50話 「あなたは誰?」
二十箇所を超える骨折。
腰部の一部欠損に伴う出血多量。
脱臼、靭帯損傷、内臓創傷。その他も数えきれず。
重傷理由の見本市のまま丸一日馬車に揺られたシオンが命を拾えたのは、今でも奇跡だとハルは思う。
王都前の正門に辿り着いた頃には呼吸が止まっていて、土気色の顔からは生命を感じられなかった。
診療所に運びこもうとするキーファたちの入都を、衛兵たちは認めなかった。
『まだ生きている』『診療所に運ばせてくれ』という主張も空しく響くばかり。
仲間を失い錯乱しているのだと見なされてしまい、シオンの身柄は診療所ではなく火葬場へと運ばれる手続きまで事務的に進んでいく始末だった。
通りすがりの男が、待ったを掛けなければ。
『いやぁ、まだ微かに息があるよ、この子』
紙煙草を燻らせた薄汚れた格好の、中年の男だった。
キーファの怒号が飛び交う非常時のなか、彼はけたけた、と軽薄そうな笑みでシオンを見下ろして。
『ほら』
その額に手のひらを乗せる。
すると白い光が渦を巻いて男の手に巻き付いた。
精霊術だ、と誰かが口にした。
耳が尖がっていないぞ、と誰かが男を指を差した。
じゃあ森精族じゃなくて、混血の、と誰かが絶句した。
一斉に突き刺さる好奇の目にも一切動じず、男は白い光の奔流をシオンの体へと撒いた。
その眉間が痛みを堪えて動くのを見た彼は「あ、まず」と顔を強張らせて衛兵の肩を叩く。
『通してあげてくれません? 僕じゃ出力が足りなくて』
申し訳ない、と彼は笑顔の中に小さな焦りを滲ませた。
『生きてるってことを体が思い出したから、多分この子、あと数分で死ぬと思うんだよね、あは、あははは』
言葉を証明するように、こふっ、とシオンが血を吐いた。
後はもう蜂の巣を突いたような大騒ぎだ。
入都の手続きは全て後回し。
数少ない純血の森精族が務める診療所へと大至急搬送。
往診に出る直前だったフェリを引っ掴まえての緊急施療が始まった。
呼吸が途絶えたり吹き返したりを繰り返すこと、半日。
施術が終わった後も予断を許さない状況は続く。
超えるべき峠も数知れず。容体は、ハルが王都に戻ってきた時点でも安定しなかった。
一部始終を狸亭の二人に聞かされたハルは、これ以上ないほど青ざめ、病室に張り付いて何度も何度も龍と精霊に祈りを捧げた。
その想いが届いたのか、シオンはどうにか命を繋いだ。
「もー大丈夫です……」と汗だくになったフェリの声に、へなへなと膝が折れて崩れ落ちた。
あの時はどう呼吸をしていたかも覚えていない。
体を震わせるハルの肩に、ぽん、とフェリの小さな手が添えられた。礼を言おうと顔を上げた矢先。
『そのー。こーいう時に、こーいうのもなんですが』
お仕事なので、差し出されたのは、治療費の明細書。
その額を脳が理解する頃、ハルは諸々の心労も祟って気絶した。
請求書の額がちょっぴり増えた。
そんな流れで。
色んな方面に多大なるご迷惑をおかけした小悪魔な弟はいま、膨れ面でハルからソッポを向き、腕組みをしながらグチグチとお土産の肉串がないことをなじっている。
確かにあの事件から今日まで、シオンに肉串一本買ってやれてないのは事実だ。
だがハルにも言い分というものがある。
「……腹に穴が開いて内臓がグチャグチャだったんだぞ……まだ肉は無理だって。フェリ先生にも言われたろ?」
「だって! ここのお食事はお肉もないし、味も全然しないんですよ! 出てくるのは大体茹でてくたびれたお野菜のお浸し! 主食は鶏の卵とふやけたパン! これでもか、と葉物のサラダ! あと果実が一切れ!」
「聞いてるだけで健康になれそう」
餓死だけは防ぐ乾パンの大人買いに似た信念を感じる。
栄養さえ整っていれば味はまぁ、多少はね? みたいな胃腸に優しい不毛な味の暴力。
病院食とは得てしてこういうものだと思うが、ハルも正直あまりお世話になりたくはない。
