女騎士であるわたしの主人は、不遇のお姫さまです。姫君が幸せになれるように全力で頑張るつもりでいたら、王妃になってしまいました。
「ウィルマ、君は私が王女ではなくなったらどうする?」
「もちろん、変わらずクリスティさまに仕えさせていただきます」
「騎士として?」
「もちろん騎士として。そして僭越ながら、クリスティさまの友として」
わたしの答えに、屋敷の庭を歩くクリスティさまは満足そうに微笑まれた。そのかんばせのすぐ隣を、雪のように白い柳絮がふわりと舞う。類まれなる美貌を社交界で披露できないことを残念に思うと同時に、独り占めできる幸せを感じた。
姫さまはお気の毒な方だ。本来であれば第一王女として、下にも置かれぬ扱いを受けるはずだった。それが王宮の片隅に押し込められるとは。
王族が住む屋敷とは思えぬ小さな家に、必要最低限の使用人。騎士であるわたしと、彼女の乳母、それから料理人がひとり、姫さまの周りにいるのはそれだけだ。それでもこの忘れられたような小さな世界で、わたしたちは日々ささやかな幸せを紡いできた。
正妃であったご母堂さまが本当に病死だったのか。疑わしく思うものだっていなかったわけではない。けれど、王太子の母として絶大な権力を持つ国王の寵妃に逆らうものなど存在しなかった。
冷遇されてはいても命を狙われることはなかったのは、クリスティさまが王女であったからだろう。たとえ王族と言えども、この国の女には王位継承権がない。競争相手にはならないことがわかっていたからこそ、クリスティさまは生きることを許された。
そして、その美貌。美しい女というものは、政治の駒として必ずや役に立つ。事実、あといくばくもないうちに姫さまは敵対する隣国へと輿入れするのだ。結婚とは名ばかりの、ていのいい人質として。
クリスティさまが両国の橋渡しをしたところで、束の間の平和はすぐにほころびるだろう。すでにこの国の王家は求心力を失っている。再度ふたつの国の間で戦が起こるのか、あるいは内乱で滅びの道を歩むのか。いずれにせよ、ろくな未来は待ってはいまい。
ときどき私は考える。姫さまが男であったならば、世界はどのように変わっていただろうかと。姫さまは、今よりも美しく健やかに笑っていられただろうか。
***
わたしとクリスティさまが出会ったのは、ずいぶんと昔。先の戦争で武勲を立てた父に連れられて、王宮を訪れたときのことだった。
父や兄とともに剣を振り回すことに慣れていたわたしは、王宮でのパーティーにすぐに飽きてしまった。滅多に着ない「女の子らしいドレス」にうんざりしていたということもある。
父の目を盗みパーティーを抜け出し、庭から庭へ。そしてどんどん奥深くへ進んだ場所で見つけたのが、我が主人となるクリスティさまだった。
『おや、お客さまとは珍しい』
まさに理想のお姫さまがそこにいた。
浅黒い肌のわたしとは異なる、白くきめ細やかな肌。太陽をとかしたかのような金の髪。深く透き通る藤色の瞳が美しい。そして何より心地よいのは、落ち着いたその声だ。同年代の少女よりも少しだけ低い声が耳に優しい。
『迷子かな。確か今日は、戦勝パーティーが行われていたはず……。おいで。騒ぎにならないうちに、もとの場所へ案内しよう』
『あ、ありがとうございます』
当たり前のように手を差しのべられて、恥ずかしさで顔を真っ赤にした。本来ならば騎士にかしずかれるはずのお方にエスコートされるなんて。
剣を握る自分の手は、まめだらけ。不潔ではないが、貴婦人とは思えないほど荒れている。がさがさとした肌触りは、高貴なかたを不愉快にさせるだろう。母の忠告通り、香油を塗り込んでおけばよかった。後悔先に立たずとはこのことだ。
両手を後ろに隠したわたしを見て両の目を丸くしたクリスティさまは、ごわごわのてのひらをまるで愛おしいものであるかのように優しく撫でてくれた。
『あの……』
『日々、鍛練をしている手だね』
『……こんなに汚い手ですみません』
気がつけばわたしは、謝罪を口にしていた。美しい姫君が触れるべき手ではないと、瞬間的に思ってしまっていたから。
『汚い手だなんて、どうしてそんなことを?』
『わたしは女の子だから、本当は刺繍などが得意でないといけないのです。けれどわたしは父や兄と一緒に訓練をするほうが好きで……』
汚い手だと、くちさがない連中に言われることには馴れていた。女らしくないと笑われることも、仕方のないことだと諦めていた。自分が変わり者であることは理解していたから。
それでも、その言葉の鋭さは思っていた以上にわたしの心を傷つけていたらしい。胸がじくじくと痛みを持ち、目の前がぼやけた。
その涙を優しくぬぐってくれたのもまた、クリスティさまだった。
『そのことで、ご家族は何かおっしゃるかい』
『自分のことは気にせず、やりたい道を進みなさいと』
『素晴らしい方々だね』
『ありがとうございます』
『わたしも君のご家族の言葉に賛成だよ。女の子だから、男の子だからというのは関係ない。大事なのは、自分がどう生きたいか』
