることを配下達が祈っていたのがわかる。


 だが、ここにある砦も石像も時を経て風化してしまっている。


 つまり、あの騎士は失敗したのだ。奇跡は起こらなかったのだ。

 ここに、姫が戻ることはなかったのだ。


「姫よ。騎士よ。貴方達の結末が良いものであったことを願います」


 グレイはその石像の前に、同じタイトルの本を積んでいる。死者から奪った希望と夢を彼女の前に捧げている。まるで石垣のように重なった数百の本。水に濡れて読むことのできない大きな紙塊。


 グレイにとって、これは慰霊だった。

 数百年の時を経て、騎士と姫を故郷で再会させる私的な典礼。

 そして、夢破れて死んでいった者達への独善的な供養。


 風が吹く。砦の影が少しだけ揺れる。


 心を整え、彼は肩膝をついた。そうして、手を前で組み、祈るのだ。しかし、彼は目を瞑れなかった。その横目に映る明らかな異変に身体が一瞬固まったのだ。


 グレイは瞬時にそれに顔を向ける。そして、その灰色の目が大きく見開かれる。


 片腕を失くした真っ黒な鎧を着た騎士がこちらに剣を向けていた。

 その横で、白いドレスを纏った娘が息を呑んでいる。



 物語は突然終わったりはしない。

 結末はどんな形であれ、容易されているものだ。


 グレイの瞳から涙が次々と溢れてくる。冷たかった表情は柔らかくなり、そして、ハッと息を抜くように彼は言葉を吐いた。


「ああ、良かった……。これでやっと、俺も死ねる……」


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