「このままだと道行く牛の背に齧り付いてしまいますから! どうですか怖いでしょう! さあ早う肉串を持て!」
「猪さんに『ごめんなさい』したあの過ちを繰り返すな」
叩き付けられる弟の愚痴を聞いては頷く。
首を傾げ、笑い、焦り、また笑う。
何気ないこの時間に心の底からの安息を得て、ハルは想う。
(喪わなくて……よかった)
当たり前で当たり前の、家族の会話。
これからも続けることができる喜びを噛み締める。
まなじりが熱を持ち、思わず目頭を抑えると呆れた嘆息が降ってくる。
「……何でそんな感極まった顔するんですか?」
もう、と文句を言い足りない様子の弟が唇を尖らせる。
「再会を喜び合う儀式ってもう一週間ぐらい前に済ませましたよね? なんでいま、ここで泣くんだか」
「うるせえ、人の気持ちも知らねえで……」
ごしごし、と目元を腕で乱暴に拭い去る。
俯いた視線が上がり、そして傷だらけのシオンの体を改めて目の当たりにして口を引き結んだ。
「ザジたちの墓参りに行ったら、思い出しちまって、あれからお前、ほんとに危ないって聞いて、俺が、どれだけ……『ばいばい』が最後の会話になるかと思うと、もう……」
「仕方のない兄さんですね。事実、何度か死を覚悟したり死にかけたり死んだりしましたけど、この通り僕は元気です。あと、あんまりジロジロ見ないでくださいね、このすけべ」
「弟の裸見ただけでその扱いは納得いかねえ」
しかも包帯でぐるぐる巻きなので素肌は所々しか見えないという。いそいそとシオンが上着を羽織るまで視線を窓の方に向けつつ、ハルは小さく頬を掻きながら、ふと。
「つーか死んだっつった?」
「自分を騙しすぎて仮死状態まで行っちゃいまして。自分でも『あ、これ助からないなー』なんてかなり投げやりな感じでしたからあの時も大体そういう意味での『ばいばい』痛たたたたたたたたたた頭割れちゃう頭」
「二度と! そういう不意打ち! するなよ!」
「シオンちゃんとハルお兄さんの声がした!!」
ばーん! と勢いよく扉が開け放たれた。
背中部分を中心に翼の骨組みをギプスで固定したコレットの登場だ。
互いに遠慮のない罵詈雑言の応酬を呼び水に現れた彼女は、ベッドの上で揉み合うハルたちを見て。
「あっ……お邪魔、しましたぁ」
何かを感じ取り、頬を少し朱に染めて扉を閉めた。
いやいやいや!! と反射的に泡を飛ばしながら追い縋る。
「何でそんな『やべえもん見た』みたいな態度で逃げてくの!? なんか誤解が見えた気がするから話をしよう! ほらシオン見て!?」
「いやっ、兄さん、人が見てるところじゃだめ……」
「マジやめろよお前!! 業が深い話になるじゃん!!」
にたり、と悪魔の笑みでシナを作る弟と、赤くなったり青くなったりするコレットを交えて先ほど以上の乱痴気騒ぎが始まる。
そこから先はもうグダグダだ。
あまりの大騒ぎに治療師の一人が額に青筋を立てながら現れ、三人並んでこんこんと常識とか良識について説教されてしまう。
ぐうの音も出ず口を閉ざし、へこへこと頭を下げる一日となった。
気が付けば日は傾いて別れ際。
何しに来たんだっけ俺、と怪我人二人の分も余計に正座させられ、麻痺した足を更に遊び半分で諸悪の根源に突かれるハルは深い溜息を吐く。
「兄さん次に来た時こそお肉をぉ」
呪われそうな声音で縋るシオンに曖昧な返事で手を振る。
夜に向けてゆっくりと喧騒が収まっていく大通りを歩きながら、今日の出来事を振り返り、噛み締めるような苦笑いをこぼして頭を掻いた。
「……ほんと、締まらない話ばっかだったな」
でも、これでいいのだと思う。
こんなくだらない日常を今後も続けられることへの感謝を龍に、精霊に捧げなければならない。
道すがら太陽は落ち、暗くなった帰路を進む。
仮住まいの教会の前で顔を上げたハルは「あれ?」と首を傾げた。
