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エピローグ 「一人騎士団」








 打ち上がる水飛沫の舞踊を、ハルはジッと見詰めていた。

 霧のように淡い水量を吐き出したかと思えば、次の瞬間には激しく噴き上がって見る者の目を飽きさせない。

 跳ねる水に追従するように水のマナが弾けて、透明な雫に青のいろどりを添えていた。


「――」


 ハルはベンチに腰掛け、身動き一つしなかった。

 夜の焚き火の時と同じだ。

 無心に何かを思う時、静謐な水音と一定でない動きは見ていて飽きることがない。


 物思いに耽るハルが思い出すのは、あれは確かそう――瀕死だったシオンが峠を超え、気が付けば一緒に行動することが当たり前になっていたルシカの、ある一言から始まった。


『――喜んで、ハル』


 そう寿ことほぐ彼女の黒い瞳は、複雑な色に揺れていた。


『君の夢は、ようやく叶うから』


 慈しむような声。

 羨むような微笑み。

 心の底からハルの幸いを喜ぶ彼女が、突然のことに首を傾けるハルの手をひょいと握って。


『言っただろ、君。無事に戻ったらシタイことがあるかって。君はこう言った。今度こそ彼女・・の凱旋パレードを目にしたい、と』


 ――心臓が、暴れ馬のように激しく脈打った。


 それはハルの生涯における目標だ。

 聖龍国ミトラの王族。世界最強の剣士。並び立つ者のない英雄。最強無比の一人騎士団アインスロット……ハルが、一目見ることさえも遠い遠い憧憬の少女。


 あの子に一目会いたかった。

 自分が英雄になるのは無理でも、英雄を称える有象無象の一人として感謝を、尊敬を、憧れを伝えたかった。


 騎士になりたいという目標もある。

 ハルの夢は、与えられた恩と憧れに支えられていた。


『今日だ、ハル。君が憧れた少女は今日――王都への凱旋を果たす』


 だからその日は、ハルが歩んできた全ての苦行に報いる最高の一日になるはずだった。






◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇






 ――あの子を見ることができる特等席。


 そう説明され連れてこられたのは、夕暮れ時の噴水広場。

 人通りの多い憩い場を見渡し、ハルは首を傾げる。

 王族の凱旋となれば、王城へ向かうためのリグラン大通りと相場が決まっているはずだ。


 人が思い思いに懇談するこの広場も、凱旋を告げる鐘楼の音がひとたび鳴れば、あっという間に閑散とするに違いない。


 何故こんなところに?