『自分が、どう生きたいか……』
『相手に理解してもらうことはできなくても、その道の先にきっと君が望む未来が待っているよ』
『そう、でしょうか』
『そもそも、君のように剣をふるってくれるひとたちに私たちは守られている。君は、尊い手をしているよ』
貴族特有の回りくどい誉め言葉に見せかけた嫌みではなく、心からの賛辞だとわかる柔らかな笑顔。その心根の美しさにわたしは、ときめいてしまった。
父や兄たちと同じように騎士になることはわたしの夢だったが、出会ったその時に主人は決まってしまったのだ。主人というものはわたしが選ぶものではなく、天によって決められているのだと思い知った瞬間でもあった。
『姫さま、どうかわたしをあなたの騎士にしてください』
『君の気持ちは嬉しいが、ここにいては手に入るものも手に入らなくなるよ』
今思えば、すでにあのときに姫さまはご自身の難しい立場を理解されていらっしゃったようだった。それでもわたしは、なおも食い下がった。クリスティさま以外に仕える自分など想像もできなかったから。
『わたしは、あなたを主人として生きていきたい』
『仕方がないね。……私を主としてあおぐだけではなく、生涯の友としてそばにいてくれるのならば……』
そうしてわたしは、押しかけ女房ならぬ、押しかけ騎士となったのだ。
***
「この柳絮も見納めでございますね」
目の前を漂う白い綿毛をつまんでみせれば、ひどく驚いたような顔で姫さまがわたしに問いかけてきた。
「珍しいね。花に興味のないウィルマが、そんなことを言うなんて」
「わたしとクリスティさまの想い出のひとつですから」
「ウィルマは、初めて柳絮を見たときに、もうすぐ初夏だというのに雪が降ったと喜んでいたね」
「わたしが住んでいた場所では、この樹は生えていませんでしたからね。まさかこんなに厄介なものだったとは知りませんでしたから」
舞い落ちる白い綿毛は、雪とは異なりとけてなくなることはない。ふわふわと毛玉のようにあちらこちらに降り積もる。遠くから見ているだけなら美しいが、片付けを考えるとうんざりしてしまう代物だ。
「東方では、この柳絮は風流なものとして詩の題材にもなるそうだよ」
「風流さで腹は膨れません。個人的なことを言えば、鍛練の最中に口に入ってむせてしまうのが困りますね。綿毛が舞ううちは外でお茶を飲むことも叶いません」
「実にウィルマらしい。それでもこれを想い出と言ってくれるとは、まったく光栄だな」
くつくつと楽しそうに姫さまが笑う。ああ、クリスティさまが好きだ。この笑顔を守りたい。そう思った。
「ウィルマは、この風景を好いてくれるのだね」
「クリスティさまを虐げた方々は嫌いですが、ここで姫さまと過ごした時間は何より愛しいものでしたから」
「ありがとう」
「クリスティさまの幸せこそが、わたしの幸せなのです。ですからもしも輿入れせずに逃げ出したいとおっしゃるなら、わたしが必ずやお望みを叶えてみせます。姫さまが犠牲になる必要などありません」
きっぱりと言い切れば、姫さまが凪いだ瞳でこちらを見つめ返してきた。
「私を逃がすために、ウィルマが身代わりになるというのはなしだよ。ウィルマの命に代えてまで、手に入れたいものなどこの世にはない」
「さようでございますか。それが一番手っ取り早かったのですが」
「だいたい、世間知らずの私を市井に放り出すつもりかい。身ぐるみはがされて、売り飛ばされるのが関の山だろう」
「なにをおっしゃいますやら。今ではすっかりわたし以上に剣技に堪能になったクリスティさまをさらうことのできる人間がどれほどおりますでしょう」
「やれやれ。だが、逃避行か。ウィルマと一緒なら楽しそうだね。もしも私がここではないどこかへ行きたいと望んだなら、ウィルマはついてきてくれるかい」
「もちろんです」
「途中で路銀が尽きて、乞食になるかもしれないよ」
「乞食になってもかまいませんが、あなたに苦労はさせません。わたしが責任を持って働きますので、人並みの生活は保障いたします」
「なんだかプロポーズをされているみたいだ」
「確かに同じようなものですね」
わたしも小さく吹き出した。本当にその通りだ。自分でも忠誠心の塊だと思う。けれど、もしもわたしが男だったなら、クリスティさまとの関係はもっと違ったものになっただろうか。
「子どもはたくさんほしいな。家族仲良く暮らしていけたら、ほかに何も言うことはないよ」
「クリスティさま……」
結婚相手と幸せな家庭を築きたい。そんなささやかなはずの幸せは、わたしには叶えてあげられない。
悔しくて、苦しくて、涙がこぼれそうになる。けれど主人が穏やかに微笑んでいてくださるというのに、わたしが泣いていい道理がどこにあるだろう。だから、無理矢理口の端をあげてみせる。
「子どもは授かりものですから、断言できません。わたしは、血が繋がらなくとも家族として幸せに暮らすことはできると思います」
「そうだね。私もそう思うよ」
