幕間 「懇談会の裏で」
白き王城の、とある大広間。
大理石造りの床、壁、天井を赤い絨毯やタペストリで調和を整えた部屋で華やかなパーティが開かれていた。
貴族同士の懇談会。
そう銘打たれたその催しには、他国から取り寄せた珍しい食材を芸術的に仕上げた美味の数々がテーブルに並べられ、華やかにドレスアップした紳士淑女が和やかに過ごしている。
もちろん、ただの懇談会ではない。
清廉なる聖龍国であろうと派閥の発生は避けられない。
特に王位継承権を持つ王族の話となれば、たとえ別派閥のパーティに潜り込んででも最新の情報を仕入れたいものだ。
今代の王子たちはいずれも傑物。
誰が次期国王の座を射止めても不思議ではない。
貴族にとって勝ち馬を見定めるのは容易ではなく、ゆえに貴族は今日も笑顔の裏で暗躍の機会を窺っている。
そんな時だった。
「――ぁ」
繊細な硝子細工が砕ける音が響き渡る。
注がれていた濃い色の赤ワインを敷かれた絨毯が吸い込んで、赤い布地をより一層ドス赤く染み込ませていく様に、その場の誰もが驚きに目を丸くした。
グラスを落とした妙齢の女性は申し訳なさげに眉を下げる。
「ごめんなさい……とんだ無作法を」
物憂げに頬に手を当てる仕草は、魔力を宿すようだった。
駆け付けてきたのは齢六十を超える老子爵。
パーティの主催者でもある彼は、とろん、と熱に浮かれたような視線で女性に目を奪われてしまう。
老人をも魅了する存在感。
好奇と情欲を孕む周囲の視線がなおも彼女を美しく彩っていく中、やがて本分を思い出した老子爵は恭しく一礼し、所在なさげに彷徨う手を取った。
「メルクリス様! 御召し物に大事はございませんか?」
「ええ、お気遣いありがとうございますね、マーロウ子爵閣下。本当にごめんなさい。楽しい雰囲気に水を差してしまうなんて……」
「何を仰いますやら。貴女様ほどの美しいお方がそのように顔を曇らせては、周囲もさめざめと色褪せましょう。むしろ……」
老子爵は、倍以上年の離れた女性の顔色を恐る恐ると伺って。
「わたくしどもの趣向の方で、何か気分を害していらっしゃらないかと危惧するばかりでございます」
「まぁ! そんなことはありえませんわ」
花のような微笑みに、老子爵は心から安堵した様子だった。
――メルクリスは社交界の華だった。
美しい白絹のドレスを身にまとう姿は、この場に集う妙齢の貴婦人たちでさえ溜息をつかせるほどに魅力的。
また服の上からでも激しく主張する胸の膨らみは、年老いて色事から遠く離れた者の視線さえ惹きつける。
誰もが彼女の一挙手を注目していた。
今夜のように料理と音楽を心行くまで楽しんでいただくという名目で開かれるパーティで、メルクリスの参加と評価の是非には大きな価値があることを、貴族社会の誰もが理解している。
「……ああでも、ごめんなさい。少し立ち眩みしてしまいました、子爵閣下。少しだけ中座させていただいても?」
「もちろんでございますとも、メルクリス様。……誰か!」
老子爵の手拍子に、素早く給仕たちが部屋の準備に動く。
多くの貴族たちが思い思いに過ごす懇談室ではなく、彼女のために用意されたただ一つの個室の準備に取り掛かるためだ。
特別な待遇を不思議に思う者はこの場にいない。
彼女と、その家が誇る権勢を思えば冷や汗を掻いているのは老子爵の方だと、誰もが理解していた。
「ごきげんよう、皆様。また後で」
メルクリスは、その場の全員に優雅に一礼をする。
傍に控えるのは彼女の御付きが一人のみ。老子爵がエスコートを申し出る一幕もあったが。
「マーロウ子爵閣下。どうぞご遠慮を」
ずい、と彼女の従者が前に出た。
場所と立場を弁えない無遠慮な態度に、老子爵の眉が不快そうに寄る――が、申し訳なさそうに小さく頭を下げるメルクリスの前に不機嫌さを引っ込め、笑みと共に見送られた。
パタン、と扉が閉まる音。
部屋に従者と二人きりになったメルクリスは、悩ましく息を一つ吐いて向き直る。
先ほどの無礼を窘めるよう眼光を鋭くして、開いた扇子で口元を隠して。
「ねえ、ワーグナー? 少し過保護が過ぎるのではなくて?」
「貴女様を思えばこそ」
深々とワーグナーと呼ばれた御付きが頭を下げる。
表情一つ変えず抑揚のない声で応じる男には人間味が感じられず、強烈な光を放つメルクリスとは対照的な影法師――その表情に小さな険を込めて。
「任務失敗の報告を聞くなり、窓から身を投げて証拠隠滅を図ろうとした危ういお方相手に、何の過保護がございましょうや」
