37.初恋の終わり
わたしの知ってるヤンさんは、公爵家の使用人で、伯爵家の執事だった。
強面でほおの傷は目立つけど、ぎこちなくも気持ちよく笑う人。
大きな手は無骨だけど器用で、頭をなでる手は温かくて優しい。
十六歳になったら、女性は結婚できる。
後三年かけて、ヤンさんにアプローチしようと思ってた。
その頃までにはもっと大人っぽくなるし、女性として見てもらえると思ってた。
年の差も、年齢も、そんなの障害でも何でもないと思ってた。
でも違った。
ヤンさんが、この国の人じゃないのは知ってた。
見た目からして、遠国出身だってのはわかってた。
でもまさか、ヤンさんが――
「待っていてもいいですか?」
ヤンさんが生国へ帰るという前日、わたしは許可を取りに会いに行った。
奇しくも、そこは銀食器室。
ヤンさんから別れを切り出された場所だった。
「お嬢……それはお止め下さい」
「なんでですか?だって、ヤンさんはいつかまた、ここに帰ってきてくれるんですよね?」
「それは――」
ヤンさんは口を開きかけて、真一文字にその唇を結び、横を向いた。
「私のことは、もう、死んだものと思ってください」
「イヤです。わたし、まだ十三です。何年でも待てます。待ちますから!」
「駄目です。お嬢には、相応しいお相手がいるはずです」
目の前に水の膜がかかり、視界がぼんやりし始める。
もしも涙でヤンさんを引き留められるなら、いくらでも泣く。
「お嬢。せっかくの美人さんが台無しです」
どこから出したのか真っ白なハンカチを差し出され、そっと目じりを拭われた。
優しい手つきに、わたしの涙腺は崩壊した。ポロポロと雫が溢れ、零れ落ちる。
「他の誰かに、キレイって思われなくてもいいの。ヤンさんにだけ、そう思ってもらえれば……」
「いつかきっと、お嬢が一緒に幸せになりたいと思う人ができます。このヤンが保証します」
「イヤだ。そんなのいらない。お願いヤンさん、行かないで」
「せめてきれいな憧れのまま――そして、いつか忘れてください」
手の中にハンカチを握らされ、その扉はそっと閉められた。
それは、明確な拒絶。
その日、わたしの初恋は終わった。
「ヤン皇帝が即位したそうだよ」
義兄の書斎。
そこで、義兄からその話を聞かされた。
「そう、ですか」
わたしは十四になっていた。
ヤンさんは一年以上前、生国である遠国へと帰って行った。それ以来、会っていない。
教えてもらった事実は、俄かには信じられなかった。
ヤンさんは、遠国の皇帝のご落胤だった。
皇族の帝位継承順位としては九番目。
普通なら皇帝になどなれるはずがないほど、遠い位置だった。しかし皇帝が病に倒れたところから、激しい帝位争いが起こった。一旦は第一帝位継承者が皇帝として立ったが、病死や毒殺、クーデターなどが続いた。
帝位争いの最中、ヤンさんもまたその命を狙われた。そこでヤンさんの母の一族の一人、ザグデン公爵夫人となった奥方を頼って、ヤンさんは命からがら亡命してきた。公爵家には遠国人の使用人が複数いたため、ヤンさんもまたその一人として受け入れられた。
十五年ほど前の話であったという。
熾烈な帝位争いの末、とうとうヤンさんの上にいた帝位継承者たちが絶えてしまった。
命を狙われ、一度は捨てた故国など、放っておけばいい。
貿易で潤う湾岸部以外の土地は長い帝位争いのせいで荒れ、皇帝も皇室の威光も地に落ちたという。なのに、ヤンさんは故郷の窮地を救うため、立て直すために、帝位継承者として名乗りを上げた。
ヤンさんが帰国して一年あまり。
帝位継承者として、様々な政策、施策を試み、根本から立て直していったという。
遠いこの国にも、新しい有能な後継者の噂はちらほらと届いた。
そして、つい先日、名実ともに皇帝として立った、という話だ。
「ヤンさんは――もう、二度とこの家には帰らないんですよね」
わたしがポツリとこぼせば、下げた視線の先、義兄が拳を握り締めていた。
「その――すまなかった」
「いいえ。お義兄様のせいではありません」
そう、もともと義兄は知らなかったのだ。
それを知っていたのは、ザグデン公爵と亡き奥方だけだったのだから。
義兄の侍従としてつけられたヤンさんは、義兄以上の勉学を強いられていたそうだ。なぜ使用人がそこまで高度な学習を、と義兄も不思議に思っていたようだ。しかし、公爵様からは使用人に負けるなと発破をかけられ、うやむやになってたらしい。
いや、もうちょっと疑ってもよかったんじゃないか、とは第三者だから言えることかもしれない。
おそらく、公爵様はいつかこんな日が来るかもしれない、と予測してたのだろう。
恐ろしいほどの先見の明だ。
しかしそのおかげで、遠国は立派な皇帝を戴くことができた。
遠国はこの国に、ザグデン公爵家からの恩を忘れないで欲しい。