 疑問をよそにルシカで二人並んでその時を待っている時だった。唐突にルシカはハルの耳元に唇を寄せ、切れ長の瞳をふっと和らげて。


「ハル。騎士になりたいと君は言ったね」


 本題を逸らすような問いかけだった。

 大勢の人が行き交う中で唐突に挙げられた話題に、ハルは居心地悪そうに身を揺らす。


「……まあ、な」


「騎士になりたいと夢見る少年は多い。けれど思春期を迎える頃には、幼い憧れだったと憧れをしまいこむ。平民が騎士になれるはずがないってね。君はそう思わなかった?」


 胸にチクリと小さな痛みが走った。

 彼女はハルの夢を笑わない得難い友人ではあるけど、それでも改めてそう問いかけられてしまうと口ごもってしまう。


 夢を語る時、あるいは夢を語った後にいつも訪れる苦しみに息が詰まりそうだ。


「分かってるよ……無謀な夢だってことぐらい」


 今でもハルの夢の中に出てくるのだ。

 夢を聞いた時の、相手の呆れ顔。

 可哀想なものを見る目。

 夢想家だと笑う口。

 鼻で笑われ、あるいは気の毒そうに眼をそらす人を見るたび、ハルの内側で燻るおりを自覚する。


 そんな時いつもハルは決まって、笑みを作ってきた。


 苦笑いを見ると、相手は安心するから。

 苦笑いを作ると、自分も安心するから。

 鍛え上げつつも律義に悲鳴を上げ続ける克己心を守るために、自然と浮かぶようになった笑み。


「馬鹿にしないのはルシカぐらいのもんだ。シオンだって最初に聞いたときは思いっきり顔を顰めたからな! 『は? 頭おかしいんじゃないですか?』って」


 それがシオンなりの優しさだ、とハルは気付いている。

 あの口の悪い弟と行動を共にすることになってから、ハルは随分と苦笑いが上手くなった。


 咄嗟の習慣で出し慣れた苦笑いを作り、できるだけ深刻にならないよう気丈に振舞い、陽気な声を作るハルを見て。


「……そんな風に笑うなよ」


 ルシカは、気の毒そうに眉を寄せていた。


「私には、今にも泣きそうにしか見えない」


「――」


 ハルの笑みが崩れた。

 おかしい。いつもと同じ顔をしたはずだ。

 泣きそうだなんてそんなはずない。村が炎に呑まれてからずっと涙だけは隠してきた。

 辛い極貧生活を送りながら、寂しさと寒さに耐えながら鍛え上げた克己心は、そんな簡単に崩れはしないはずだ。


「ハル。私は、君の夢を一切笑わないから」


 困惑するハルの視線と、真っすぐに射貫くルシカの視線がぶつかった。

 

「無謀だとか不可能なんて不純物いいわけで蓋をするのも無用だ。同類の前でまで取り繕わなくていいんだよ」


「……同類」


 親しみが混ざった表現だと思った。

 理解者とは似て非なる、同じ穴のむじなに向けてエールを送るような視線は、ハルを孤独にしないと告げているようで。


「性別も、得意分野も、価値観も、何もかもが正反対の私たちだけど……ただ一つ。見果てぬ夢に想いを馳せる生き方だけは一緒のはずだよ」


 じわ、と涙腺が緩んだ。

 けれどすぐに顔を背け、恥じ入るように唇を噛んで。


「……俺なんかと、比べちゃだめだ」


 彼女の夢は荒唐無稽で、スケールがでかくて、馬鹿げていて――けれど。誰よりも彼女自身が夢に対して誠実だ。


 真正面から向き合い、あらゆる手間と努力を惜しまず、何よりもその夢を声高に叫ぶほどの強い決意が備わっている。


 ――ハルはまだ、そんなことできない。


「俺は……ルシカみたいにカッコよくなれない。誰かに夢を話すことだって怖くて、どうすれば夢の方角に歩いて行けるのかも分からないまま……ずっと、藻掻いてるだけで」


 文字通り、ハルの人生は『無我夢中』だ。

 次の目的地も分からないまま砂漠を歩く遭難者、あるいは一寸先の闇の中を漠然と歩くだけの愚か者。前に進まなければ、という思いだけが先行し、次の行き先も決まらない。


「だって俺は――」


「知ってるよ」


 自嘲を口にする前に、ルシカは小さく微笑んだ。


「騎士になるのは、本当の夢じゃないんだろ?」


「――」


 絶句した。

 反射的に否定の言葉を紡ごうとして、口ごもる。

 ハルを見つめる黒尽くめの少女の視線は、美しい宝物を愛でるかのように柔らかで、その表情がハルから反論の言葉を奪い去ってしまった。


「『騎士になる』……良い夢だ。とても尊い、素敵な夢。でもね、ハル。その先の話をしよう。君にとって騎士の称号は目標じゃない。夢に至るための手段だ」


「――どうして」


「君の眼がキラキラ輝くのは、騎士の話をする時じゃなかったから」


 一目瞭然、とルシカは笑う。


「貴族の地位が欲しいわけでも、飽食と美姫に囲まれた良い暮らしがしたいわけでもない。おおよそ騎士になることで得る多くの特典や責務なんてどうでもいい。……そうだね?」