「それは……その時の服装が悪かったの。短慮だったと思うわ。絶対に失敗できない使命を果たせなかったとなれば、命で償って繋がりを絶たなければ、って」
うふふ、と過去の失敗談を語るような照れ笑い。
話す内容の苛烈さとは比較にならない、とワーグナーは肩を落とし、従者然とした態度は崩さないままこれ見よがしに首を振る。
「あの方にとって、貴女様は貴重な協力者。短慮はこれっきりにしていただきたいものです」
「うふふ。お世辞と受け取っておきますわね。わたくしの代わりなどその気になればいくらでも……自分の立場は弁えていてよ。ただ、あの方のお手を煩わせたくなかっただけ」
何しろ、とメルクリスは憂い顔と共に熟れた溜息をついて。
「不肖の甥を起用したのはこのわたくしの甘さ。弁明のしようがありませんもの」
「……それは貴女様の慈愛にございますれば。形は歪なれどイワンナッシュ様の将来を想っての抜擢……優秀な補佐も付いておりました。ひとえに――」
「ワーグナー」
ぴしゃり、と扇子が閉まる音がその先を封じる。
押し黙る従者に対し、メルクリスはゆっくりと歩み寄るとそっと唇を耳に寄せた。
淑女にあるまじき不適切な距離感で、クスリ、とメルクリスの口元が裂けた月の形を作ると。
「慰めてくれているの?」
「私などが、滅相も――メルクリス・イングウェイ伯爵夫人。御身が聖龍国の重鎮が一柱であると、ただそれを自覚していただきたく」
「あなたの忠言はいつもわたくしを蜂蜜のように甘く蕩かしてくれるのだけど……わたくし、甘やかされるよりもっと荒々しく、身勝手に愛を囁かれる方が好みよ?」
うふふ、と煙に巻く主人の様子にだいぶ危うさが消えたのを見て、ワーグナーは深々と頭を下げつつ静かに安堵の溜息をついた。
――ひとまずは、気持ちも落ち着いたようだ。
恐熊猫一家と人形師一座、双方との連絡が途絶。
始末するべき運び屋、数人の生還。
黒棺の中身が暴かれたことへの危惧。
遅ればせ報告を得るたび、思い詰めて彼らの調査が自分に及ぶわずかな可能性さえも摘み取ろうと、王城から身を投げようとした時は、度肝を抜かれたものだが。
大貴族の伯爵夫人という立場をあっさりと擲つ程の、呪縛にも似た忠誠心には従者ながら舌を巻く。
「その後の顛末は? 黒棺の中身は追っているのでしょう?」
「風見鶏亭のゼッダ経由で紅龍国に出国後、消息不明でございます。今しばらくご猶予を……ところで、運び屋たちは王都に戻っているようですが、人をやって手を下しますか?」
「――いいえ。裏社会の殺し屋は、もううんざり」
言葉とは裏腹に、メルクリスは微笑みを作った。
事はそう単純な話ではない。
わざわざ依頼という形をとり、人通りの少ない旧山道で狙うのはそれ相応の理由があるのだ。
雑に王都の街中で毒や闇討ちで始末するだけならいつでもできる。が、ある程度の体裁を整えなければ――荒ぶる龍の眠りを妨げる結果となるだろう。
「騎士団に、妙な動きはない?」
「まだ何も。……近々、大捕り物の計画が進行中と小耳に挟みましたが、ご安心くださいませ。我々のことが嗅ぎ付けられてのことではございませぬ」
「絶対はないの、ワーグナー」
影の肩が震える。
僅かに感じた恐怖は、従者が自らに降りかかる災禍を危惧したものではない。
恐る恐ると顔を上げれば、宝石のように美しいメルクリスの瞳がどこか小さな諦観を宿しているのが分かった。
「今回のこと、よく勉強になったわ。絶対なんて在り得ない。たとえ龍でも『絶対』だけは請け負わない。わたくしの甘さがこの結果を招いたのだから」
少なくとも結果は、そう示した。
たかが数人の流れ者と弱小止まり木の冒険家――裏社会で名を利かせる勢力の一つや二つで事足りると踏んで人に始末を任せてしまった。
嗚呼、と悲嘆に満ちた溜息が下りる。
額に両の指を添え頭痛に堪えるように眉を顰め、己の不明を呪う。
「挽回しないと、雪辱を晴らさないと。まだわたくしに『次』が許されている内に恥を注がねば、二度とあの方に顔向けできない――うふふ。わたくしももう、立派にイングウェイの血族ね」
そんな甥っ子へのささやかな共感で身を滅ぼしかけながら、メルクリスは浮かべた笑みを取り繕えない。
仕方がないのだ。
あんな出来損ないの身内でも少しは可愛く思ってしまうし、成功してほしいと願うし、一皮剥ければ面白い存在になるのではという期待もあった。
突き抜けた虚栄心と歪んだプライド。
嗜虐心と名誉への渇望がメルクリスは嫌いではなかった。