姫さまが、静かに呟く。
「ウィルマ、約束して。一生、私のそばにいてくれると」
「もちろんです。クリスティさま。あなたがどんなに嫌がろうと、わたしはあなたのおそばから離れません」
わたしが指切りをすれば、姫さまは今日一番の艶やかな笑顔を見せてくれた。
***
「さあて。それならば、少し計画を変更するとしようか」
「計画、ですか?」
「ああ。敵国への嫁入りは、私にとってもちょうどよいものだったから断るつもりはなかったのだけれど。あちら側を乗っ取ってから、この国に攻め込む予定だったからね。だが、ウィルマが私と結婚してくれると約束してくれたから。形だけとは言え、同じ男と結婚するなんてまっぴらごめんだ」
「は?」
「まだ気がついていないのかい。弱ったな。ウィルマ、私は男だよ」
「……男?」
こんなに美しく、たおやかなひとが男だというのか。失礼ながら、上から下までじろじろと見つめてしまった。いや、どこからどう見ても女性ではないだろうか。
「政略結婚で嫁いできた母は、すでに寵妃が男児を産んでいることを警戒していた。自分が男児を産むことで正妃の座を安泰にするどころか、いずれ邪魔者として害される可能性が高いと。だからこそ、私を王女として育てたのだ」
「それをご存じなのは?」
「限られたごく一部の人間だけだ。見放され、使用人さえほとんどつかない状態であったことも、私の秘密を守るには都合がよかった。もちろん、ウィルマのお父上もご存じだ」
「そんな大切な話をわたしの父にですか! 万が一、父があなたを裏切ったらどうなさるおつもりだったのです」
「そうなればそのとき……なんてね。冗談だよ。大切なウィルマを私のそばに置くんだ。こちらも誠意を見せるべきだろう」
まさか、父がそんな重要なことを知らされていたなんて。戦いしかできない武骨なひとだと思っていた。その印象がくつがえったことに、動揺する。
「黙っていてすまなかった」
「いいえ、むしろわたしこそまったく気がつかずすみません。朝から晩までほとんどご一緒していたのに」
大事な話をしているはずなのに、妙な返事をしてしまった。こんなとき、なんと言えばよかったのだろう。気が利かないわたしには、うまく言葉が出てこない。
「ウィルマは、軽蔑しないのかい?」
「何をでございますか?」
「私は、無力な女のふりをして君の隣で暮らしてきた。ひとつ屋根の下で暮らしてきた相手が女ではなかったんだ。穢らわしいと思われても仕方がない」
確かに思い返してみれば、同性同士でなければありえない距離感だったのかもしれない。けれど、今改めて考えてみても、クリスティさまの振る舞いはわたしにとってまったく不愉快なものには思われなかった。そう告げるより先に、クリスティさまが口を開いた。
「ウィルマ、私が男だったなら守る価値はなくなってしまうかな?」
普段のクリスティさまを知らなければ気がつかないような、どこか不安そうな声。まさか、クリスティさまが怯えていらっしゃる?
最初に問われたことを思い出す。どうしてこの方はわたしに、「自分が王女でなくなったらどうするか」などと聞いたのか。
確かに姫さまは、理想のお姫さまだ。けれど、だからクリスティさまにわたしの心を捧げたわけでないのだ。クリスティさまが王女だろうが、王子だろうがどちらでもよかった。わたしは、クリスティさまだからこそ、忠誠を誓ったのだから。
「いいえ、クリスティさまはクリスティさまです。そこに性別の差などありません」
「ありがとう」
ほっとしたように、雰囲気が緩む。それにね、とクリスティさまは内緒話をするように囁いてきた。
「たとえ卑怯者だと思われなかったとしても、ウィルマは小さくて可愛らしいものが好きだろう。私が『お姫さま』ではなかったら、離れていってしまうのではないか心配でね」
「クリスティさま。いったいあなたは、わたしを何だと思っているのです」
「世界で一番可愛い女の子だよ」
「わたしよりも、美しいかたが何を」
抗議半ばでぎゅっと強く抱き締められる。たおやかなはずのクリスティさまの腕は力強く、そこで自然と姫さまは王子さまだったことを理解した。わたしは腕の中に閉じ込められていたけれど、それは不思議なほどあたたかく、心地よいものだった。
***
歴史書によれば、国王クリスティは大層な愛妻家であったと記録されている。彼は戦場に行くときでさえも、王妃を片時も離さなかったという。
また王妃ウィルマは戦場にて一騎当千の女将軍としても活躍し、常勝の戦女神と崇められていたとも言われている。実際のところ、当時の貴族女性が騎士として剣を振るっていたとは考えにくく、こちらはおそらく後世の創作ではないかと推測される。
彼らは腐敗していた王国を建て直すため、大規模な改革を行い、民衆に寄り添った政治をしいた。現在に繋がる王国の黄金時代の礎を築いたとして高く評価されている。
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