「……ルシカ? まだ帰ってきてないのか?」
しん、と静まり返った教会の扉を訝しみながら開く。
日中の熱気が信じられないほどの冷たい風がハルの首筋を通り過ぎた。
人の気配がない階段を降り、そして家主のいない部屋を覗いて無人を確認して。
「ったく……どこ行ったんだか」
小さくごちるハルの腹の虫が、切なげに鳴いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「面会時間はとっくに過ぎていますけど」
シオンは病室のベッドに腰かけたまま、月夜が覗ける窓の外に声を掛けた。
ふわり、と闇よりも濃い黒の麻服を夜風で翻らせながら、黒尽くめの少女は壁に背を預け、顔だけを窓から部屋の中へ向けている。
「……」
饒舌な彼女とは思えないほどの沈黙があった。
纏う雰囲気と態度の齟齬に不穏な気配を感じたシオンの眉が寄る。
不気味に沈黙するルシカの黒瞳はシオンを捉えたまま離さず、ごく、と生唾を呑む音でさえ耳に残るほど静かな間が場を支配する。
「……兄さんに、悪だくみの片棒を担がせたそうですね」
返事はない。
だから遠慮なく糾弾する。
下半身を覆うシーツを剥ぎ、未だ麻痺が残る脚部に力を込め、壁伝いに移動しながらルシカにいる窓に寄りつつ、苦しげに吐き捨てる。
「一目見れば、この数日でどれだけ兄さんがまた無理をしてきたか、分かります。鬼化も使ったことだって……」
「……」
「兄さんを口八丁で操るなんて、お前にとっては造作もないのでしょうね」
シオンは確信している。
この女の本質はどこまでも悪だ。
丁寧に糸を張る蜘蛛のように状況を作り、甘言と使命感で惑わせて『そうせざるを得ない』と信じさせ、自分の思い通りに人を操る悪魔だ。
声で、仕草で、美貌で、理屈で、人を操る怪物だ。
初めて出遭った時から、そうだった。
女に背中を預けている間もただただ不快感が募るのだ。
理屈や理由が不明瞭のまま、獣じみた直感だけが吼える。
シオンは、この女のことが嫌いだった。
「お前の好きには、させない」
心が喚く。
絶対に信じてはならない女だ、と。
本能が叫ぶ。
絶対に相容れない存在だ、と。
古い記憶が警鐘を鳴らす。
アレは誰かを破滅させることで潤う悪党だ。
「――ふ」
今日初めて、女は笑った。
馬鹿にするような、嘲るような悪意に満ちた失笑――その細い首を締めあげてやろうか、とシオンは乱暴に窓を開け放ち、そして固まった。
ルシカの手には、小刀があった。
何の変哲もないそれをルシカは、振り上げるでも突き出すでもなく、刃の部分に白い指を這わせ、柄をシオンに向けて差し出した。
「君の小刀だよ。一部の冒険家の嗜み、自害用のね」
「っ……これは……」
目に見えた狼狽の反応。咄嗟に隠そうとするも遅い。
薄緑色の柄がお気に入りの、シオンの小刀。
あの時、無我夢中で斧の腹に突き立て、最後には取り落としてしまったはずの『それ』を震える手で受け取り、口ごもる。
「その……」
咄嗟の言い訳が出てこず、唇を噛む。
ルシカは怜悧な瞳を静かに細めた。
「君と最初に交わした会話を、覚えているかい?」
――君は誰だ。
――お前こそ、誰ですか。
初対面から互いへの敵意に満ちた、互いへの疑問。
「あれからずっと。君が誰なのかを考えていたんだ」
「……」
「けれど、いくら考えても答えは出なかった。ハルも君の話となると途端に口が重くなってね。埒があかないと直接聞きに来たわけさ。ハルの居る場所では聞かれたくないだろ?」
ひと際、強い夜風が吹き荒れた。
二人分の長い髪が風にさらわれるなか、まるで隠れて愛を囁くような至近距離まで顔を近付けたルシカの、どこまでも呑み込んでしまいそうな黒曜の目が不気味に光った。
「君は誰だ、シオンとやら」
問いかけは、抜き身の刃物のように鋭かった。