 促されて思わず首が縦に動く。

 見通すような黒曜の瞳に苦手意識を持ちつつも、心中を暴かれていく感覚に例えようのない感情が浮かび上がった。


 このままハルが言えない願いを、全て彼女は引き出してくれそうで――でも、その甘えをハルは自身に許せなかった。


「……悪かった。俺、夢のことでお前に嘘をいたんだ」


 その時だった。

 耳朶を震わせる重々しい鐘の音が大通りに響いた。

 王都の中心地に立つ時計塔が鳴らす、無機質な鐘の音とは違った。


 王族がパレードを行う時に聞いた美麗な音色とは似ても似つかない、まるで不幸を運ぶ前触れのような耳障りな晩鐘。


 それが王族の凱旋を知らせる合図だと頭の中で理解しつつも、ハルは微動だにせず、ルシカを見つめていた。

 ルシカに伝える内容を考えるのに精いっぱいで、周囲の音なんて耳にも入ってこなかった。


「騎士になりたい、っていうのは……それ以外、思い付かなかったから。本当は騎士のこと、何も知らなくて。現役騎士の名前だって、誰一人知らないぐらいで……」


 彼女の言う通りだ。

 騎士への憧れは、別の誰かの借り物でしかない。

 死に別れした幼馴染たちの誰かが口にしていただけの、耳障りの良い建前。

 そんな建前の裏側にずっとハルは本音を隠してきた。


 自覚していた。

 ハルの本当の夢は、もっと汚くて浅ましいもので。

 身勝手で、愚かで、馬鹿げていて、現実が見えてなくて。

 『騎士になる』なんて口にすることさえも吹き飛んでしまうほどの、傲慢で恥ずかしい願望だって。


「……言ってごらん、ハル。君の本当の夢」


「俺の夢は……」


 それはシオンにさえ語ったことがない。

 龍の怒りに触れる告白であり、鬼に舌を抜かれても文句は言えないほどの裏切りで、あらゆる人々に後ろ指を刺されるような不敬だ。


 けれど。


「私は笑わない。どんな荒唐無稽な願いでも、どんなくだらない野望でも、絶対に笑ったりしない。だから君自身の言葉で。ハルだけの夢を教えて」


 ――覚悟を決めるのに、どれほど時間をかけただろう。


 気が付けば噴水広場には誰も残っていなかった。

 自分とルシカ、二人だけの夢追い人。時折上がる水飛沫を生温い風が攫っていく景色の中で、ハルは唇を震わせて。


「あの子に、笑いかけてもらいたくて……」


「……うん」


 応じる彼女の声は、慈愛に満ちていた。

 顔なんてとても向けられない。夕暮れの陽にだって見られてはいけない――顔を俯かせ、額に手を当てる姿はまるで罪人の告白だ。


 いや、事実。

 口からこぼれるのは懺悔に近かった。


「もう一度、会いたくて……」


「うん」


「立派になった自分を誇ってもらいたくて……っ、ありがとうって伝えたくて……あの、きれいな笑顔が忘れられなくて……! 思い返すたびに胸が苦しくなって自分でもわけわかんなくて!」


 勇気が出てこない。

 色んな条件が、事情が、性格がハルの決定的な一言を封じている。


 ただ一言の吐露を口にした途端、この身は龍の炎に焼かれて死ぬんじゃないか。そんな疑いをハル自身否定しきれず、餓えて狂った犬のように憧れだけがこぼれていくなか――


「ハル」


 優しい声が降ってきた。


「君は『あの子』に、恋をしてるんだね」


「――」


 眩暈がした。

 咄嗟に口に出そうとした否定の声も形にならない。

 その隙間を縫って、脳をぐらぐらと揺らす魔性の声音ねいろが、凄まじい奔流となってハルの思考を搔き乱していく。


「憧れとか恩とか尊敬とか、君はそんな表現を使うけど。ハルが『あの子』を語る時の目の輝きが、すべてを物語る。君の夢は、彼女への想いで満ちている」


 人差し指を立てて唇の前へ。

 片目を瞑って囁く。


「知ってる? 女は、誰が誰に恋してるかなんて、大体分かっちゃうものなんだぜ?」


 蠱惑的で、悪戯げな表情が印象的だった。

 覚えてる彼女の仕草と言えばそれぐらい。

 ハル自身の思考は、彼女に投げかけられた言葉にどんな否定を重ねればいいか、という命題に終始していた。


 馬鹿げてる。恐れ多い。恥ずかしい。


 生国の王女、今をときめく英雄に懸想するなど浅ましい。

 騎士になりたい。日頃、口にする願いでさえ、その大部分があの子への憧憬の想いで結ばれている。


 けれど――あまりにも、馬鹿げた願いではないか。


「っ……恥ずかしい……っ!」


 あの子は王族。自分は平民。

 あの子は英雄。自分は凡人。

 あの子は龍の眷属。自分は鬼に蝕まれた身。


 誰が許すものか。

 誰が祝福するものか。

 人も龍も、魔でさえも、この想いを呪わしき執着の果てと断ずるだろう。


 だから、形だけ真似をしたのだ。

 あの子ならばこうするのだと。

 あの子なら見捨てないと。

 あの子の前に立つ時、恥ずかしくない自分でありたいと。


 ――夢の道程みちのりを見失ったまま、形だけ英雄を真似たのだ。


 だからハルは、イワンナッシュを笑えなかった。

 笑えるはずない。

 英雄ごっこは、お互い様だったのだから。


 何十、何百と善行を重ねようが、人を救い続けようが、結局は自分の不安を紛らわせるための現実逃避でしかない。

 誰よりハルがそれを理解していた。


「努力、したんだって。成果を出したんだって。夢に向き合っているんだって言い聞かせるために、俺は……っ」


 あの子の前に立った時に恥じない自分で在りたい?