「けれど騎士団のうち第一、第二、第四まで王都に滞在中。妙な動きを一度でも勘繰られれば身の破滅――今、悪いことはできないのがもどかしい」
よって事態を静観する他ないのだ。
何重にも渡って絡め取ったはずの罠を食い破った生きの良い標的たちへと想いを馳せて、メルクリスは悩ましげに息を吐いて自らの体を抱く。
「悔しいわ。こんな敗北感、いつ以来かしら」
伯爵夫人という地位を得てから久しく経験しなかったことだ。
同じ頃、とある黒尽くめの少女が『痛み分け』と形容するこの争いは、メルクリスにしてみれば『完敗』と表現するしかない。
目的の半分も遂げられず、幾つかの状況をあやふやにする事で彼らには迎え撃つための時間も稼ごうというのだ。
これが敗北でなくて何だというのか。
「事前の想定を覆したのは奇跡のような偶然? それとも悪魔が導いた必然? どちらにしてもたった一つの計算違いで済むはずない……残念だわ。ああ、残念!」
――その割には、楽しそうでいらっしゃる。
従者ワーグナーは跪きながらそんな所感を得る。
今夜のお召し物が主人の機嫌を向上させるのだろうか。あるいは失敗すれば命だって呆気なく捨てるくせに、決して遊び心を我慢できないのもメルクリスの性分か。
あの夜もそうだ。
怪しげで印象に残る怪しい貴婦人のドレスを身に着けたメルクリスは、取り調べ室で場違いなお茶会を開かせ、従者たる自らには不気味な仮面を付けることを命じた。
ワーグナーの独断で紅茶に判断力と警戒心を失わせる薬草を混ぜてみなければ、従令を用いた交渉の行方さえどうなっていたことか。
――それにしても妙な話だ、とワーグナーは思考する。
黒棺の封印に限れば、全ての手を尽くしていた。
王国の宝物庫に長い間保管されていた魔族封じの棺桶。
解放の合言葉は最高機密の情報として取り扱い、予想外の襲撃に備えて聖絹も大量に取り寄せて対応した。
それが破られるとすれば、一体どんな要因が考えられるのか。
――調べてみるか。
この方の耳には入れまい、と独断を心に決める。
主人は絶対などないと口にする。しかし、その道理を曲げて確実な成果を提供するのは従者たるワーグナーの責務だ。
万が一、この独断が致命的な失敗に繋がるのであれば、主人の心意気に殉じて命と共に繋がりを絶てば良い――なるほど、とワーグナーは小さく笑みをかみ殺した。
病的な忠誠心に蝕まれているという観点では、自らも主人と同類の類だった。
「ええ、認めましょう。此度はわたくしの負け」
パーティを彩る大輪の華は、胸の前で手を組んだまま蜜花に吸い寄せられた蝶のようにくるくると回って。
「けれど――勝ち逃げなんてさせないわ」
男性を魅了する唇が、獣の如く引き攣る。
貴婦人然とした雰囲気が、汚濁に呑まれて霧散した。
妖精のように華やかな空気は腐食した。
人々を魅了してやまない社交界の華は――いまや猛毒を備えた毒花へと姿を変えた。
「恥を注がねば。間違いなどなかったことにしなければ。この屈辱は結果で洗い流さなければ。ええ、ええ、うふふ。決して、決して、逃がしませんわ」
牙を研ぎ、息を潜めてその時を待とう。
掛けた時間だけ屈辱と悔恨をこの身に刻み付けよう。
真摯に一途に、誠心誠意の敵意を以って、生涯の仇敵と定めよう。
「確かそう――ハルって名前の男の子」
次こそは忘れまい。
魔剣使いを返り討ちにした事実を。
数多の罠を掻い潜った機転と生命力、悪運の強さも。
その全てを暴き立て、網羅したうえで。一切の手違いが起きない舞台を整え、迎え撃とう。
「再び巡り合えるその時をわたくし、一日千秋の想いで待っていますわね――ハル」
権力と財力を有した悪党の華は妖艶に微笑み、愛しく、憎らしい怨敵の名を舌で転がすのだった。
『第2章 比翼が出逢う日』編はこれにて完結となります。ここまで読んでいただき心より感謝申し上げます!
次章につきましては鋭意製作中です。
ある程度全体の輪郭が形になれば随時、タイトル含めて更新予定。進捗状況につきましては、定期的に活動報告でご報告させていただきます。
最後に改めて謝辞を。
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たくさんの方に読んでいただけることを何よりのモチベーションにして、一層精進いたします(`・ω・´)
これからもどうか根気強くお付き合いいただければ、これに勝る喜びはありません。
新章でも是非、よろしくお付き合いくださいませ!