詰め寄る声にはある種の確信が宿っていた。
「ハルの弟? 馬鹿げてる。ハルに兄弟なんて居ない」
そうだ。
ある日の村の生き残りはたったの二人。
それ以外の命は全て魔獣に食い荒らされたはずだ。
虚を突かれ、反射的に顔を歪めるシオンの反応を観察しながら、ルシカはシオンの腕を手に取った。
視線は包帯を巻かれた胸部へ。
哀れになるほど平坦な部分を見つめて。
「まして――弟のふりをした妹なんて」
「ッ……!」
「どうして性別を偽る? 私はおろかコレットでも気付くほどの、お粗末な嘘だ。こんな裸同然の格好でも気付かないハルは本当にどうかと思うけど」
「放せッ!!」
女の手を弾く。
勢い余ってルシカの白い指に小刀の刃が引っかかった。
今の手応え、指を裂いただろうか。
誤って切り飛ばしたかもしれない。しかし彼女は艶めかしい所作で指に唇を這わせる。血の跡はない。
「……共に死線を潜った相手に対して、酷いな。こんなの、ただの世間話みたいなものじゃない? 私は君の落とし物を返しに来て、ついでに気になることを尋ねているだけなのに」
白々しく嘯く姿は余裕そのものだ。
黒曜の瞳がシオンの表情筋の僅かな動きさえ見逃すまいと揺れる。
「私は……!」
どこまでも心中を見透かすような視線に、シオンは唇を震わせた。
「……僕は! あの人の弟だ! 他人のお前なんかに僕たちの関係を踏み荒らされてたまるかッ!」
今にも手にした小刀で襲い掛かりそうな剣幕を受けても、ルシカは動じない。
黒髪をかき上げ、面白くなさそうに吐き捨てるだけ。
「そう……? ま、別に君の性別がどちらだろうが私は構わないし、何なら男だと言い張る方が都合がいいから、些細なことと流すけどもね」
「何様……」
「けれどただ一つ。これだけは見逃せない」
白い人差し指がシオンへと向けられた。
糾弾するような仕草が、まるで銃口を向けられたような威圧感を放ちシオンの喉が無意識に唾を飲みこむ。
この世の闇と言う闇を煮詰めた底なし沼のような、とても人の目とは思えない黒くて昏い、狂人の眼光が美しい彼女の相貌を一層不気味に仕立て上げた。
「ハルに何をした、自称弟」
「――ぁ?」
問われた瞬間『彼女』の表情が凍り付いた。
憤怒も困惑も一切合切が消え、どこかルシカを直視しようとしなかった視線がジッ、と黒曜の目とかち合う。
美しかった緑宝玉の瞳が、ルシカに負けず劣らず、どす黒く濁った。
――急所を突いた。あるいは逆鱗か。
「ハルは、あんな奴じゃなかった」
会心の手応え、否。
地雷だ。特大の爆弾を踏み抜いた。
背筋を凄まじい勢いで怖気が奔るもこの舌は止まらない。
「あれほど痛々しい笑顔を作る少年ではなかったし、あれほど自分を顧みることのできない人でもなかった」
舌に乗せる熱量が高ぶっていく。
「何より――」
ずっと問いたかった謎。
ずっと心の奥底に隠してきた矛盾。
あの人形師事件から生還し、今またゴブリン事件を一時の共犯者という立場で乗り越え、その間もずっとハルという少年を観察し続けて。
――その間、ルシカの内側に燻ぶったのは憤りだった。
「ハルは、違うはずなんだ」
本筋を敢えて逸らすような否定。
しかしシオンの瞳孔が目に見えて揺れた。
動揺を示す所作を一目見た瞬間、ルシカは自分の中にあった疑念への答えに手が届いたこと確信した。同時に自分でも制御が容易ではないほどの激情に、唇を噛んだ。
ルシカは口を開く。
干上がる喉を無理やりに抑えて。
「ハルは、鬼人族なんかじゃなかったはずだ!」
「――」
「鬼人族の力なんて無縁の、普通の村で生まれ育った、普通の少年だったはずだ!」
――馬鹿げた話ではないか。
彼がもし鬼人族の血を引いているのであれば。
例え混血種だろうが、その一端でも持っていたなら。
故郷の村を襲った魔獣騒ぎの時、どうしてその力を発揮できなかった?