 どうすれば王女あのこの前に立てるかも分からない分際で?


 想い一つで叶う夢などあるはずもない。

 形だけ誠実であろうとして、未だ藻掻くばかりの自分の心を慰めるために行動して、善人面をしてきたのだ。


「俺は、自分が恥ずかしい……っ!」


「恥じるな」


 乱暴に胸倉を掴まれる。

 額と額がぶつかり合う至近距離で、怒りを滲ませた悪党の目が吊り上がっていた。


「どれだけ馬鹿げた夢でも、たった一つしかない命を張ってきたんだろうが。君がそんなだから、ここに連れてきた。自分たちの現在地を、その目で確かめろ」


「何を……?」


「気付いているか。もう周りに人が誰も居ない」


「……!?」


 促されて周囲を見渡せば、人ひとり見付けられない。

 ハルにしてみれば、まるで瞬きの間に人が消えてしまったかのよう。王都の光景とは思えないほど閑散とした噴水広場の中で、あの不気味な鐘楼の音だけが断続的に鳴り響く。


「王族が率いる騎士団の数だけ、鐘楼の音色は違う。ほとんどが華々しい凱旋を彩る荘厳な音だけど、ただ一つの騎士団だけは別。その音が鳴り響けばみんな建物の中だ」


 住民たちは雑談を止め、慌てて去った。

 露天商は地面に敷いた商品を抱え込み、宿へと駆け込んだ。

 巡回する衛兵は帽子を眼深に被りなおして詰め所の中へ。

 道並ぶ建物は残らず窓を閉め、誰もが息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待つなか、胸に手を当てルシカが歌う。



「『聖龍歴に曰く、其は人族史に刻まれし奇跡の少女』」


 

 歌詞ではない。

 吟遊詩人が語る叙事詩の謡い口だ。

 物語の一幕を読む詩人が英雄を崇めるうたを並べる。


「『幼少期から騎士団に属し最前線に立つ天才剣士。ミトラ王族始まって以来の最高傑作。魔神を封じし聖女ミトラの再来。世界に六人しかいない龍剣豪の頂点』」


 それは、とある英雄を語る現代の叙事詩。

 彼女を――『あの子』を謳う時に用いられる一節。

 ハルも多く耳にする機会があったそれは、ここから数多くの華々しい戦果を歌い上げるまでがお約束だ。


「彼女は無敵で、それゆえに孤独だ」


 けれどルシカの語りが一変する。

 暗く沈むような、穿った見方をすれば、悪意すら感じさせるような声音の変化。


「どれほど無謀な任務を命じられても、彼女は必ず標的を斬り捨てて帰ってきた。どんな死地に赴こうが彼女は生きて帰ってきた」


 本来語られるべき栄光の、その裏側。

 ルシカは昏い目をして暴き立てる。


「彼女を守るため、多くの騎士が彼女と共に戦地に赴いた……けれど騎士は戻らなかった。英雄の帰還は常に血と犠牲に彩られた無残な凱旋だった」


 ――彼女が現れたのはその時だった。


「――――ぁ」


 小柄な体躯だった。

 背の高いルシカと比べれば頭ひとつは低い。

 夕暮れ時の、真っ赤に濡れた陽の光を浴びてもなお美しい銀色の髪。

 純白の絹衣装に身を包み、腰には剣士を証明する業物の剣が納刀され、反対側に骨造りの龍面が引っ掛けられている。


「そのうち彼女しか帰ってこないのが当たり前になった」


 白い肌も、純白の衣服も汚れていた。

 夕焼けに溶けて目立たないが、白い彼女を侵食する赤斑点は血の痕だ。

 自ら流した命の水か、あるいは他者から浴びた返り血か。


「彼女に付き従う騎士は、一人もいなくなった」


 壮絶な凱旋だ。

 少女から放たれる独特の威圧感が凄まじい。

 傍で見ているだけなのに、禍々しい剣の切っ先がすぐ鼻先にあるような。


「いつしか英雄はこう呼ばれ、恐れられた」


 鳴り物の響かない逢魔が時。

 静寂に包まれ、誰一人迎える者のいない行進。


「――なん、で」


 この時、ハルはようやく思い至った。

 まさか、という気持ちが思考を鈍らせていたのだ。

 以前に見たソレとは似ても似つかない光景を到底受け入れられなかった。


「曰く、騎士殺し王女」


 まさか、これが彼女にとっての……『あの子』にとっての、凱旋パレードなのかと。


「曰く、一人騎士団アインスロット


 たった一人の凱旋。

 その姿はハルの目に悪い意味で強く焼き付けられた。

 ずっとこの日を待っていたはずなのに。

 どんな風に成長しているだろうと夢想した姿と比べても、通り過ぎる彼女の肩幅は小さすぎた。


「曰く、剣姫……いいや、剣狂けんぐるいのアリス」


 小さな彼女は誰にも喝采されず。誰にも喜ばれず。

 そして彼女自身が誰にも期待していない。

 孤高の凱旋をハルはしかとその目で見た。誰も咎めないというのに、声一つあげることもできなかった。


 これはないだろう。

 こんなひどい景色を、見に来たわけじゃない。

 こんな苦しい現実を、見に来たわけじゃない。


 剣狂けんぐるい。

 剣に狂った姫は、異名の通り一振りの剣そのものだ。

 モノの帰還を歓迎する者などいないとでも言いたげな光景に絶句する。


 彼女――アリスは噴水広場に面した通りを、淀みない足取りで通り過ぎていった。


 ハルに一瞥もくれなかった。誰かが自分を見ているなどと露ほども考えない様子だった。


「――は」


 ハルは、呆然とアリスの凱旋を見送った。

 声が出なかったのだ。

 一目彼女に逢いたいというハルの願いは叶ったのに。

 姫に声をかけ、言葉を交わし、感謝を伝えるという望外の夢さえ叶えるチャンスがあったのに。


 ハルは一歩も動けなかった。

 

 アリスの姿が視界から消えた後も。

 鐘楼の音が消え、ゆっくりと人々が外に出てくる頃になっても。太陽が完全に沈み、夜の帳が下りてきてもなお、動けなかった。



 ハルは、剣狂いアリスの凱旋に打ちのめされていた。






◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





「――ハル?」


「あっ……」


 肩を掴まれて我に返る。

 あの時と同じ噴水広場。

 あの時と同じ黒尽くめの少女が首を傾げていた。

 踊る水滴に誘われて、随分深く思い出を掘り返していたのだと気付いて苦笑いを返し、立ち上がる。


 まったく、いつまでも引きずりすぎだ。

 もう剣狂いの凱旋は十日以上前の出来事で、ホウロン村のゴブリン事件を乗り越えるよりも前の話だというのに。


「どうだった? 情報屋って人に聞きに行ったんだよな?」


「空振りだね」


 予測が当たって残念、とばかりにルシカは肩をすくめた。

 