ルシカは全て覚えている。
燃え盛る村の中で、ハルは一人の少女を背負って歩くのが精いっぱいの、普通の少年を。
魔獣一体に襲われるだけで死を覚悟するだけの、どこにでもいる凡庸な少年を。
無自覚や未覚醒などという単純な話ではない。鬼の血が発現するならば、あの窮地を置いて他にはなかった。
けれど彼は自分ひとりでは魔獣に抗えない、ただの子供だった。コンウォール村の惨劇時、確かにハルはどこにでもいる普通の人間族だったはずなのだ。
「もう一度聞くぞ。お前は誰だ?」
再会した時の驚愕を、ルシカは永劫忘れない。
勇敢にして凡庸な少年は、数年の間に正視に堪えないほどの変貌を遂げていた。
超常的な生命力と怪力を備えて。
優しい心根は奇跡的にそのままで、この世の迫害を一身に受け、夢を口にすることさえ怖がるような少年になっていた。
――その隣に、いるはずのない『自称弟』を引き連れて。
疑うには、十分すぎる理由だった。
一目見た瞬間から、その存在を示唆された時から自称弟はルシカにとって何より疑念を向けるべき敵だった。
「答えろ。ハルに何をした? ハルに鬼人族の真似事をさせて何を企んでいる。夢一つ見ることさえも怯えるような、あんな――」
「黙れよ、女」
二度目の突風がルシカの黒髪を巻き上げた。
自然風ではない。
ルシカの白い首筋向けてシオンが白刃を閃かせた余波だ。
暴挙は薄皮一枚ほどの距離で急停止するものの、言葉の続きを縫い付けるには十分だった。
「何を企んでるか、なんて。僕がお前にぶつけたい疑問だ。それ以上は、命を賭け皿に載せてから口にしろ」
向けられた敵意の凄まじさが熱気となって肌を炙る。
闇を宿したルシカの眼光は衰える気配も見せず、黒色の炎に似た不可視の威圧感がシオンの瞳を射抜いた。
火花を散らすような静寂があった。
何か一つの引き金で致命的な結果が起こる十数秒の間。
互いの息遣いだけが交差し、睨み合いが続き、やがて。
「――命の使い道は決まってるからな。仕方ない。口を噤むとするよ、ハルの弟」
疲れ切った溜息を吐いたのはルシカだった。
肩の力を意図的に抜くと両手を広げて無抵抗を示した。
首筋にひたり、と張り付いた刃物の冷たさにじわじわと肌の熱が浸透していくほどの時間、空気が冷え込むような重苦しい静寂が二人を包んだ。
「……いつの日か」
痺れを切らしたのはシオンだった。
様々な感情が絡み合い渦を為すような、重々しい呟きだった。
「いつの日か、お前の正体を暴いてやる」
「……ほう」
「お前の素性も本当の狙いも全部、全部、白日の下に晒して糾弾してやる。兄さんを何に利用しようとしているのか突き止めて、それが私たちを傷付けるものだと分かったら――」
小刀をルシカの首筋から、眉間へと移動させ。
「必ず斬る。それまでその首、預けておく」
啖呵への返礼は燻った炎が弾けたような、忍び笑い。
ふ、ふふ、と耐えきれず歓喜に身を震わす黒尽くめが、面白くなってきた、とでも言いたげに両の腕を広げ、歓迎した。
「――いいとも。競争だね? 君が私の真実に辿り着くか、私が君たちの間にあった出来事を突き止めるか。どちらか、確信に至った者が相手を排除し、目的を叶えるわけだ」
「……」
「それはとても、とても素敵な――約束じゃないか」
奇しくも互いの立場は全くの同一。
『お前は誰だ』『お前は敵か?』と問いながら、間に挟まれるハルの存在など一顧だにせず、その隣に立つ資格があるのかを問い、火花を散らす。
身勝手なエゴで形成された対抗心の誕生を、ルシカは心から祝い、喜び、寿いだ。
「一目見た時から大嫌いだった君のことが、ほんの少しだけ好きになったよ、シオン」
「ぺっ」
今夜一番の笑顔と態度で向けられるささやかな悪意を跳ね除けて、シオンはようやくナイフを降ろした。
話は終わりだ。
戦線布告という形できっちり喧嘩を売買した。
シオンは踵を返しベッドへと歩き、ルシカもまた暗闇の向こう側へと消え――
「そうだ」
のんびりとしたルシカの声。
意趣返しとばかりに意地悪そうな笑みを作る彼女は、くすくすと口元を抑えて。
「小刀のことは悪かったね。念のためだったんだ」
ウィンクを一つ残して去った。
疑問符を頭に浮かべながらベッドに腰かけたシオンだが、やがて「ハッ……」と気付いて返却された小刀の刃先を指で押してみる。
すると大して力も入れないうちに、ぐにゅり、と脆い手応えと共に刃先が折れ曲がり、ぱらぱらと白い粉が落ちた。
――粘土だ。
刃に相当する部分、全てがすり替えられている。
それはそうだ。あの女が馬鹿正直に自分に刃物を渡すはずがない。自分の身を危険に晒すだけではないか。
もしも激情に駆られてあの白い首筋に刃を差し込もうとしていたら、どうなっていたか。
彼女はシオンを危険分子と判断し、排除する口実に利用していたに違いない。
「――食えない女……!!」
小刀片手に啖呵を切る自分は、さぞ滑稽だっただろう。
頭に血を昇らせたシオンが地団太を踏むものの、後の祭りだ。
「もう!!」
きぃぃ、と歯軋りしながら柄だけになった小刀を放り出し、シーツを頭から被って不貞寝を決行。眠りに落ちるまで女の笑い声が脳裏から離れなかった。