「詰め所の面会記録は添削済み。君たちを牢から連れ出すのに協力した衛兵数人は役職を与えられ地方に栄転。従令ギアスを持ち掛けた謎の女性は、綺麗さっぱり痕跡を消した」


「あれだけ目立つ人だったのに……」


 あの日以来、ハルたちは四人もの死者を出すことになった人形師事件の黒幕……黒ローブの女性を追っていた。


 ルシカは彼女の目的を関係者全員の皆殺し。放置してもいずれ再び立ち塞がる可能性を感じ取ったからだが、調査は思うように進んでいない。


「見事なものだよ。『自由にする』って報酬を先払いして、従令ギアスは綺麗さっぱり成就。どう展開が転がっても、女性に辿り着けないよう綿密に計算された企みだ」


「……迷宮入りになっちまうのか?」


「ああ。今の時点では手の打ちようがない」


 金も人手も、今の自分たちには足りないものばかり。

 王都で人並みの生活を送る形がようやく整った程度で、まだまだ彼らの道筋はスタートラインに立ったばかりだ。


 今のハルたちには、燻る火種を取り除くことも、後々の禍根を絶つことも遠い。


「けれど、いずれ雌雄を決する日が訪れる。来たるべき時に向けて私たちは力を蓄え牙を研いで、次の戦いに備えるんだ。その時こそ、確実に仕留められるように」


 ルシカは獰猛な獣に似た笑みを作り、痛み分けた相手への応報を誓う。


「このまま勝ち逃げはさせない。悪党の名に懸けて、ね」


 ハルもまた応じるように頷いた。

 紛れもなくあの黒ローブの女性は悪意に満ちた仕掛けでハルたちを絡め取ろうとした。


 黒棺コフィンは予定通り他国へと出荷されるよう手配したが、いずれ自分たちが生還していることを突き止めるだろう。その時は、再び魔の手を伸ばしてくるはずだ。


「じゃあ、その話はこれで終わり。それで?」


「……なんだよ」


「思い出していたの? 剣狂いのことを」


「その呼び方、あんま好きじゃねえ」


 ぶっきら棒に答えて、ハルは噴水の方へ視線を逸らす。

 図星を突かれた様子にくすくすとルシカの笑みが重なり、その時と同じように二人並ぶ。


「ここに来るたびに、考えちまう。なんであの子は、あんな扱いを受けなきゃいけないんだって」


「色んな事情があるんだ。彼女が悪いわけじゃない。民衆が冷たすぎるわけでもない。王国が冷遇しているわけでもない。ただ、些細な事情が組み合わさって、ああいうことになってる」


 少なくとも王都の外からでは、彼女の置かれている立場など知ることはできなかった。

 多くの人々に喝采を浴びて、眩しいほどに笑顔を振りまいて、英雄の正道のど真ん中を歩き続けているのたと思っていた。


 その姿を一目見れば、悟れると思っていた。

 自分の如き凡人では手の届かない英雄ひとだと、完膚なきまでに理解できるんじゃないか――そんな後ろ向きな諦観さえ在ったはずなのに。


「ルシカがあの凱旋に俺を立ち会わせたのは……」


「君があんまり自分を卑下して、彼女を神聖化するものだから。自分たちの現在地を知ってもらって、思い違いを正そうと思ったのさ」


 悪気なく言うものだから、苦笑いが出てしまう。

 彼女はいつも夢に対しては誠実で、前向きで、そして苛烈だ。


「ハル。色んな建前は置いておいてね。身分とか種族とか、そんなのは全部些細なことで――」


「分かってる」


 その続きを、ルシカには言わせない。

 これはあの凱旋の日の再現だ。

 あの時は答えられなかった。今だって自分の想いは浅ましくて、褒められたものじゃないと思っているし、現に口にする勇気はまだ持たない。


「あの時は、ただ圧倒された。疑問ばっかで、何一つ言葉かたちにならなかったけど……でも、もう一度逢う機会をもらえた」


 あのゴブリン事件の最後の時。

 首謀者を捕縛した白尽くめの少女と言葉を交わした。

 その時のハルは鬼の姿で、実際に顔を合わせて話すことはできなかったし、ハルは自分の中の怯えと戦うのが精いっぱいで、ろくな話一つできなかったけど。


「……安心した。あの子は今も昔も変わらなかったんだって」


 剣姫アリスの、少し引っ込み思案な声を思い出す。

 言葉の端々に思い遣りがあった。

 ハルの正体を暴きもせず、怪我の心配をして、喋る魔剣の讒言ざんげんさえ跳ねのけて見ないふりをしてくれた。

 大人になっても、憧憬の少女は心優しい英雄のままだった。


「前にも言っただろ、ルシカ。次にあの子と会う時は、もっと頑張るんだってさ」


 今度は顔を合わせて話をするのだ。

 例え誰も彼女の功績を讃えなくても、救われた命がここにあるのだと。


 感謝を伝えて。尊敬を伝えて。

 その後のことは、その時考えればいい。

 霧の中で藻掻き続けていた以前に比べれば、今のハルは立つべき場所がはっきり見えている。


「俺は、とりあえずそこから始めるよ」


「ああ。そのための舞台を私が整えてやる。君が私に力を貸してくれる限り、私は君のために何度でも無茶を通してやるさ。命を懸けた分だけ、均等に、対等にね」


 どちらからともなく何度目かの笑み。

 ハルが自信を少しずつ取り戻せているのは、間違いなくこの麗しい共犯者が心を砕いてくれたおかげだ。そんな彼女は気さくにハルの肩を叩いて――


「期待しているよ、ハル」


 いつもの、無理難題を口にする。

 彼女らしい優雅さで、色褪せないほど鮮烈に、力強い期待で以ってハルの背中を張り飛ばすのだ。



「いつかあの一人騎士団アインスロットの心を奪い去ってしまうような、素敵な男性になってね」


 

 ハルは返事代わりに、照れ臭そうに頭を掻くのだった。






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